十一次元の泡沫
この物語は、フィクションであり、実在の人物、団体、事件等とは、一切、関係ありません。
世界の理。その次元は十一。泡沫が、また現れて往く。
遭遇
何処かの空虚な端末機の画面上に、一粒のあぶくが発生したのだと、私は思った。アカウント名『nana7』。最後の一文字の『7』は何と読むのか、私には分からない。『7』は『なな』と読むのか『しち』と読むのか、それは些細な事のように、諸氏には思われるかもしれない。しかし、私には、それが重大な事件である。
それは、一般的に世間諸氏の理解するところの事件とは異なる。何故ならば、それを『事件』と呼ぶ事柄の根底に存在する精神性が異なるからである。前者の『事件』は、社会一般の耳目その他を脅かす物に対する呼称と、それらを周知させる事への義務と能率性が含まれる。後者のそれは、私一人のみの欲望と不安と恐怖が生み出す執着に対する呼称であり、その根底には、先に述べた通りの個人的私情があるに過ぎない。
簡潔に述べると、それら二つの間には、社会性の違いがあるのだが、ずる賢い私は、その両者ともが、実は同一の個人的好奇心や欲望に産せられているのだと、仮説するところなのである。
『nana7』
『nana7』は、私の希望である。彼女は美しい肉体を持ち、性に奔放である。彼女の息づかいは、天使の如く、その達する声は、天女の嬌声の如くであった。世間がついぞ、私に見せる事のない痴態を、彼女は私の眼前に及ぼし、その光景はルネサンス期の神聖絵画のようであった。
自分の痴態を彼女はアカウントに投稿し、手持ちの画面上で、私は彼女の痴態を見る。そもそも、彼女の痴態は、不特定多数の人間の見るところではあり、私はその中の一人に過ぎない。それでも、私と彼女のいびつな関係を私は卑猥な物だとは思ってはいなかった。
※僭越ながら、ここにひとつの訂正をしたい。それは彼女の弁護でもある。物語の表現上、私は彼女の『痴態』と叙述したが、言うまでもなく、世間に彼女の発信するのは『痴態』のみではなく、『その他』もあったことを記憶に留めておいてもらいたい。
切
別れはつらい。それは子どもの頃からそうであった。その事をふと私は思い出した。憂鬱気質。人は私をそう呼称していた。狂人と常人の狭間にいる半狂人(子どもの頃の私は、それを半常人とは考えなかった。)として、子どもの頃の私は生涯を送った。
子どもの頃の私の周りには狂人と常人がおり、その中で、唯一、私こそがその境界線上に、独立自尊する半狂人という特別な存在であると孤高していた。
それは何故かと言うと、半狂人である私は、常人にも、狂人にも顔が利くからである。常人は狂人の心を知らず、狂人は常人の心を知らぬ。それら偏りの上に成立しているこの世界の中で、私だけは常人の心を知り、狂人の心も知られる。それは、人間として、真に尊い事であり、特殊であり、特別である。そして、その境地だからこそ、生まれる物が真の芸術作品であり、創造物である。概ね子どもの頃の私は、そのような理屈を持っていた。
そのような男が成人した。それも既に長い。そして、今は『nana7』という存在を至上者として信仰していた。物事と時間は非情であった。それらは男が悩んでいる時も変化を止めなかった。男の手元の画面上に現れる事象は、それらとは別の次元に存在していた。仮想世界。それは仮性の出来事であり、そこには仮の時間が流れているに過ぎなかった。
嘔気
食欲不振があり、それにもかかわらず食物を口にした。すると、男に吐き気が襲う。『nana7』のアカウントは消去されていた。然れど、ここで注意しておきたい事は、男の症状の原因は、その事ではないという事である。実に、男の症状の原因は現実世界に起因していた。その時、男の周辺で、誰かが消えた。消えたというのは消失ではない。『別離』。いわゆるところの『別れ』である。そして、もうひとつ、ここで注意しておきたい事がある。それは、その『別離』は社会一般的に見て、男にそこまでの体調不良を催す事でもないという事である。かく言うのは、その『別離』は、男との間には直接的、親密的な関係にはない、普通の人物に対して起こった事だからである。
普通、『別離』の傷は、その対象との親密性や関係性により変化する。しかし、今、この男の身上で、男に進行している別離の傷は、それら親密性や関係性に、比例的相関を伴ってはおらず、そこに『男』の『主観』、それと『別離』という現象の観測があっただけである。そして、その事により、男は自身の望みとは裏腹に、食欲が低下し、胸を引き裂くような切なさに襲われ苦しんでいたのであった。
kawaii
「今日もきれいだね。」
「ありがとう。」
私のもとに『nana7』は戻って来た。彼女は、何も変わらなかった。私にとって、それは良い事でもあり、悪い事でもあった。『nana7』は『nana7』のままであった。私にとって、それは何を意味しているのであろうか、私には不明であった。
投げ銭。いわゆるtip。私はそれを彼女に捧げている。小銭と言える程の少額の献金。その対象は神か使徒か権力者なのか判然としない。
ただ、私は彼女の活動を応援しているつもりであった。その意味では、私は彼女の後援者の脆弱な一部分であるのだろうと思う。多くの細胞を抱える彼女の臓器のほんの一片の、そのまた部分的な細胞。微小生物のように蠢く私は、今宵も彼女に讃辞を送っていた。
「nana7さんはいつもかわいいですね。」
「うれしいです。こちらこそ、いつも応援してくれてありがとう。」
画面上に映る文字列の裏にある『nana7』の気持ちは不明である。そして、それは私自身の場合にも同じ事が言える。健やかなる時も病める時も『nana7』も『私』も、不明朗な文字列の裏に閉ざされた気持ちを、発泡スチロールのように空洞が多い胸の頼りにし、気持ちの遣り取りを遂げる。
その過程において、もし、お互いの心が疑心暗鬼に満ちた時、それは、もはや、己のみを頼りとする修行と求道に同一化する。自身の内に存在する彼女への猜疑心は、実は、鏡に映る虚像相手に向けられている事に気が付くのである。それは相手もいないのに、あれこれ思いを巡らせ、怒り、許し、悲しみ、右往左往する一人相撲のようであり、そのような事は、仮想世界であっても、現実世界であっても、案外、同じ事なのだと、私は思っていたし、案外、それらの精神的苦痛には割り切って、彼女に対していた。
別離
「お世話になりました。〇〇さんもお元気で。」
「こちらこそ。ありがとう。」
春が近付く頃が、別れの季節の到来でもあった。私の周囲でも、それは濃厚であった。
「あ……、いく……。」
「今日もかわいかったよ。」
画面の中の小さな窓枠で、彼女は喘いでいた。
「今日もありがとう。」
いつもの交流を笑顔で見送るのは、私も彼女も同じである。ただ、毎日の形式的な遣り取りの中で、ちょっとした憂鬱に、またもや、私は襲われていた。それは、昼間の別れの季節の到来の余韻であった。私の打つ文字列は半ば形骸化していた。それでも、記号という信号によってのみ通じる情報の遣り取りにおいては、それで十分であった。
そう思った時、ふと、男の体に嘔気が襲った。それは、男の心臓を揺らした。その衝撃が響いて、男の胸はビリビリと、裂けていった。
「今日もかわいいです。ありがとう。」
それきりの遣り取りは、私の空虚を何ら慰めることをしなかった。ただ、興奮が薬物のように私を覚醒させた。しかし、その物質が私の胸の痛みを鎮静化させることはない。私の胸は張り裂けそうにつらいままである。
そういう時、私は『生死』を想い起こす。昔の人は『生きるという事は苦しみである。』と説いたらしい。その言葉の意味が私の体に共鳴された。最期に訪れる自身の死。中途に訪れる他者との別離。いずれ訪れる避けることのできない時点。
時というものは残酷なものである。あの頃に戻りたいと思っても、戻る事はできない。いずれあの頃になる『今』をどう生きようと、別離はまたしてもやって来る。自分の意識がその事を忘れたとしても、客観的世界では、その現象は止められず、今も時は進んでいた。その現実は、私の胸を揺さぶり、体に嘔気を催させた。
寂雨
『nana7』は、何故、このような振る舞いをしているのだろうか。今まで、その疑問は、男の心中にあることを知りつつも、私が知らぬそぶりをして来た感情であったが、別離を告げる春の陽気に惹き付けられた男の心情の弱体化が、その事を今更ながらに想い起こさせた。
電磁気的信号を通してとは言え、衆前で痴態を曝け出すという所業。そして、毎日のようにそれを眺める所業。その間に貨幣の流通がない訳ではない。ただ純粋に貨幣とサービスとの等価交換がその目的であるならば、それは逆に、これほどまでに男を懊悩させ得る所業にはならなかったはずである。そこには見る者と見られる者。認知する者と認知される者との間柄に、観る事のできない内心的取引が介在しているように、男は感じていた。
「今日もありがとう。お疲れさま。」
「〇〇さんこそ、いつもありがとう。」
男の感情と『nana7』の感情との間に同調はあるのだろうか。画面上の文字列を介在にして、感情の遣り取りをしながら、いつも、私は、その実、自分が対面しているのは己の感情のみである事に気付かされる。
『nana7』の振る舞い。発信された言葉。一挙一動に至る所、それらは男の感情を奮い立たせる作用を持ちながら、それと同じ『nana7』の振る舞い。発信された言葉。一挙一動に至る所、私の快楽を充足させる為だけの物質として、男が受容している事に気付く。
本来、そのことは気付かなくて良い事ではある。お互いがお互いの欲望に忠実でありながら、そこに至る本音の真実は知る事はなく、それが存在する事さえも気に留める必要がないまでに満たされた状態。それこそが平和であり、安定した状態であり、普通なのである。
もし、そこに一片の疑念が生じよう物ならば、ひび割れは亀裂となり、裂け目となり、疑心と勘繰りの暗中に、そこに住む者たちを落とし込む事になるであろう。
そのような否定的歪みを伴う認識を持っている男が感じている感情は何なのだろうか。男は、何故、彼女を欲するのだろうか。春の陽気に、男と私との曖昧な人格が寂雨に晒されていた。
男
その男は会社員であった。どこにでもいるありふれた職業人の一人である。彼の言動に目立った所はない。例えば、この男が広場を歩いていたら、群衆の中で、この男に、わざわざ目を向ける人間がいるとは思えない。この男は、一人の男であると同時に、群衆を構成する一部分であり、それは大きな生物を構成する一臓器、いや、一片の細胞でしかなかった。
「今日も一日、お疲れさまでした。」
「ありがとうございます。」
ありふれた内容の会話。社交辞令としても実在するか疑わしい言葉を、毎日、男は吐いていた。それは、仮想世界での事であり、現実の社会においてではないが、SNSサービスを通して『nana7』というアカウント登録に対して行っていた。
「今日もかわいい。」
「ありがとう。」
「いつもステキです。」
「うれしい。」
「大好き。」
「わたしも。」
男の求めているものは何なのだろうか。私は、男に指示されるがままに、文章を入力するだけである。その意味では、男が巨大な社会の一部分であるのと同様に、私もまた、男を構成する一部分ではあった。
「うれしい。」
「わたしも。」
「かわいい。」
「ありがとう。」
「ずっと一緒にいて下さい。」
「わかった。ずっと一緒にいようね。」
端末機の画面上に文章が現れる度に、男の琴線が揺れるのを感じた。それは、文章を入力する時も、受信する時も変わらなかった。
「大好きです。」
「わたしも。」
何度、同じ内容の言葉を送受信したか忘れてしまった。そもそも、私はそれを数える事もしなかったし、数えようとも思わなかった。ただ、その度に、男の琴線が、公園で揺れるブランコのようになっていた事を私は覚えている。
そういった事もあり、私は男の事を繊細な人間だと思っていた。男の心に潜む重さ、軽さ、痛み、苦しみ、悲しみetc.それらを味わいながら、この男は苦しんでいる、悲しんでいる、つらいままであるetc.と思いを馳せてきた。
それらを続ける内に、私の心は男と同化し、この男の全体に覆われる雨雲のような感情が、何であるのかに、私は気付く事ができた。
「寂しい。」
「わたしも。」
その瞬間、『nana7』と男は、生まれて初めて、同調していた。それが、彼女と男を繋ぎ止める唯一の感情なのだと気付いた。
泡沫
十一次元とも言われるその中の半分にも満たない僅かな次元によって、満たされた池。その表面が波立つと、やがて、その波長は流れとなり、川となった。
始まりも終わりもない、その川の流れに、何かのきっかけであぶくが生まれた。それはすぐに消えた。よく見ると、川は動いているのか、動いていないのかさえも分からない。その川とも池とも思える、その表面のあちらこちらで、あぶくが生まれては消えていた。
それらは、何かを求めては波紋となり、やがて、消える。彼等は、何を求めているのだろうか。誰もいない、どこにも繋がらない虚空の表面を、ただ、ひたすらに、何かを求めて、伝わっては消えて往く。その正体は、人々の感情なのか、はたまた、人間存在そのものなのか、永遠に知られる事はできない。唯一、識られる事は、それが、何物とも区別のできない、ただの次元の波が創り出した幻想だと言う事である。
附記
この文章にある男の原型ともなった私の友人の男は、その後、医師より適応障害という診断を受けて、目下、通院治療をしながら、社会生活及び会社勤めを続けているという事を述べ留めておく次第である。