5、筆跡
紫錠家の結界を破る計画のメドが立ったのは二月半ばだった。元々ある程度紫錠家の結界について調べ終えていたので、礎石の性質を元に考えられる限りを尽くし、術符を精製した。
計画の日まで慎理が紫錠家から出ることはなかった。万が一にも義旺との接点を見つけられない為だ。彼女とのやりとりは猫のちゃちゃ丸の首輪に紙片を挟み、端的な文通をしていた。
『まるで平安時代の恋文ね』
なんて冗談を抜かす慎理の神経を疑った。
(中身は暗殺計画だぞ)
一方、その頃慎理は、ちゃちゃから届いた紙片をそっと胸元に仕舞った。そして縁側に座ってちゃちゃ丸を膝に置く。
最後に義旺と会った日に交わした言葉を思い出す。
『いいか、チャンスは一度だ。あの結界は触れた瞬間に術士に知られてしまう。もし俺の術符で通れなければすぐに逃げろ。その時はどうにかしてやる。契約不成立だからな』
慎理はくつくつと笑って、ちゃちゃ丸を撫でた。
「変に律儀よねあの人」
柔らかい毛の感触を味わう。ちゃちゃ丸と出会ったのは藤郷家の近所だった。可愛くて何度も愛に行っていたら、雅子が飼い猫にするのを許してくれた。随分可愛がった。むしろ自分に癒しをくれた恩人だった。これが最後になるからと今日は朝からめいっぱい可愛がった。
「でももうお終い」
やがて慎理はちゃちゃ丸から首輪を外し、庭に下ろした。
「お行き。屋敷の外へ。きっと今夜は嵐になるもの」
ちゃちゃ丸は賢い猫だ。一度だけ振り返って、姿を消した。
慎理は日が暮れるのを待った。約束の時間は午前零時。全ての人間が寝静まった頃。
慎理は足を音立てることなく、寝間着で屋敷の奥へ向かう。いつもの慎理なら絶対に立ち寄らない場所。金剛の部屋だ。
金剛の部屋には強い結界が張られている。金剛を殺すには必ずこれを破らなければならない。
考えあぐねていたところ、偶然にも義旺と出会ったのは数奇な運命だった。迅宮家の結界術は宣旨五家の中で群を抜いている。そして他家に負けない野心を持ち合わせていた。
それは取引をするのに全ての条件を兼ね備えていた。
ふと庭にある松の枝に鳥が一羽止まっているのが目に入った。それが義旺の依代となっていて、鳥を通してこちらを見ていることは勘で分かった。
慎理は胸元に仕舞っていた紙片を取り出して、折りたたんであるのをゆっくりと開いていく。
(ううん、違うわ。きっとそれだけじゃあ、正月のあの日、自分の身を危険にさらしてまで義旺を助けなかった。私はただ単に彼の──)
術符を結界に当てようとしたまさにその時だった。突然屋敷全体を揺るがすような爆発音が響いた。
「げほっ、げほっ……」
義旺は感覚を切るのが遅れて、目を押えながら車の中で全身の痛みに悶えていた。
爆発に巻き込まれた依代の鳥は死に、自分の体に引き戻された。鳥との接続を切るのが遅れたのは、爆発の間際、紫錠家への侵入者を視界に捉えたからだった。複数の術士を引き連れ、真ん中に居た獣化した女だ。
「くそっ、百合香め!!」
義旺はハンドルを拳で叩き、エンジンをかけて思いっきりアクセルを踏み込んだ。
(今慎理に死なれたら困る!全ての算段が台無しだ!)
義旺は万が一に備えて紫錠家から一キロほど離れた場所に車で待機していた。だからすぐに現場にたどり着いた。
紫錠家に到着し車を降りた瞬間、爆発音が響く。目の前の光景に目を疑い、息を飲んだ。堅固な門が壊され、塀が崩れ中の様子が丸見えだった。中では社の術士と紫錠の術士が衝突し、爆発が絶えず地面がえぐれ、あの美しい日本庭園は荒れ果てていた。戦いの激しさが増していく。
ふとその中に百合香の姿が無いことに気付く。
(慎理はどこだ!百合香の狙いは慎理だ!)
百合香は長い間実睦に一方的な恋慕を抱いていた。正月の総会でも、婚約者に内定した慎理のことを恨みがましく見つめていた。
百合香は感情的になれば誰の手にもつけられないたちだ。あの雅子でさえ、獣化の直前でなければ止められなかっただろう。
そして戦況は、紫錠家側の術士が圧されていた。義旺は眉をひそめる。本来の紫錠家の実力を発揮しきれていないのは中心となる将が居ないから。
(実睦はどこに行ったんだ?百合香の場所か?それともまさか侵入者を放っておいて慎理を追いかけたのか!?)
それにしても屋敷の方が不気味なほど静かだった。術士の他にも使用人が居るはずだが、すでに逃げたのか。意外なことに屋敷に張り巡らされていた結界がほとんど消えていた。
義旺は屋敷の中へと走った。
(まさか金剛を殺せたのか?)
だがそれはまだだと気付く。慎理が侵入しようとしていた当主の部屋の前には強力な結界が健在だった。義旺は予備に用意していた術符を取り出す。慎理が術符を使う前に鳥との接続が切れたので、この術符が使えたのかは分からないが、ここまで状況が混沌に陥ればもう気付かれようが構うものではない。
上手くいけばこの部屋の奥で死んでいるのは金剛。上手くいかなければこの部屋の奥で死んでいるのは慎理だ。
結界に術符を当てる。すると術符は火花を放つ。義旺は眉をひそめる。
(やはりだめか……)
しかし術符はやがて結界に同化し、周りの結界を分解して人一人が通れるくらいの穴を作り出す。
術符が上手く発動したことを喜んでいる暇はなかった。義旺は結界の中へと入り、当主の部屋の障子を開ける。
そこには誰も居なかった。争った形跡すらない。
ふと、文机の上に薄く積もったホコリに気付く。しばらく誰もここで生活していない証拠だ。
(どういうことだ、慎理は当主の部屋に入ったんじゃなかったのか!)
不意に部屋の奥にある襖が蹴破られる。現れたのは刀を持った金剛だった。
「金剛!」
義旺は霊力を固め、短刀を作り出す。
だが金剛の様子は不自然だった。目は開いているが、体の動きがぎこちない。そして義旺に対して一言も発しない。意思疎通が出来ないのだ。
(まさか、死体なのか?)
金剛は返事をしなかった。打ち込んでくる金剛を短刀で受け流し、義旺は徐々に壁側に追い詰められていく。
──と見せかけ、金剛が刀を振りかざした瞬間頭を下げて切っ先を避ける。刀は壁に刺さって金剛は手間取る。その隙をついて義旺は金剛の心臓を一突きする。
金剛は呻き声もあげることなくその場に倒れ込んだ。体から血は出ず、まるで人形のようだった。
義旺は肩で息をして、しばらく呼吸を整えた。
(やはり元々死体だったのか。それにしても慎理はどこへ……)
「ニャー!」
不意に外から猫の鳴き声がした。
(ちゃちゃ丸か?いや、鳴き声が違うな)
しかし義旺はある可能性に思い至る。
短刀を引き抜くと、それまで透明化していた術符が現れ刀に刺さっていた。金剛を操っていた術符だ。
術符には術者の描く紋様と真ん中に『錠』という字が書かれていた。その筆跡には覚えがある。正月の総会の招待状で見た署名と同じ。
(──実睦!!)
義旺は実睦の部屋へと走った。
(慎理め、猫に自分の身代わりをさせていたのか!)
義旺が慎理だと思って監視していたのは、身代わりの術符を貼られたちゃちゃ丸だったのだ。つまり慎理は最初から金剛が狙いではなく、別の場所に向かっていた。義旺には告げずに。義旺を巻き込まない為に。
「くそっ、元々死ぬ気だったのかあの女!」