4、深淵
暗闇の中、無数の手が彼の足を引きずり下ろそうとする。自分一人ではびくともしないような強い力で引っ張られ、やがてその手は腹を、腕を、喉をも掴み、彼の息の根を止める。
「う、ぁ・・・・・・」
苦しい。息ができない。自分を掴むのは誰かと問いかけることすらできない。
やがて力に圧し潰されて肉と骨が砕かれ、身が原型を保てなくなる──。
「───兄様!」
「はっ!」
うなされていた実睦を揺すり起こしたのは慎理だった。
目が覚めた実睦はキョロキョロと見回して、やがて慎理に焦点を定める。慎理は気遣わしげに実睦を見つめた。
「大丈夫ですか?」
「夢、か・・・・・・」
「うなされていました。また、悪夢ですか?」
「ああ」
実睦は毎夜うなされている。こうして起こさなければ死んでしまうのではないかと思うほど尋常に苦しむ時さえあった。
だから慎理は実睦の隣に布団を敷いて、気を張り詰めながら眠る日々を過ごしていた。
覗き込む慎理を、実睦は愛おしげに抱き締める。
「起こしてくれてありがとう」
「いいえ……」
実睦がうなされているのは呪詛によるものだった。だが紫錠家当主である彼に呪詛を飛ばすことが出来る人間は限られている。
「おじい様は僕のことを恨んでいるんだ」
実睦の祖父にして先代紫錠家当主、金剛だ。実の孫に対してこのような仕打ちをするはずがないと周りは言うが、実睦は一向に呪詛返しをしようとしない。それは自分の『罪』を認めているからだという。
「兄様は私を助けてくれただけじゃないですか。恨むのなら私を恨んでいるはず」
「いいや、違う。金剛はずっと、ずっと昔から僕のことを……」
不意に実睦の言葉が途切れた。
「兄様?」
実睦は青い顔をしたまま眠ってしまっていた。慎理は実睦の額の汗を袖で拭って、そっと実睦の腕から逃れる。そして布団をかけ直し、その寝顔をじっと見つめていた。
***
女の霊がさ迷っている、鎮魂して欲しいと依頼があった。
義旺は依頼主から報酬を受け取り、目的地の海に車を向けた。
浜辺は遊泳禁止区域で、人の気配は全くなかった。だがそこには髪の長い女の幽霊がさ迷い、身の内側に邪悪な気配を潜めていた。
生前この浜辺で事故死した女がこの世に未練を残し、ここから立ち去れなくなっていた。つまり地縛霊だ。
義旺はカバンから錫杖と術符を取り出す。スーツに錫杖というのもはたから見れば違和感のある格好だが、義旺は和装を好まなかった。なので基本スーツを着ている。
女の霊は自分を祓おうとしている義旺に気付き襲いかかってきた。しかし義旺は霊をものともせず、錫杖で振り払い術符を投げる。術符は女の霊を束縛した。
そして別の術符を取り出す。
「祓えたまえ清えたまえ──」
義旺は術符を口元にあて、霊力を注ぐ。
術符から淡い緑の光の胞子が溢れ出てくる。術符を貼り、錫杖を突きつけると、光が女の霊を繭のように包み、女の霊は半透明になって、やがて姿を消した。
すると後ろから誰かが義旺に歩み寄る気配がした。
「手際がいいのね。でも本当に手際を良くするなら鎮魂ではなく破壊を選んでもよかった。どうしてあの霊を祓おうと思ったの?」
そう言ったのは慎理だった。笑ってはいるがこの場所で居るのが寒いのか、自分のコートの襟元を掴み、強い海風をしのいでいる。
今日は慎理との予定と依頼が被ってしまったので、義旺はしかたなく慎理を連れて来ていたのだ。
「別に。あのやり方が俺の一族の性質と合っているだけだ。寒いなら車で待っていろと言っただろ」
「いいの。あなたがどんな術士なのか見たかったから」
「……それで、俺の実力の検証は終わったか?」
「ええ」
慎理は薄く笑んだ。
「行くぞ。仕事は終わった」
「待って。あと一分だけ」
そう言って慎理はのびのびと腕を広げ、太陽の光を気持ちよさそうに浴びていた。冷たい潮風、強く打ち付ける波の音。その全てを吸収しようとしているようだった。
「海に来るなんて久しぶり」
義旺は黙って慎理を見つめていた。
紫錠家では常に着物姿で愛想笑いを浮かべている。だが義旺と会う時は洋服を着て髪も結わず、化粧もほとんどしていない。そもそも慎理の生まれ持った美貌には化粧なんて不必要なくらいだった。
いったい本当の慎理はどこにいるのだろうか。
義旺は慎理を助手席に乗せ、迅宮の家へ向かう。
「それより、お前は尾行をまいているんだろうな?」
「ええ。彼らは今頃赤の他人を私だと思って追いかけているでしょうね」
あっけらかんと言うが、これは並大抵のことではない。
かりにも慎理は紫錠家当主の婚約者だ。普段から分家の術士がボディーガードに付き添っている。だがそれは厳しい監視下に置かれているのと同義。
慎理が一人で出歩けるのはこの前の墓参りのように、特殊な場合を除いてほとんどない。
だから慎理は通りがかった見知らぬ女に術符を貼って、まるでその女が慎理であると見張りの術士に思い込ませたのだ。
(没落したとはいえ、嵩薙家の実力は今なお宣旨五家を上回っている。これが旧三家の実力なのか)
やはり宣旨五家よりも前に選ばれたのには理由があるのだ。過去の旧三家当主が謀反など企てなければ、確実に今も栄華を誇っていたはず。人は時に欲に飲まれ、浅はかな行動に出るのだとしみじみ感じ入る。
迅宮の家に到着し、義旺は慎理を地下の書庫へと案内する。ずらりと並べられた書物の数に慎理は目を見張った。
「すごい、紫錠家にも劣らない冊数だわ。これ全て結界についての書物?」
「ああ。元々俺たち迅宮家は知力でのし上がってきた一族だからな。門外不出の書物ばかりだ。上の部屋にもまだあるが、結界に関連する書物はここにほとんどある」
「そんな大事な所に私を入れてもいいの?」
「俺一人で探すには無理がある。それに、結界は知識を元に、何度も試行錯誤を繰り返し、錬成と分解を学ぶ。お前が要望しているのは分解だ。他人が錬成した結界を分解するのは、その人間を全て理解するに等しい。書物を読むだけでどうにかできるものじゃないから、お前が誰に漏らそうが構わない。迅宮家の何百年の歴史に追いつける訳がないからな」
「誰にも言わないわ。私は、あなたが私を信頼してここに入れてくれたんだと思ってる。本当に情報を漏らすような人間は、あなたはここに入れないと思うから」
義旺はふんっと鼻を鳴らした。都合良く解釈する女だ。
「お前はあの式神の術についてどこで学んだんだ?」
「旧三家は表立って家を構えることができないの。所在が明らかになれば宣旨五家に狙われることもあるから。だからこんな大きな書庫も書物も無くて、全て口伝えよ」
「正気か?あの高度な術をどうやって?」
「幼い頃にみっちり仕込まれるのよ。そして体が覚えるまで骨の髄まであらゆる術を叩き込み、子孫に伝承していくの。そうして素性を隠して生きていくのが旧三家の運命なのよ」
「つまり迅宮家と嵩薙家はまるで反対の生き方なんだな」
「そうね。でも、分かり合えないとまでは思わないわ」
「勝手に言ってろ。さあ取りかかるぞ」
義旺と慎理は片っ端から書物を読み漁る。
「礎石の歴史について書かれている書物を探せばいいのよね」
「ああ。礎石は各家々が協力し作り上げ、結界の柱にされたものだからな。陣地の中心にある紫錠家の結界はそれに馴染む結界を敷いたはず。つまり礎石を調べれば紫錠家の結界を解く鍵になる」
だが正直、結界の構造を知ったからと言って結界の分解が上手くいく保証はどこにもない。金剛の居る最奥へ侵入しようとしたことがバレて殺されるかもしれないし、そもそも慎理が金剛を暗殺し損ねて逆に返り討ちにあう可能性だってある。
(いや、こんな所でつまずくようでは迅宮家の再興なんてできない。陣地の結界を揺るがせる好機を逃すものか)
義旺は一心に書物を読みふけった。
ふと、慎理はある書物に目が止まった。
「これ、絵巻物?」
墨で鳥が描かれ、鳥は険しい山や濁流の川を越えて新天地にたどり着く物語だった。
「ああ、たまにそんなものが混じってる。整理が追いついていないんだ。置いといてくれ」
しかし慎理には何か惹かれるものがあったのか、食い入るようにその鳥を見つめていた。そっと鳥の絵に触れる。
「蛇に飲まれそうになったり、人に射止められそうになったり。でもこの鳥はどんな困難が訪れようとも、自分の求める場所へ飛んでいきたかったのね」
「さあな。興味が無い」
「あなたは誰かを憧れたことはある?」
「ない」
「一度も?」
「ああ」
「私はある」
「突然何の話だ」
さっさと手を進めて欲しいと苛立つが、慎理は話を続けた。
「その人はとても自由だった。家の言いつけを破り、自分の信念を曲げずに、私を助けてくれたわ」
義旺は手を止めずに耳だけ傾けていた。
(実睦のことか?)
慎理は絵巻物を片付け始める。
「でもその人は囚われているの。過去に。家の歴史に」
「それはお前もそうじゃないのか?」
「私はやりたくてやっているの。囚われているわけじゃない。でもあの人は違う。望まれていない希望を背負って、翼を無くしてしまった。その人は私の憧れた人ではなくなってしまった」
「なら忘れたらいいだろ」
「そう。術士の世界ではこんなもの不要な感情よ。でも不思議と私は今もあの人を追いかけているの。私に希望を見せてくれた人。だから今度は私はあの人を救いたい。どうしたらいいのかしら」
義旺はため息をついた。
「お前が救おうが救わまいが、そいつはそいつの人生を生きている。お前が口を出す必要は無い」
「その人が苦しんでいても?」
「お前自身が苦しいわけじゃないだろ」
「厳しいのね」
「お前が甘いだけだ。いい加減無駄口を叩かず手を進めろ」
「あったわ。礎石の起源よ」
ギョッとして振り向くと、慎理がいたずらっぽい笑みを浮かべていた。
「お前なあ!」
「さっきたまたま見つけたの」
「先に言え!」
「ごめんなさい」
しかし全く悪びれていない。
(何がしたいんだこの女は)
これ以上時間を無駄にはできず、義旺は慎理を不問に処した。
書物によれば、旧三家の陣地を奪い合って、宣旨五家はある一点に礎石を置いた。それは妖の骨で作ったこの世あらざるもの。邪悪な気配に包まれ、今も石の中で蠢いている。そして二十年かに一度、礎石は貯めた妖気を解き放ち暴れ出す。そうなる前に、宣旨五家の当主たちは、その妖の霊を鎮めるために生贄を捧げてきたという。
「礎石は妖の骨から作られていたのね。術士のくせになんておぞましいものを……」
「宣旨五家がのし上がってきた裏には大抵こんな理由が付き物だ」
義旺は顎に手を当て考える。
「つまり礎石を守っているの結界は妖を捕えるものと類似している可能性があるな。となると俺たちの予想を上回る強度な結界かもしれない」
「それでも今が最も、結界が緩んでいる時期と言えるわ」
「どういうことだ」
「紫錠家前当主、金剛は二十年に一度捧げる生贄を殺してしまったの。三年前にね」
「三年前?」
「生贄になるはずだったのは、私の母よ」
義旺は慎理の瞳の奥にある虚ろな気配に目を見開き、そして慎理の襟元を掴んだ。
「お前、まだ何か隠しているな。金剛は嵩薙家を疎ましく思っていても、いくら何でも生贄と決まっている者を殺すはずがない。そこまで耄碌しているのなら紫錠の一族が金剛を生かしておくものか。術士の家系がいかに冷酷かお前だって分かっているだろ!」
霊力を固体化させ、短刀を作り出した。担当を慎理の首筋に当てる。
「言え!何を隠している!」
「三年前、紫錠金剛は嵩薙の隠れ家を襲撃した。理由は気に入らない嵩薙家を滅ぼす為。もう一つ、私を囲って愛人にする為」
「!」
慎理は自嘲めいた笑みを浮かべた。
「金剛は確かに耄碌していたわ。よりによって自分が心の底から疎ましく思っている嵩薙の娘を愛人にしようとたくらんだんだもの。受け入れたら命だけは助けてやると。でも私の両親は拒絶した。本当に身命を賭して私を守ってくれようとしたんだと分かる。でもその結果二人は殺された。私も抵抗して……結局は殺されそうになった。そこに駆けつけたのが雅子さんと兄様よ。金剛が動いたと知って助けに来てくれたの。そして哀れんだ雅子さんが私を引き取って、藤郷の家で育ててくれたの」
義旺はハッとした。
(雅子は慎理の素性を知っていたのか!)
正月の総会では何知らぬふりをして、あたかも慎理とは初対面を装っていた。だがそれは全て演技だったのだ。
百合香にあれこれ聞いていたのも、どこまで慎理の情報を掴んでいるのか確かめる為。
義旺は舌を巻く。やはり侮れない。一族きっての女傑と言われるだけある。
「いつか私は術士とは無縁の生活をして生きていくつもりだった。でも事が動いたのは今から三ヶ月前。突然兄様から和睦を申し入れられた。素性を隠しているとはいえ、藤郷の家で暮らしていてはいずれ生贄として差し出されるかもしれない。紫錠家として責任を取って迎え入れる。そして義妹となり婚約者になって欲しいと」
義旺は眉をひそめる。
「道理にかなっていない。実睦は本気でそれがお前への贖罪だと思っているのか。奴はお前に心底惚れている。その理由に使われただけじゃないのか?」
「かもしれないわね。私だって気付いているわ。兄様のまとわりつくような視線がどういうものか。でも、それは私にとっては好都合。あの日、兄様から申し入れられた瞬間、忘れかけていた私の復讐の炎が心の奥底から蘇ってきたのよ」
慎理は義旺を真っ直ぐに見つめた。
「私は必ず金剛を殺して一族の仇をとる」
決意に満ちた目、彼女が常に押し殺していた感情は復讐だったのだ。義旺は短刀を消した。
「それで、金剛は今どうしている」
「金剛こ生贄を殺した行為は一族の中でも追及され、蟄居が決定した。そして家督を兄様へと譲ったの。でも礎石は渡さなかった。そして礎石を守る最奥の結界から滅多に出てこないの」
「生きているのか?」
「時々姿は見せているわ。それに金剛は兄様を恨んでいて、毎夜呪いを飛ばしているの。だから兄様は毎夜うなされているわ」
「悪夢を見せるなんて、随分子供じみた嫌がらせをするじゃないか」
慎理は目を伏せがちに答える。
「単純な術の方が強い効果を発揮しやすいのよ。おいたわしい兄様」
それにしても他にも何か手があっただろうに。義旺は思った。人を苦しめる術はいくつでも存在する。果たして悪夢を見せるその真意は何なのか。
(考えたところで無駄か。人の心の内なんて当人にしか分からない)
だから義旺は、ひとまず目の前の取り引きに集中することにした。