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俺の息が切れる、つまり悲鳴が途切れる隙を見計らって、彼女は再び口を開いた。
「ヒロキ・ミナガワ、落ち着いてよく聞いて。ここは天国でも地獄でもないし、私もあなたをどうにかするためにやって来た悪魔や死神なんかじゃない。改めて、あなたに何の危害も加えないことを約束するわ。だからお願い、声を上げるのをやめて、私の話を聞いて」
年齢こそまったく違うが、一六年ぶりに見る――いや、写真でなら最後に見たのはつい昨日のことだが――妻の顔が、彼女にしてはくだけた口調で、しかし事務的な言葉を紡いでくる。そんな常軌を逸した状況に目眩を覚えつつ、両手を挙げて後ずさる彼女に害意はないことを悟り、一応警戒を解いてみせるように、こわばりきっていた肩の力を少し抜く。そうだ、あいつに恨まれるいわれがないとは言わないが、命までどうこうされるのはさすがに逆恨みが過ぎるというものだ。
「……ん?」
ここまできて、俺はようやく理解する。そう、俺はまだ生きている。彼女はそういう趣旨のことを言ったと思う。確かに、天国にしても地獄にしても、今俺がいる六畳程度の部屋はあまりにこぢんまりとしすぎているし、安っぽすぎる。世界中から不要品をかき集めたような、ことごとくちぐはぐな調度品。昨夜のベッドとは似ても似つかない、硬い寝台と薄く色褪せたタオルケット。要するに俺は、薬の副作用によって迎えるはずの死を迎えないまま、どこか知らない場所へと拉致されてきた、ということらしい。
徹頭徹尾わけのわからない現実を突きつけられつつも、どういうわけか俺の中の恐怖めいた感情が薄らいでいることに気がついた。それは目の前にいる妻――いや、若き日の妻そっくりの少女の、努めて穏やかな口調と態度によってもたらされる、一種の安心感に取って代わられようとしていた。
「大丈夫かしら」
まだ戸惑いは残っていたが、こちらを気遣うように恐る恐る声をかけてくる彼女に、俺はできるだけしっかりと肯きを返した。
「まず、要点だけ話しておくわ。おそらくだけど、あなたは今後、これ以上若返ることも、逆に老いることもない。病気になることも、理論上はない。大きな事故に遭うか、自殺でもするかしない限り、ずっと――どのくらいかははっきりしないけど、かなり長い時間を生き続けることになると思う。そして――今いるこの『島』を出ることは、許されない」
これ以上、という言葉に思わず反応して手をやった頬には、昨日まで(なのかどうか、正確なところはわからないが、少なくとも最後に眠る直前まで)と同じように、艶やかで瑞々しい十代の肌の手触りがあった。
やはりと言うべきか、彼女の言うことは完全に常識の範疇を超えたものだった。しかし、不思議と彼女が狂っているとか、これはそもそも夢なのだとか、そういう形で頭ごなしにそれらを否定する気は起こらなかった。彼女の堂々とした語り口や挙動は見たところまったくもって正常だったし、硬い寝床のせいか俺の背中は痛かった。そして何より、確実に死んでいるはずの俺がこうして――十代半ばまで若返った姿のままで――生きていること以上に、不可解なことなどないのだった。
「ごめんなさい、自己紹介が遅れたわね――私はアーネスティーン・クラウディア・チャン。ティナ、って呼んでね」
そう言って彼女は初めて俺に微笑んだ。当たり前と言っていいのかわからないが、その名は妻のユキエとは一文字も合っていないし、姓もミナガワでも、ユキエの旧姓のオオノでもない。
「さて、色々疑問は尽きないだろうけど――とりあえず、何でも訊いてくれて構わないわ。生きてこの島を出る方法とか、そういう無理難題でもなければ、ね」
冗談めかして言葉を切ると、彼女は自分の言葉に小さく吹き出したが、俺にはそれがどの程度笑えるジョークなのかは見当もつかなかった。
「そうだな、とりあえず……」
こんな状況で言っていいものかと少し迷ったが、こちらとしては差し迫った事情でもあるし、何でもこいとばかりに胸を張るティナを見ると、背中を押されたように言葉が続いた。
「トイレは……どこにある?」
二度、三度と目をぱちくりさせた後、ティナはどっと笑いだした。ユキエとは似ても似つかない、豪快な笑い声が、締め切られた窓をほんの少し震わせる。
ひとしきり腹を抱えて笑うと、ティナは目をこすりながらこちらに向き直り、
「ごめんなさい、あんまり真面目な顔で言うもんだから、つい、ね――トイレは部屋を出て左よ。どうぞごゆっくり。戻ってきたらまたお話をしましょう」
と言って、さらに口角を上げた。
その笑顔は、ユキエによく似ているようで、やはりどこか違うようにも思えた。