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フローズン  作者: 志野 友一
第一部 ハカセの異常な環礁 または俺はいかにして病死するのを止めて隣人を愛するようになったか
3/92

 生き続けることだけが、俺が彼女にできる唯一の償いだと思っていた。

 一六年前、彼女は苦しみながら死んでいった。そのすべてが俺の責任だとは思っていないが、その最期が最良のものとは言いがたい、ということに関しては、少なからず責任を感じていたのもまた事実だった。

 半世紀以上にわたり、俺にとって誰よりも大切な存在であり続けたユキエ。学生の時分も、また夫婦になった後も、共に老いていく日々の中でも、それは寸分も揺るぐことのないものだったと、今なお胸を張って言える。

 彼女の分まで、生きなければいけないと思っていた。その思い出を風化させないために、そしてその魂への贖罪を続けるために。それは想像していたよりも遥かに孤独で、悲しい作業だった。それでも、俺にできることなど他に何もない。その苦しみを、甘んじて受け入れる以外ない。一六年間、そう思って生きてきた。

 しかし、そんな後半生の終わりは、存外早いタイミングで訪れた。

その病は、よく知られているように、何の兆候もなく俺の身体を襲った。持っているものを取り落とすことが増えた時点では、年齢から来る衰えだろうと高をくくっていた。しかし、日増しに全身を疼痛が襲い、身体の動きは重くなり、寝たきりになるまでには一ヶ月とかからなかった。

キャロライナ=ヘンダーソン症候群。全身の筋肉に強烈な痛みと麻痺が発生し、最終的に死に至る、原因不明の難病だ。俺に残された時間は、過去のデータに照らして、およそ二ヶ月――医師はいかにも沈痛そうな面持ちで、そう宣告した。

皮肉にも、ユキエを最期まで苦しめたのと同じ病魔が、俺の命をも奪おうとしていたのだった。


 もう十分だという、ユキエからのメッセージなのかもしれない。神も仏も信じてなどいないが、人智を越えた何かはきっとあるのだと思う。

一六年間、生きていることに楽しさを見出したことなど一度もなかった。この病気に何かの意志が介在しているとするなら、それは俺の苦行を終わらせてやろうという慈悲に他ならない。

 ユキエの場合は進行が遅く、闘病生活は二年近くにわたった。その辛さはどれだけ近くにいようとわかってやれたとは言いがたかったし、特に今際の際には、きっと苦しい思いをさせてしまった。せいぜい二ヶ月ですべてが終わると考えれば、むしろ俺の方が、苦しみの総量はずっと少なくて済むぐらいだ。

 せめて俺も、少しでも同じ苦しみを味わって逝こう――そんな決意とともにスタートした俺の入院生活だったが、実を言えば当初から、()()()のことが頭になかったわけではない。一六年前には影も形もなかったはずの、画期的な新薬。自分だけが楽をするわけにはいかない、という思いと、その薬の()()()()()に対する期待や好奇心、そして日に日にコントロールを失い、痛みにさいなまれていく身体。それらの狭間で、俺はしばし揺れ動き――

そして、結局は音を上げた。


 過去にその薬を投与された患者がすべてそうだったのと同様、俺もまた、それによって生き永らえるということはないはずだった。厳密に言えば、余命二ヶ月の宣告を受けてから二週間ばかり逡巡を重ねた末にようやくそれの投与を受け、そこからきっかり六〇日間生きる()()()()()()ので、つまりその二週間分くらい、俺は医学的に決定づけられたよりも長生きしたことになるのかもしれない。まあ、七〇をとうに過ぎた独り身の老人にとって二週間という時間は誤差の範囲を大きく超えるものではないし、その分だけ痛みにも寝たきり生活にも余計に堪えなければならなかったのだから、別段得をしたという気もしない。

 ともあれ、しばし病の床に臥せっていた俺は最終的に、日本国内に限ればここ数年でキャロライナ=ヘンダーソン症候群患者の約半数が選択しているという、お手軽便利、安心確実で、ついでに豪華なオマケも付いてくる、現在のところ日本でのみ選択可能な、大好評の安楽死の方法を採ることに決めたのだった。


 能書きに違うところなく、その薬は投与の翌日からてきめんな効果を発揮した。すなわち俺の全身から痛みと麻痺は嘘のように消え、ついでに左脚の大きな火傷の跡などもきれいさっぱりなくなって、俺は文字どおり保証書付きの健康体となっていた――ただ二点、性欲をいっさい持たなくなるということと、日に日に若返るということを除いて。

 そしてそれは、俺にとって最後の六〇日間の幕開けでもあった。七五歳の俺の肉体は杓子定規に一日一歳ずつ若返り、六〇日目、一五歳相当になろうとする眠りの中で、ブレーカーが落ちるように生命活動を停止する。そして、全身があたかも凍り付いたかのように硬直した後、ゆるやかな崩壊を始める――それは、俺より前に投与された誰にも例外なく訪れた、「フリーズ」という俗称を持つ薬の副作用、あるいは効能切れの時だった。

奇妙なものだ、と思う。まずもって、人間が若返るというのが甚だしく常軌を逸しているわけだが、俺にとって何より不可解な因縁を感じずにいられないのが、少なくとも肉体的には一五歳で死ぬという事実だった。ユキエと二人、ひょっとすると一番幸せに過ごしていたかもしれない、そんな時代と同じ姿で。それもユキエは側におらず、たった一人で――。

 何であれ、俺はその薬を使うと決めたのと同時に、残された六〇日間を目一杯楽しむこともまた心に決めていた。どうせ遺す相手もいないのだから、貯金にしたって過不足なく遣いきってしまった方がいい。そんなわけで、俺は薬を飲んだ翌朝に自分がすっかり健康になっていることを確認すると、すぐに車を走らせて、大手の旅行代理店に駆け込んだ。


「“(フリーズ)”投与済み、えー……今日も含めて残り六〇日間、ですか」

 七・三分けで眼鏡の、古い外国映画に出てくるステレオタイプ的日本人を実体化させたような風貌の代理店スタッフは、当然のように難色を示した。それはもちろん、老人とはいえ赤の他人の死に際、最後の思い出作り(と言うのも、信じてもいない輪廻転生やら何やらを肯定するようで俺の本意ではないが)に関わらされるのだから、そのプレッシャーが新婚旅行や何かの比でないことは想像に難くない。しかし、俺としても必要以上に華やかなものやきらびやかな場所は性に合わないし、ごくごく穏やかな旅ができさえすれば文句はない。行きたいところもだいたい決まっている。そもそも俺がキャロライナ=ヘンダーソンで余命宣告も受けていたことや、昨日付けで“F”の投与を受けているといったことは俺のIDにもしっかり記録されているわけで、要するに俺の残り日数は長くも短くもごまかしようがない。旅先で死んで迷惑をかけるようなことは絶対にしないから――といったことを切々と訴えた末、やっと俺は人生最後の旅行ツアー申し込みを受け付けてもらえることになった。

 “F”の使用者は国境を越えてはいけないことになっており、俺のIDもそのように制限がかけられていたので、必然的に行き先は日本国内に限られていたが、それでも一度は訪れてみたいと思う名所・名跡の類はいくらでもあった。「だいたい決まっている」などと口走ってしまった手前、俺はいかにも悩んでいないふうを装いつつスタッフにあれこれと質問を浴びせ、結局たっぷり三時間もかけて翌日からの旅行のプランを組み終えた。

 真夏の屋久島と沖縄の遺跡群、関西を中心とする各地の寺社や城跡をたっぷり巡った後、北海道を一周して帰ってくるという、世界遺産のブランドでごてごてと飾り立てたような旅だった。我ながら漠然とした憧れだけで行き先を決めすぎたのではないかと懸念もしたが、結果を述べると四九泊五二日の間、結局俺は一度も退屈することがなかった。比喩ではなく日に日に若返りながら(これは最初のうちこそぴんとこなかったのだが、後半にさしかかるにつれて一日ごとの違いは手に取るようにわかった。特に髪の色であったり肌の張りであったり、あるいは視力といったわかりやすく「老いていた」部分において)、疲れを感じる間もなく、訪れて、見て、触れたもののすべてを心ゆくまで楽しんだ俺は、東京に戻ってくると、かつての同僚や友人を、思いつくまま訪ねていった。全財産を遣いきるつもりで買い込んだ大量の手土産を手にして。何人かは仕事で会えなかったり、ひどいときにはいたずらと思われて門前払いを食らったりもしたが、多くは俺が二十歳前後の姿に若返っているという驚きと、突然訪れた今生の別れに対する戸惑いや悲しみとが入り交じった複雑な表情を浮かべつつ、満足しきった俺の顔を見て一応は安心したように、しばしの面会に快く応じてくれた。

 久々に会う人間が多く、昔話に花が咲いたりもして、また往々にして別れの挨拶は長引いた。そして、住んでいた家や持ち物をもれなく処分する手続きには思っていたより手間を取られもした。そうした事情もあって、臨終の床として専用のベッドが用意された特別病室に到着したのは、外見上一六歳に若返った「命日」の前日(あるいは当日)、夜の一〇時を回ってからのことだった。


 主治医は先に来ていて、スリムなタブレット端末を抱えてベッド脇の丸椅子に腰掛けていた。気分はどうですか、と訊ねられたので、とてもいいですと答え、鎮静剤か睡眠薬は必要ありませんか、と問われたので、大丈夫ですと返した。ここ二ヶ月ずっとそうだったのと同じように、すでに心地よい眠気が俺を包み込もうとしていた。

そうしてただ二言を交わすと、主治医は少しだけ目を伏せつつ、努めて事務的な口調で、さようなら、と言った。俺は、さようなら、ありがとうと告げ、去っていく主治医の背中を見送って、ゆっくりとベッドに横たわった。

ベッドは、ただ死ぬためだけの床にはもったいないほどフカフカに柔らかく、冷房のよく効いた室内にあって絶妙な具合に暖かかった。まったく、「最高の安楽死」とはよく言ったものだ――俺は安らかな気持ちでほくそ笑むと、最後に映った部屋の風景をそのまま飲み込むように強く目を閉じた。眠りは本当に、瞬く間に訪れた。


ここまでが、俺の人生の終わりに関する記述となる――はずだった。

しかし、どういうわけか翌朝――体感的にはおそらくそうだと思える程度の眠りから、俺は再び目を覚ました。そして、俺の顔を覗き込む一人の少女の姿を認めた。

寝ぼけ眼のピントが彼女の顔に合った瞬間、人生のどこをどう振り返っても出した覚えのない絶叫が、言葉の体裁をなさないまま俺の口を飛び出していた。

「ちょっ……落ち着いて!ここは、安全よ……!」

 面食らったようなその顔は、嘘を言っているようには見えなかったが、そんなことを言われても信じられるはずなどなかった。

 一六年前、確かに()()()()()()()()()()()()()()はずの妻に、そのまた半世紀前の姿と声で、そんなことを言われても。


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