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蜘蛛の白閨  作者: 白石小梅
7/16

7,秘めた想い


 義父にも等しい男の寝室にシャラが駆けつけた時、そこには彼の妻を始め、ラッカーも、彼の師匠も、ミスラまでもが揃っていた。

「療術師は魔物からずっと昔に受けた毒が、呪いとなって再発したんだというのよ……根治せずに身に溜まっていたんだって」

 奥方は目に、涙が溜めつつ長く息を吐く。青白い顔で横たわる義父を見た時、シャラはハッと息を呑んだ。見覚えのある、症状に。

 ああ。駄目だ。これは恐らく、長くはない。

「女将さん、親父さんは僕らにとっても家族同然だよ。お金なら、僕も出すから……療術師は、治療にはいくら必要だって言ったの?」

「気持ちはいただくわ、ラッカー。でもね、呪いが体に長くありすぎて、療術ではもう解くのは無理ですって。時間をかけて薬で治療するしかないのだけれど……」

 奥方はちらりとこちらを見て、目を逸らした。言うべきでないことを呑み込むように。彼女もまた、全てを察していた。母の最期を看取ってくれたのは、彼女だったから。

「必要なのは……エイクレイルの黒花よ」

 シャラは、零れるような呟きを漏らした。奥方は頷いて、夫の隣に座り込む。

「ええ。澱となった呪いを解く薬は、この辺りではあの花からしか作れない。巨大樹の森の奥に咲く黒花を手に入れれば、この人を治せる。でもそれは、私たちには手が出ない」

 エイクレイルの黒花は、巨大樹の森で最も希少な調合素材だった。その蕾を毟って材料とすることで、解呪の薬になる。しかし森の奥地にほんのひと時しか咲くことがないため、そもそも花が出回らない。こればかりは、ラッカーもその師も、持ち込んできたことはない。運に恵まれた冒険者が偶然見つけるのを待つ以外に得る手段がないのだった。

「でもエイクレイルの黒花が咲くのは、ちょうど今ごろでしょう。僕たちが探しに行きます! 親父さんはまだ、死んじゃいけない人だ。そうでしょう、お師匠!」

「駄目だ」

 ラッカーの師は、切れ長の目を全く動かさずにその提案を切って捨てた。

「でも! 姐さんは調合法を知ってるんでしょう?」

「偶然に持ち込まれたものを、奥方と一緒に調合したことはあるわ。道具屋に勤めて八年で……二回だけね」

「それなら、僕らで花を見つければ……!」

 抗議するラッカーを止めたのは、苦しそうな酒場の主人の声だった。

「よせ、ラッカー……お前のお師匠も、シャラも、教えたはずだろ。今は雨期だ。俺なんかのために……若いお前が死んじゃならねえ。ミスラを、道連れにする気か?」

 ミスラのことを引き合いに出されて、ラッカーは喉まで出かかった反論を詰まらせる。

 そう。黒花が咲くのは雨季。すなわち、森に巣食う蜘蛛の魔物“死の紡ぎ手”が溢れかえる時。何人もあの森に入ってはならない季節。花を目当てにあそこに潜り込む者たちは少なくない。しかし花を持ち帰る者がどれだけいるかは、シャラの調合経験の回数がそのまま物語っている。

 尤も、そこに助け舟を出したのはミスラ自身だった。

「あの……三人で行けば可能性はあるんじゃないですか。手練れの冒険者は、雨期にあの花を狙って森に入ると聞きます。でないと花は、いつまでも世に出回らないでしょう? 親父さんを助けられるなら……あたし、頑張ります」

 シャラは、ミスラの事情を詳しくは知らない。だが、ラッカーと一緒に店を訪ねてきた時点で、ラッカーの師はもちろん、酒場の主人も関わっているだろうと予想していた。広く世話を焼く主人のことを、ミスラもまた慕っているようだった。

 が、その意見も、ラッカーの師が静かに遮る。

「それは花開く前からあの花の目撃証言を集めて、調査地点が定まっているから可能なことだ。ここ数年、あの花の目撃証言はない。あったとしても、金になる情報として、同業たちは秘匿しているだろう。当て所なく彷徨うのはただの自殺行為だ。すまないが、親父さん……俺は弟子たちをそんな無謀な旅には連れて行けない」

「気にするな、ジャッタ。それが如何に無謀かは……そこにいるシャラが、一番わかってる……なあ?」

 論争の裏でシャラは奥方を慰めようと肩を抱いていたが、唐突に話を振られて振り返った。ラッカーの視線がこちらを向いて「姐さんが?」と、首をひねる。

「あの……ええ。私の父は、この時期に巨大樹の森へ……エイクレイルの黒花の採取に出て、行方不明になったの。母の病は、若い頃に街の郊外に現れた大蜘蛛に引っかかれたことが原因だったのよ。ご主人と、同じ病気ね。それを解くために父は旅立ったけれど。帰っては、来られなかった」

「コイツのお父さんは……ここら一の腕利きだったんだぜ。俺やツレより……お前のお師匠よりな。俺たちはいつも四人一緒だったが、アイツに何度も助けられた。だから、な。無理はするな。もう何もしなくていい。滋養のあるもん食えば、少しは長生きできるだろうよ」

 主人がせき込み始めると、場は騒然となった。

 やがて症状が落ち着いて主人は眠ったが、その顔には明らかな死相が見えた。

 それでも、俯いたままに部屋を出るしかない。

 何も出来ない自分たちの無力を、全員が感じていた。

 ただ一人。

 シャラを除いて。


 夕暮れの街を一人戻りながら、シャラは思い出す。

『いいかい、シャラ。お父さんはお母さんの病気を治す薬を手に入れるために、ちょっと危険な旅に出てくる。必ず、帰って来る。でも、もしお父さんが帰らなかったら……お母さんと一緒に、酒場のご主人を頼りなさい』

 肩を掴んで言い聞かせる父を。まるで昨日のことのように。

 母はそんな父の冒険譚を、寝物語に語り続けた。酒場の主人は、彼を一番の腕利きと評した。

 そうだ。自慢の父だった。幼子の夢想の体現者。誰よりも強かで賢い冒険者。だからこそ危険を冒すと決めた時、誰も巻き込まないために一人で出立した。そして、帰ってこなかった。

 道具屋を通り過ぎて、シャラはさらに路地を曲がった。その先にあるのは、シャラが両親と住んでいた小さな家。相続人はシャラということになっているが、道具屋は住み込みなのでほとんど帰っていない。

 ひと月ぶりに、戸を開く。そこにある小さな居間で、父は不機嫌な母を後ろから抱きしめて、必ず帰ることと、いずれはずっと一緒にいることを約束していた。旅に出る度、何度でも。

『冒険者なんて、愛するもんじゃないわ。皆、いつか私たちを置いて、消えてしまうんだから』

 母の口癖は、現実になった。

 母は父の遺言に従って酒場の主人を頼り、暮らし向きを立て直した。

 だが……その遺言に続きがあることを知っているのは、シャラだけだ。

 シャラは父が消えた時、母の言う通りだと思った。冒険者たちは待つ者を残して、消えてしまうもの。だから、父の遺言を封印したのだ。それを果たせば、皆が頼りにしている酒場の主人も、その奥方も、父の弟子も、みんな父の後を追って消えてしまうと思ったから。

 その直感は、間違っていなかったと今でも思う。あの当時、彼らは冒険者としての火を、心の中にまだ持っていた。

 震える足で、シャラは屋根裏へ上る。父の遺品の入った箱。

(この中の……絵地図……」)

 心臓が、聞こえるような鼓動を刻んでいる。

 冒険者である父は地図の一つ一つに、素材の種類や魔物の危険を示す印を、様々な色のインクで無数に描き込んでいた。地図は冒険者の必需品。よく書き込まれたものだが、別に珍しくはない。

 だが……これはそれ以上の意味を持つ。

 シャラは一枚の地図を開いた。巨大樹の森の周辺図を。

 息を吐いて埃を掃いながら、シャラは思い出す。

『それと、いいかい。酒場の主人にだけ、こう伝えるんだ。“巨大樹の森の絵地図に書いてある赤い文字を見ろ。その中心に花は咲く”って。よく覚えて。彼はきっと、それだけで意味をわかってくれる。これは、酒場の主人以外の誰にも言ってはならない。秘密だよ。お母さんにもね』

 誰にも話したことのない、父の最後の言葉を。

(「赤文字は……森の西の端……東の女神像……湖の北端……南の切り株……その真ん中は、この湖畔の盆地」)

 地図に無数の書き込みがある中で、その湖畔には何も書かれていない。そう指摘されなければまず気付くことは出来ない、ほんの小さな不自然。孤絶した空白。

 そう。

 シャラは、知っている。

 父は、当てのない危険の果てに死んだのではない。何をどうやってか、彼は目標を見つけていたのだ。

 伝言をシャラに頼んだのは、母に言えば必ず酒場の主人たちに話してしまうから。父を危険に晒さぬため、後を追ってくれと。

 しかし父は、その場所を絶対の秘密とした。万一、場所が漏れれば、冒険者が殺到する。花が全て毟られるだけでなく、独占を狙って動き出す者たちが現れ、血で血を洗う抗争が起こる。

 だから母を救う最後の保険として、酒場の主人にだけ話すようシャラに言い含めたのだ。彼なら、情報の取り扱いに長けているから。

 大人になってそれに気付いてから、シャラは父の秘密について更に固く口を閉ざした。父の掴んだ秘密の守り手として、巨大樹の森の情報には神経を尖らせながら。そのころにはすでに母はおらず、エイクレイルの黒花を手に入れる動機もなくなっていた。もし秘密を漏らせば自分だけでなく、酒場の主人も、ラッカーの師も、ラッカー自身も、必ず巻き込まれる。だから誰にも言ったことはない。

(「……今は違う。私たちは、これを必要としてる」)

 主人には大恩がある。しかし彼は義理の子に等しい者たちが命を懸けることを望みはしないだろう。ラッカーの師も、弟子たちの安全を取った。哀しいことだが、誰が悪いわけでもない。やり過ごしてしまってもいい。

(「でも……」)

 運命は、選択肢を与えたのだ。

 他でもない、冒険者という生業に振り回されたこの人生に。

 彼らの命運さえも左右する……選択肢を。

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