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蜘蛛の白閨  作者: 白石小梅
6/16

6,重いまどろみの終わり


(「ねえ……ラッカー……」)

 彼に声を掛けて。

 その背に、手を伸ばして。

 好きなの。

 そう、伝えようとして、何もいないことに気付く。

 勇気を出せば、きっと何かが変わるはず。

 そう思っても、それは。

(「ああまた……ゆめ。私、は……」)

 シャラは、ひくつく瞼を開いた。

 ぼやけた視界に映るのは、白い闇。大蜘蛛たちの蠢く、閨。

 どろついた夢と現。過去と現在の狭間。まどろみの中を、シャラは揺蕩い続けている。

(「どうして……」)

 どうして、私はここにいるの?

 どうして、あなたはここにいないの?

 どうして、誰も私のことを探しに来ないの?

 どうして、父は……母は……。

 無限の問いが、自分の周りを巡り続ける。永遠に答えにたどり着くことのない、螺旋の輪となって。

 永い永い迷妄は、とうに時間の感覚を奪っていた。ここに来て、永遠なのか、一瞬なのか。わからない。

 白閨の中に囚われた自分は、ひょっとしてとうに死んでいて、今この瞬間も死に囚われた記憶を繰り返しているのでは。それとも、過去そのものが死の床にある自分の妄想に過ぎないのでは?

 自分は一体、誰だったのか。現実とは何で、夢はどこからだったのか。

 過去の記憶と白閨の目覚めの間を、繰り返し、繰り返し、繰り返し行き来する内に、感覚は摩耗して何も感じなくなっていく。

 時に、甲高い悲鳴で目が覚めることもある。ぼやけた視界では、隣に悲鳴を上げる動くものがいるということしかわからないけれど、恐らく連れてこられたばかりの人間だろう。男か女かも判然としないけれど。

  自分がここに来た時に、叫び声をあげたかどうかは覚えていない。悲鳴を上げている人たちは、もしかすると毒が足りていないかもしれない。かわいそうに。意識がはっきりした状態で、自分の未来を……私を見ることになるのは、怖いだろう。

 そんな瑞々しい恐怖の感情が、羨ましくさえなる。

 すでに何があっても他人ごとにしか思えなくなっていたが、悲鳴を上げて身をよじる人々が繭に埋め込まれた自分を見ているのは何となく察していた。大蜘蛛に抱きかかえられ喰らい付かれながら、されるがままに涎を垂らしている人の繭を見れば、まあ、そうはなりたくないだろう。

 といって何か話しかけてやることもできない。呻いたり喘いだりする程度にしか声も出ないし。

 気を使ってやれないことを悪いと思いつつ、卵嚢扱いされている肉塊がそんなことを考えているのは、滑稽な気もした。

 やがて響き渡る悲鳴も静かになる。その人が喰われたのか、自分と同じように繭にされたのかは知らない。時折、自分のものではないすすり泣きや、甘い吐息が聞こえてるから、少なからず“繭”は増えていたのだろう。

 白閨の中に目にする蜘蛛の数も増えている気がする。

「ねぇ……ね、え……」

 何か感じたい。思い出したい。痛みでも、何でもいい。シャラは手を伸ばそうとして、弾力のある糸に繋がれている己を思い出した。

 そして、首筋につぷりと牙を突き刺す、蜘蛛が隣にいることも。

「あう……あ」

 蜘蛛の毒の悦楽は喉を灼くような甘さで、渇きを呼び起こす。でも、気をやるほどの虚無が身を苛む今は、ただ全てに倦んでしまって。この久遠の退屈を紛らわせるならと、だらしなく悦楽を舐め続けるばかり。

 早く全てが終わればいい。うつろな時の中で、それだけを願っている。

 繰り返す夢の中でも、父は消え、母は死に、ちっぽけな決意は恋の前に溶けて、心乱れ続けるだけ。

 今度こそ違う人生をと望んでも、変えることはもう出来ない。

 何度でもこの白い地獄で目が覚めて、呻いても身を起こすこともできなくて、牙の痛みに少しだけ意識がはっきりして、甘い毒がすぐに気を遠くさせる。

 薄らぼけた視界の中で繰り返し辱めを受けて、それが別に痛くもなくて、低く鳴いて、全てに倦んで……。

 それで、また。

(「ねむ、い……いや……」)

 繰り返し、堕ちていく。

 変えることも、帰ることも叶わぬ、夢の中に……。





 シャラは、道具屋の二階で目を覚ました。

(「また、夢……?」)

 彼に声を掛けて。

 その背に、手を伸ばす夢……だった気がする。

 よく思い出せないが、目覚めると変化のない日常の中に囚われているのは、変わらない。

 いつまでも続く繰り返し。

 無自覚に、そう思っていた。

 だが波乱とは唐突に訪れるものだ。

 待つ女にとっては、特に。


 ラッカーへの恋心を自覚してから、更に二年。

 出会ってからは、四年の歳月が経っていた。

 ラッカーは十八歳になり、見習いの少年から一人前の青年へと脱皮しつつあった。といっても生来の童顔は変わらず、見目はまだまだ少年だったが。

「あ、おかえりなさい。冒険者さ、ん……」

 少しずつ空気は水気を帯び、重苦しい暑さの増して来る日。ラッカーがいつものように店を訪った。

 一つだけ異なったことは、連れが彼の師ではなかったこと。

「姐さん、紹介するよ。前回、一緒に冒険した仲間で、ミスラだよ」

 若い娘だった。年の頃は彼と同じくらいか。小さくて細い体はしなやかで、黒髪を後ろで束ねて、つんと尖った眼をしていた。怒っているのではなくて内気なのだろう。話し始めるまでに、僅かな間があった。

「ど、どうも。ミスラです。シャラさんのお話は、ラッカーから聞いてます……はい」

「あら、こんにちは。ミスラちゃんね。ラッカーも隅に置けないのね。こんなかわいい子を連れて来るなんて。道具屋のシャラよ。よろしくね」

 そう言って、凍り付きかけた顔に無理矢理に笑みを張り付けた。それでも彼女の目の奥に、微かな疑念の種のようなものがちらりと過ぎるのを、見た気がする。

 ラッカーは少しだけ気まずそうに、同時に照れたように頭をかいた。

「彼女も色々あってさ。次から僕らと一緒に冒険することになったんだ。師匠と三人で。だから、これからは彼女のこともよろしくお願い」

「よ、よろしくお願いします」

 二人は礼儀正しく挨拶した。いつもペアを組んでいた師のことを“叔父さん”と呼んでいた彼が、師匠と言い直しているところに、いつもと違う微かな距離を感じた。

 終始笑って対応しながら、胃の腑の底に冷たい感触が落ちる。それを見透かされまいと必死だった。ミスラという娘の、素朴な上目遣いに。

 シャラは己の目に、仕草に、体や声音に、色を込める術を知っている。身のひねりや視線の動きで相手の目を誘い、喉を鳴らす柔らかい声で隙を作ることが出来る。自分は冒険者の子であるより先に、酒場女の娘であるから。

 だがミスラのこれは、自分の色目とは異なるものだ。おとなしくて少し卑屈だが、純真で芯の通った目。おどおどして見えるが、その内には目標に向かって進む力に溢れている。

 なるほど。酒場の奥方と同じ。これは、冒険者の女の眼差しだ。

 特段に器量が良いわけではないし、彼女は自分を美しいとは思っていないだろう。

 しかし待つ女としての直感は、即座に見抜いた。

 この娘は、いずれ必ず、彼を落とす。時を与えるわけにはいかない、と。

(「けど、私は……」)

 若い二人は寄り添うように道具の棚を見る。お互いをどう補い合うのかを話しながら。こちらに背を向けて。それはシャラにとって、微笑ましく、健やかで、侵しがたいものに見えた。

 ラッカーはまだ十八。自分はすでに二十四。酒場の主人などは、その程度の差など大したことないと笑うだろうか。だが少年から脱皮しつつある年頃にとっては、谷のように横たわる隔絶だろう。

(「ああ……そうね。私は、彼にとって」)

 姐さん。道具屋の姐さん。

 きっと、どこまで行っても、そう呼ばれるのが自分のさだめ。

 それに対し、ミスラという少女には、彼と共に飛翔する翅がある。共に宙を舞い、手の届かぬ冒険の中で、愛を育むことが出来る。

 そう……少年と少女の、冒険譚。

 それは幼子の夢想にして、大人たちの追憶。

 誰もが一度は、その中に在る自分自身の夢を見る。

 しかしその主役の座は、小さくまとまって場所としがらみに縛られた者には決して得ることの出来ないもの。ほとんどの人はその物語に加わることも出来ぬまま、生まれ付いた場所で朽ちていく。自分は、その大多数の一人。

 だが彼は、その物語に足を踏み出した少年で。その隣に今、一人の少女が加わった。

 少年と少女は出会い。

 数々の冒険を経て。

 やがて幸せに暮らす……のだろうか。

「姐さん、ミスラは短剣と飛刀が得意なんだけど、そういうのはある?」

「……魔物祓いの聖水で清めたナイフがあるけど。手に合うかしら?」

 ミスラにそれを与えると、彼女は手に取った刃をジャグリングでもするように二、三度浮かせて、壁に掛けてあった射的の的へ投げた。豪快な音がして、刃は的の中心を貫通する。

「わお」

 と、ラッカーがため息を落とした。

「ん……すごく良さそう」

「ありがとう、姐さん! これはおいくら?」

 彼女のために笑いかけてくる彼の親しみが、今は憎い。

 シャラは、内心で唇を噛むしかなかった。ラッカーとミスラが結ばれるのは、時間の問題だろう。そして夢の中を生きる者は、自分を現実に縛り付けようとする者を選び取りはしない。

「ありがとうございます、シャラさん」

 ミスラはくしゃっとする笑顔で礼を言った。笑うと八重歯が見えて、愛らしかった。こんな立場でなければ頭を撫でてやりたくなる娘だった。

 シャラは彼女の手に聖水瓶を一つ握らせて、ラッカーがよそを向いている隙に、そっと丸薬の包みも渡した。

 別に毒を飲ませる魂胆はない。ほんの一瞬、考えたけど。

「ラッカーが初めて来たときも、この瓶を渡したの。初めての子には、おまけしないとね。あとこれは、まあ、私が毎月飲んでるやつ。女の身で冒険者をやるんなら必要だと思うから、渡すだけ渡しとくわね。くれぐれも体に気を付けて、必ず帰っておいで」

 ミスラは少し恥ずかしそうに、しかし喜んでぎゅっとそれを握りしめると、頭を下げた。

「はい。これからもよろしくお願いします」

「ええ。またおいでね……二人で」

 別れ際、胸の内に虚無を抱えたまま、シャラは手を振った。ラッカーもミスラも、笑って手を振りかえした。

 その日、ラッカーは初めて手土産を持ち合わせなかった。新しい顧客を連れてきたことが、それに当たるということだったのだろう。無邪気な彼らしい手土産だった。

 扉を閉めて、そこにごつんと頭をぶつける。

 対抗馬として割り込むには、年齢でも立場でも、自分は機を逃しつつある。獲物が手元にある内に、網の内に絡み取るべきだったのに。

(「冒険者、なんて……」)

 愛するものではない。

 心の内に、その言葉が暗く沈み込む。

 ああ。そうだ。諦めよう。自分の運命を呑み込め。余計な恋も、冒険者や冒険そのものへの憧憬も……もう捨てるべき時なのだ。


 だが運命は、状況と駒とを上手く混ぜ合わせるものだ。

 このしばらく後だった。

 酒場の主人が血を吐いて倒れ伏したと聞いたのは。

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