2,甘い悪夢の前に
●
黒い八つの目が、煌めきながら揺れる。落ちていく感覚の中、白い闇が歪み、暗く染まって、姿を変える。意識が揺らぎ、記憶が途絶え、濁った色が混ざり合うように、像が結ばれ始める。
最初に開いたのは、黒紅の花。ぽつりと一輪、足元に咲いて。やがてまた一つ、また一つと、落ちる血だまりのように、花が開いていく。
(「ここ、は……?」)
広がっていく、花畑。その向こうに、大きな湖が現れて。巨大な樹が山影のように伸び上がる。黒紅色の花びらが、水気を含んだ生温い風に舞った。濃い緑の匂いと、ほの甘い梔子のような香りがする。
シャラはいつの間にか、深い森に囲まれた湖畔に広がる花畑に立っていた。
(「……どこだっけ。見覚えがある。綺麗な場所だけれど……不吉な感じがする」)
ふと振り返ると、八つの瞳はまだ浮かんでいた。そのままゆらりと、像を結んでいく。鋏角を開き、牙を剥いて、黒い繊毛で覆われた二本の触肢を立てた、今にも襲い掛かって来そうな蜘蛛の像を。
(「蜘蛛……?」)
シャラは時が止まったように動かない風景と蜘蛛を凝視して、記憶を手繰り寄せる。
蜘蛛が、来る。
襲い掛かって、来て。
それで……私は。
「……ひッ!」
稲妻のように、“その時”の恐怖がよみがえった。うなじが逆立ち、心臓を突き刺されるような恐怖を。
瞬間、巨大な蜘蛛が動き出し、花をかき分けてこちらへと迫って来た。硝子をこするような、金切り声と共に。
シャラは咄嗟に腰のポーチに手を差し込み、硝子瓶を投げた。割れた瓶から清らかな水が飛び散る。魔を祓う聖水を浴びて、大蜘蛛は叫びを上げてひっくり返った。
(「な、なに? このポーチは? 聖水って? え?」)
いつの間にか旅装を纏い、ポーチを下げている。でも、湖畔の花畑で大蜘蛛の魔物に襲われる理由は、出てこない。
(「どういうこと? 前後に何があったの? ここは? わ、私……私は……誰だっけ?」)
へたり込み、後じさりながら周囲を見回す。思い出している暇はない。左右から、花びらを撒き散らして二匹の蜘蛛が迫ってきていた。シャラはすぐにもう一本の瓶を構えた。理由は知らないが、ポーチの中に何があるかは知っている。聖水瓶。魔を祓う力を持つ道具だ。
すぐ右へ迫る影へ投げつけると、甲高い悲鳴を上げて大蜘蛛がのたうち回る。
だが左側は、間に合わない。剥かれた牙が花畑を割って飛び出してきて……。
「姐さん!」
死ぬ、と思った瞬間、斬風が髪を揺らした。大蜘蛛の脚が宙に舞い、短槍が銀の軌跡を描いて回転する。旅装に身を包んだ、しなやかな背中。金色の髪を揺らして彼が振り返った時、額から汗の雫が煌めいて、潤んだ大きな瞳と視線が絡んだ。微かにそばかすの残る愛らしい顔立ち。まだ子どもの面影を残しながらも、精悍な男へと脱皮しつつある少年……。
知っている。
なぜか、そう確信した。
自分は、彼のことを、誰よりも深く。
彼は“姐さん”と呼んだが、自分は彼の姉ではない。
そうだ。彼は私の。私の……なんだ?
「ラッカー……!」
シャラの唇は、知らぬうちに彼の名を呼んでいた。
言い終わるより先に、彼は槍を回転させて覆いかぶさって来る蜘蛛の腹部を裂いた。暴れ狂う脚が振り下ろされる瞬間にそれを斬り飛ばして、そのまま蜘蛛を踏みつける。気が付いた時には、彼は怪物の頭部を刺し貫いていた。水が流れるような動きだった。
シャラはぽかんと口を開けたまま、その動きに見惚れていた。ハッと我を取り戻したのは、花畑を割る影を右手に見た時。
「み、右! まだ来る!」
次の蜘蛛が、脚を広げて彼に襲い掛かる。即座に引き抜かれた槍が、蜘蛛を目掛けて持ち上がった。だが今度の蜘蛛は胸倉(胸なのかどうか知らないが)を貫かれながらも、死なない。触肢をばたつかせて、少年を掴もうとする。
「くっ……しぶとい奴、だな!」
シャラは慌ててポーチに手を突っ込んだ。聖水瓶は、最後の一本。構わず掴んで、放り投げる。ずぶずぶと槍に貫かれながらも、少年の顔に触肢を伸ばそうとする蜘蛛。その顔面に聖水が散り、絶叫を上げて蜘蛛が身を逸らす。その瞬間、ラッカーは槍を薙ぎ払い、横から迫っていたもう一匹の頭ごと刺し潰した。
「助かったよ! さあ、逃げて! それを親父さんに届けて!」
そう言われた時、シャラは初めて、左手に何か大きな瓶を抱えたままなのに気が付いた。聖水瓶よりずっと頑丈そうな分厚い瓶を。大事なものである、ということはわかる。何なのかは、思い出せない。
ともかく、この少年を置いては行けない。周囲を見れば、花を散らす影が次々に迫って来る。まだ遠いが、すぐに殺到するだろう。
「ラッカー、あなたは? 私、あなたと一緒に……」
彼は即座にこちらを振り返り、シャラの肩を掴んだ。まだ甘さの残る顔なのに、その指は力強い。真っ直ぐにこちらを見つめる目には、情と決意が満ちていた。
少年。そう見えていた顔が、今は精悍な青年に見える。
「姐さん……ううん、シャラさん。僕は後から、必ず追い付くから。みんなで帰ろう。そしたら、ずっと一緒にいるから……! だから今は、逃げて!」
見つめ合った視線の間に、熱い何かを感じた。
前後は思い出せない。
だが自分は、彼が好きだ。愛している。それを、心が知っている。
「約束よ」
シャラは、絞り出すようにそう言っていた。
「約束する! さあ、走って!」
槍を回して、彼は突進してくる蜘蛛の群れへと跳躍する。それを蹴散らす目は、生存を諦めてはいない。帰る意志と、守る意志を手放さない、強い目をしていた。
腰が抜けたようによろけて走るシャラの手を、誰かが引っ張った。彼と同じくらいの若さの、髪を後ろに結んだ素朴な顔立ちの娘だった。
「下がってください……! 奴らは任せて! キャンプまで戻れば、結界が張ってありますから!」
更に、そのすぐ隣には弓を構えた壮年の男が、肘でシャラを押しやるようにしながら矢を放つ。
「駆けろ! 蜘蛛どもは全力で走れば追い付けないはずだ!」
この二人も、知っている。旅の仲間。ここまで共に来た者たち。
名を思い出す間もなく、シャラはその脇を駆け抜けた。
背後から、大蜘蛛の群れと三人の冒険者が激突する、闘いの音が響いて来る。
ここは戦場だ。離れなくては。自分は彼らとは違う。魔物と渡り合う手段などないのだから。
やがて喧騒は遠くなり、聞こえなくなっても、シャラは駆け続けた。
この地に呪いと毒を振りまく大蜘蛛を目にしたのはこれが初めてだ。
危うく死ぬ直前だった。ぎりぎりのところで生き延びた。
(「初めて……初めて、よね? そもそも私は、どうしてここに、いるんだっけ……」)
僅かな疑問が心をよぎったが、考える余裕はない。息は切れ、足はもつれる。それでも、走らなければ。滲む視界を振り払って。もっと。もっと。
そして景色は、歪みながら変わっていく。
まるで、繰り返す悪夢の中にいるかのように……。