15,終幕の向こう側
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……冬の終わり。
巨大樹の森に、雪が舞う。
空から降る白い闇が、森を覆っている。
何者も入れない、ひと時の安息が、終わりを告げる。
白に埋め尽くされた森に日が差して、雪がほどけていく。
埋もれていた、白い閨が露わになる。
その中で。
(「……まっくら」)
また、夢を見ている。
『もしエイクレイルの花を見つけた上で、自分が冒険から帰ることがなかったとしたら。薬はまず……俺に。余るようであればそれを売って、生き延びた仲間たちと俺たち夫婦で分けて欲しい……それが、シャラがしたためていた遺言書の内容だ』
これは、どこか遠い、誰かが何かを語る声。
『望むことは、三つ。花畑を見つけたのは自分の父だと書き残して欲しい。花畑の場所については混乱が起きないよう取り計らって欲しい。そして、出来ることなら自分のような子が少しでも救われるように金を使って欲しい。以上だ』
微かに聞こえて来るだけで、何も見えない。真っ暗な中、濁った音が響くだけ。
『姐さんらしいな……花畑の場所は親父さんと関係者だけの秘密にして、しばらくは僕たちだけで花を供給するようにしよう。信頼できる仲間を少しずつ増やしていけばいい。お金は……どう使おう』
まるで、糸を結び付けた紙の筒に向かって話しているかのよう。言葉だとはわかる。でも意味がわからない。
『あたしも……シャラさんやあたしたちみたいな子が、出来るだけ幸せに生きて行けるように、使いたい。みんなも、そうだと思う。ねえ、それなら……』
ただこれは、過去ではない。記憶ではない。今まで囚われていた繰り返しではない。
何かが、おかしい。
自分は……確か。
「……っ」
ぶつりと糸が切れるように夢が終わり、混沌の中に、意識が紡がれる。
シャラは、目を開いた。
(「ここ、は……?」)
物心ついたその瞬間のように、事態が理解できない。前後に何があったのか。思い出せない。でも、生きている。躰は裸のまま。腕を動かせば、柔らかな胸に触れる。随分と冷えているが、確かに自分の躰だ。
絹糸のような白繭が視界を包んでいることに、変わりはない。だが、その隙間から、薄っすらと光が漏れて来ている。暖かな、日の光が。
呆然としつつも、シャラは細糸を引き千切る。今まで、全く歯が立たなかった糸は、まるで乾き腐った糸のようにぷちぷちと千切れた。長い間、己を縛り付けてきた白い闇を引き裂きながら、シャラは閨から顔を出す。
どこまでも続く緑と、雪に白んだ山麗の輪郭と、目を焼くような光がそこにあった。外気は刺すように冷たくて、巨大樹の葉が擦れる音がする。恐ろしく高い、巨大樹の頂点だった。
(「……?」)
思い返す。白閨に囚われて、卵を植え付けられて、狂うまで気をやって、最後は繭として身も胎も裂けた……はず。あの時、死んだものと思っていたが、何やら生きている。意識は幕を張ったような感覚のままだが、混濁はしていない。痛みもない。胎の中を蠢く熱もない。
それは、全てを諦めて手放した後に、突如として訪れた自由だった。蠢く卵と蕩ける熱に代わって身を満たしているのは、途方もない解放感だけ。それは喜びとも希望とも違う、むしろ、虚無に近かった。
体は痩せこけていて、身に纏えるものと言えば長く伸びた髪くらい。なんとも惨めだったが、そんなことを言っている場合ではない。
(「なにか……たべないと」)
シャラは白い閨を振り返った。巨大樹の幹と枝の隙間を覆うドーム状の繭。その中に、幹に張り付くようにくすんだ紅色の果実がなっていた。割れた柘榴のような果実が。齧りついて中の汁を啜り取る。久方ぶりの食事はこれ以上ないほどに甘く、身と心を蕩けさせた。
喉を潤して、シャラは吹きすさぶ風に身を任せる。髪が揺れて、ふわりふわりと視界を舞う。
どれだけ夢を見て、どれだけ繭の中で眠っていたのだろう。
いや。そんなこと、どうでもいい。
上手く、声が出ない。これも、別にいい。出す意味も、必要もない。ここしばらくひいひいと鳴いてばかりだったが、言葉など用いたところで何一つ変わりはしないのだから。
ここがどこなのかもわからないし、どこへ行けばいいのかも見当もつかない。でも、それでいい。戻る場所など思い出せない。
全てが摩耗しきって、綺麗なほどにまっさら。“考える”必要自体がなかった。存在の維持の為に目の前にすることがあるのに、いったい何を“考える”のか。それがさっぱりわからない。悩むことなどない。
魔物を避けて巨大樹の上を這い。
雨が降り、幹を伝う水を舐めて。
雪の舞う時には白閨に戻って長く眠り。
また日の強くなる時期に網を繕い。
木々の隙間から釣り糸を垂らして暮らす。
釣った果実はいつも緋色に肥えていて。
啜ると心が甘く蕩けて呆けてしまう。
後はただ、その繰り返し。
繰り返すことにはもう慣れている。
その果てに、もう何も思い出さなくなった。
なまえも、ことばも、なにも、かも。
……ある日、その声を聴くまでは。
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じわりと熱の残る初秋だった。
「ラッカー先生。この場所に、何か?」
シャラの釣り糸を、揺らしたのは、若い女の声。
樹上でそれを聞いて、目を開いた。
言葉の響きに、覚えがあったから。
「うん。今日は、特別な日なんだ」
聞き覚えのある音。意識が撥ねて、シャラはハッと下を向いた。甘く響く、優しい男の声。それがどれだけ遠く小さくとも、彼女は聞き逃さない。
「十四の時から冒険者をやってるが……ここは僕が、初めて依頼をしくじった場所なんだ。しかも、護衛だった」
「ああ……今はミスラ先生が引き継いでる道具屋の先代さんですよね」
「うん。あの人は親子二代かけてエイクレイルの花畑を見つけたんだよ。酒場の親父さんご夫妻が、その時の薬の余りを売って開いたのが、君が卒院した孤児院だよ」
「冒険者の親を亡くした子が生きて行けるように……ですよね。おかげで私も、この歳まで生きて来られました。先生たちのおかげです」
「ありがとう。でも僕は花畑への道を知っているから、皆の先導の仕事をしているだけだよ。もう現役は引退したけど、君たちの先生は僕のお師匠でもあったんだ。だから僕の立場は君と同じ、ただの兄弟子さ。君たちを養うことが出来たのも、シャラさんのおかげだ」
巨大樹の遥か下方から、釣り糸を介してその声は響く。懐かしく、遠く、もう手の届くことのない彼方からの呼び声だった。
「……花の咲く場所を知っていたのは、彼女だけだった。でも僕らは蜘蛛の魔物に襲われたとき、闘うことに必死で彼女を護り切れなかった。あの時のメンバーで仕事を果たしたのはただ一人……彼女だけだ」
「軽く言えるようなことじゃないってわかってますけど。でも、仕方なかったと思います。いつだって、上手くいくわけじゃないから」
「そうだね。ミスラにも、そういわれたよ。あの時の僕は、調子に乗ったただの子供だった。二十歳にもなってなくて、冒険が好きで、腕に自信もあった。そして……うん。彼女に、いいところを見せたかったんだ。それで、判断を誤った」
「……お好きな人だったんですね」
「生きていれば、彼女はきっとまだあの街で道具屋を営んでいた。結局、僕は彼女に見合った男じゃなかったけれど、もっと側にいられたと思う。街に帰って、みんなと酒場で笑いあって、彼女の道具屋にお土産を届けて……そんな日常が、続いたはずだったんだ」
沈黙があった。悲痛な沈黙が。なぜ、それに心が躍るのかはわからないけれど。
「ずっと昔の話だよ……もう、二十年近く前の話だ。でもあの日から、僕の仕事は終わらない。今日、ここまで君たちを連れて来たことで、区切りにしたいと思ってたんだ」
「区切り?」
「あの人の影を、ずっと探していた。ここに来るたび、近くの街を通るたび、彼女の痕跡がないか目を凝らした。でも何も見つけられないまま、長い年月が経った。わかってるんだ。もう次へ進まないといけないって。今日は、その覚悟で来たんだよ。僕はこの旅を最後に、冒険者を引退する」
「そう……ですか。私は寂しいけど、でも、良いかも知れません。ミスラ先生も、先生たちの娘ちゃんも喜ぶと思います。ずっと一緒にいられるから」
「だから、若い頃の過ちを偲ぶ時間が欲しいんだ。先にキャンプに戻っていてくれ」
「……危険ですよ、ここはまだ魔物が出ます。絶対に単独行動をするなって言ったのは、ラッカー先生ですよ」
「僕が勝てない魔物なら、君が一緒でもあまり意味はない」
「う。そう言われると……」
「はは、冗談だよ。君はもう一人前だ。だからこそ、まだ未熟な仲間たちの側にいてくれ。大丈夫。視界は開けているし、大蜘蛛が土に潜った跡もないから」
そう言って、男は困惑する娘の背を叩き、仲間たちの方へと追いやった。
無数に垂らした釣り糸は、男や女の位置を。その会話の全てを。微かな振動に変えてシャラへと伝えて来る。
男は今、湖畔の水辺に、ただ一人。こちらに背を向けて立っている。
『冒険者なんて、愛するもんじゃないわ』
突然、シャラの脳裏に、女の声が瞬いた。
それが誰なのか、どういう意味なのかは、思い出せないけれど。
『お前のお父さんも、若いころは浮名を流したもんだよ。射止めたのは、お前の母さんだったがな』
“記憶”であることはわかる。だがとうに忘れ去った記憶が、なぜ今、稲妻のように瞬き始めたのかは、わからない。考えない。シャラはただ、その身を突き動かす衝動に従うだけ。
『あの……ええ。私の父は、この時期に巨大樹の森へ……エイクレイルの黒花の採取に出て、行方不明になったの』
弾ける記憶に翻弄されながらも、その足は素早く動き、糸を掴み、枝から枝を飛び跳ねて、時に宙を舞うように遥か下の枝に着地して、巨大樹の間を駆け抜ける。
あの懐かしい声の主を手に入れたとき、自分は満たされる。それを知っていれば十分だ。
縄張りに吊り下げた無数の糸は、全て己に繋がっている。懐かしい声の動きは目を閉じても全てわかる。気付かれぬうちにつけた細糸を引けば、足を絡め捕ることも、その得物を引き寄せることも出来る。
あの時、シャラにそうした、女蜘蛛のように。
白閨の中は聖堂のように広く、肖像画のように白い骨が並んでいた。女蜘蛛がなぜあれを大事そうに撫でていたのか、今はわかる。
記憶は、瞬きながら流れ、沈んでは浮かび、砕け散ってまた沈む。
やるべき全てを教えてくれる。
シャラの脚は、素早く、正確に跳び、音もなく駆けて、獲物の頭上を取った。
唇が、吊り上がる。
運命は、機会をくれたのだ。
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「姐さん……いや、シャラさん。長く待たせて、ごめん。あの時、一緒に行けなくて……一緒にいられなくて、ごめん」
ラッカーは、古い短槍を大地に突き立てた。遠い昔、消えた女へ。その時に潰えた、ささやかな未来へ。それら全てに別れを告げるための、小さな墓標として。
「……好きだったよ」
過去に戻ることは叶わない。彼女がどうなったのか。どんな想いを抱えて、その命がいつ吹き消えたのか。苦しんだのか。瞬く間に全て終わったのか。
消えた者のことは、何もわからない。
遺された者は悔悟の念と、進まない時間を見つめ続ける。その先を生きて行くためには、気持ちを押し殺し、その人を忘れて進んでいく以外にないのだ。真実を明らかにしない限りは。
だから、ラッカーは待っている。
独りだけで。
全ての意識を集中して。
それが来る時を。
肩についていた糸が凄まじい力で引かれた瞬間。
ラッカーは即座に大地を蹴った。
何故、来るとわかったのか、説明はつかない。だが二十年、探し続けて確信していた。これが来るのは……自分が独りで、ここにいる時だと。
凄まじい力で引かれながらも、ラッカーは空中で身を捻った。上体と下肢のひねりを解き放ち、渾身で刃を振るう。二十年の間、この瞬間の為に磨き続けた一閃を。背に迫るのが如何なる魔物であろうとも、その首を斬り刎ねるために。
そして、見た。背に迫る魔の蜘蛛の正体を。
あの日のままに微笑む、柔らかな女の笑みを。
「シャラ、さ……ッ!」
電光石火の一撃に生じた、刹那の惑い。鋭い蜘蛛脚が閃いて、微笑む首筋に向かう刃が、弾かれる。
久遠の一瞬の後、彼は悟った。
この一撃が、魔の蜘蛛の首を飛ばす最後の機会であったことと。
かつて誰よりも腕の立った冒険者が、ここで如何に敗れたのかを……。