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蜘蛛の白閨  作者: 白石小梅
14/16

14,物語の余白


 シャラは、揺れる感覚で目を開けた。

 永い永い迷妄と退屈の繰り返しにおいて、初めてのことだった。

(「けし、き……?」)

 夢の中でしか見ていなかった、外の世界。景色が、動いている。と言っても、見えるのは広大な暗闇と、月明かりに浮かびあがる太く巨大な枝葉だけ。枝と言ってもそこらの木の幹より遥かに太い。人が上でそのまま横になれるほどで、遠近の感覚が掴めない。

(「巨大、樹の……うえ?」)

 体を動かそうとしてみたが、いつも通り力は入らなかった。それに、己を包みこむ粘性のある弾力も変わらない。体は、相変わらず繭に包まれている。つまり自分が動いているのではなく、乗っている場所そのものが、動いているのだ。

 ふと気づけば、背の感触がいつもと違う。いつもは体重の全てを散らす白糸に浮かんでいるような感覚だが、今は背が絨毯のような毛の上にあるのを感じる。そして、その毛並みがぞぞと蠢くのも。

 それで、大蜘蛛の一体が自分を背に乗せて歩いているのだと、気付いた。

 がさがさと歩んでいく大蜘蛛の先から、かつ、かつ、という高い足音が聞こえる。どうにか首をあげて上(というより、蜘蛛にとっての前)を見ると、赤と黄の毒々しい腹がゆらゆらと前を進んでいた。その奥に、真っ直ぐ闇を見つめる女の影が見える。

(「あの女……」)

 その意味することに気付いて、シャラは胸の奥に微かな揺らぎを感じた。すでに自分の胎は随分と膨らんだ気がする。白閨の外に出したということは、いずれ来ると分かっていた時が来たということだろう。

「うっ……」

 体の中を、何かが蠢いた。シャラは子を産んだことはないが、それでも赤子の胎動とは根本的に違う。肉の内側を巨大な百足が這っているような、じくじくと熱さ。胎に走った衝撃は激しかったが、シャラの感覚は鈍く遠いままだったので、鋭い痛みにはならなかった。

 自分がもう自分ではないような乖離した感覚の中で死ねるのは、幸運と思うべきか、不幸なことなのか。わからない。

 いずれにせよ、仲間たちは来なかった。来られるわけもない。どこにいるかも、そもそも何が起こったのかもわかっていないだろう。どれだけの時間が経ったのか知らないが、とうに死んだものと見做しているに違いない。

 自分は誰に知られることもなく、朽ち果てる。

(「どうして……」)

 その問いが何に対してのものかは、わからない。早く終わればいいと思い続けていたのに、いざとなると心乱すとは滑稽なものだ。胸を刺すようなこの感触を頼りに、人間らしさを思い出しても良いかも知れない。恐怖や痛みや哀しさや、そういったものを感じてこそ人間だろう。

 不運の重なった人生ではあったが、それなりの幸せも、それを欲したこともあったはずだ。最後くらい、瑞々しい感情で自分の死を彩っても良いだろうか? 激痛に塗れながら、死にたくない、どうして、助けてお願い、と泣き喚きながら死ぬ……というのも、人間らしいのでは?

 と、いうところまで考えて、シャラはその思考を放棄した。

(「馬鹿馬、鹿しい……楽な方がいい、に決まってる……」)

 死は死に過ぎなくて。

 これは物語の途中で溶けて消えた女の末路に過ぎない。

 混濁した悪夢が確かなことなら、蜘蛛に喰らい付かれた時に、自分の物語は終わったのだ。

 いや、そもそもが自分の人生は最初から誰かのためのものであったのかもしれない。

 例えば、ラッカーの。

 きっと彼はあの後も生きて。

 自分を愛した女の死を大きな傷にしたりして。

 それでもきっと冒険を続けて、どこかを旅して。

 馴染みのミスラと結ばれたりして。

 いつか自分の経験を妻に語り、それは夜伽の物語となる。

 自分はその冒険譚の断片。

 少年と少女の物語を、血と悲劇の色で彩る役目。

 ここにあるのは、もう誰も読まない物語の余白。

(「どうでもいい……どう、でも……」)

 また眠っていたのだろうか。

 ふと目を開けると、視界は完全に白い網に覆われていた。今までも繭の中に包み込まれている感覚だったが、今回はもう顔も出ていない。縦横無尽に走った白糸が視界を埋め尽くし、その中に裸で浮かんでいる感じだった。蜘蛛は編み物をするように、丁寧に慎重に、自分を包み込む空間を丸ごと、巨大な卵嚢としていた。

(「……?」)

 意識がぐらぐらと揺れ、シャラは覚醒した理由に気付いた。ぐりっと身の内に何かが蠢き、心臓が狂ったように鼓動を打っている。身がぶるり、ぶるりと震えている。

「う、あ……」

 これは、激痛だ。意識を保っていることなど不可能な苦痛が、自分の躰に迸っている。視界の端が、紅く焼き付き始めている。だが感覚自体は全く遠かった。むしろ、身に走る苦痛の稲妻が妙に甘美に覚えて、背中がぞわりとする。

 シャラは、呻きながら顔を持ち上げた。ゆっくりとその目が笑みに歪み、吊り上がった唇の端から、紅い筋が滴る。

(「ああ……ようやく……」)

 喉の奥から何かが迸る。うぶっ、という湿った音がして、手指が伸び、身が反り返り、飛沫が散って白閨を紅く染めた。

「ひぐっ、いぃ」

 首が後ろにのけ反ったまま、がくがくと身が震える。ああ。駄目だ。気持ちいい。死ぬ。死ねる。ようやく。ようやく。あっ、気持ちい……――

「お゛、ぐ……っ!」

 それは声ではなかった。肺から気管を、血と空気が貫いた音だった。喉を幾度も灼熱が通り抜けて、生温い感触が顔に降り注ぐ。痛みは遠くて、しかし躰は玩具のように痙攣した。

 胸元から骨の砕ける音がして、胸を突き出す形で体が広がる。意識が遠いまま、シャラは本来であれば開かないはずの部分が、花が開くように裂けたのを感じた。肋骨が内側から弾けて外向きに開いたことは一度もないから、確信は持てないけれど。

 割れる柘榴のように自分の身が裂ける。そしてその亀裂から無数の何かが溢れ出していく。命が流れ出ていく。

 危険な冒険を、命を懸けた物語を、終わりまで走り抜けられる者など、ごく僅か。人生の主役が自分であると思い込む幻想を生きて、滅びの瞬間に気付くだけ。誰かの為に用意された命だった自分の運命に。

 冒険譚を紡ぐ者がいる裏に、途中で脱落する者は必ず存在する。

 恍惚に身を任せる中、シャラは無数の手のひらのような感触が身を覆っていくのを。そして割れた胎から、人の赤子のような産声が響くのを感じ取った。

 尤も、視界はすでに紅に埋め尽くされ、何も見えない。

 だがどこか遠く乖離した自分が、血を噴き上げて割れる女の形を見てもいる。冷たく冴えた、しかし熱く淀んだ目で、正面から割れた女体を……横に垂れて震える紅い乳房を見つめている自分がいる。

 ……? なんだ? なんで自分が、死にゆく自分を見ているんだ? また、夢か?

 わからない。でも、もういい。死の恍惚……これだけは本物だ。

 ああ。それにしても……永い、永い、滅びだった。

(「……よ……やく……お、わ……」)

 シャラは、吐息を漏らした。喉から抜けていく、最後の呼吸を。

 狂ったように早鐘を打っていた鼓動がゆっくりと乱打を止めて、冷たい死が末端から身を包み込む。安楽椅子に横になったように死に行く躰から、魂が別な所へ堕ちていく。

 白く暗く、冷たいところへ。

 そしてシャラの思考は、止まった。

 だがその目は、全身に降りかかる血の紅を映しながらも、だらりと下がる割れた女の裸体と、その内側から湧き出る灰色の渦を静かに見つめている。

 やがて白い闇の中に、血を啜る音以外の全てが途絶えるまで……。

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