表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
蜘蛛の白閨  作者: 白石小梅
13/16

13,少年と少女


 ミスラは、机を叩く音を聞いた。

 酒場のテーブルからグラスが落ちて、空しく砕ける。その音には、怒りと、不甲斐なさと、やるせない気持ちの全てがこもっていた。

「もう一度、行かなきゃ」

 相棒の言葉を、ミスラは俯いたまま聞いた。人気のない酒場の中、返る答えは短かった。

「もう無駄だ」

「無駄じゃない。姐さんはまだ……助けを待ってるかもしれない」

 ジャッタは、静かに首を振る。

「俺たちはもう二度あそこへ行ったが、何も見つけられなかった。その上、森は季節によって姿を変える。すでに痕跡も残っていない。せめて、骨だけでも持ち帰ってやりたかったが……」

「死んだとは限らないじゃないかッ!」

 悲痛な叫びに、ミスラは目を閉じた。大人しいラッカーが、痛々しいほど激高するのを見るのは、胸が痛い。鋭い爪で、心臓を優しく引っかかれているように。

「気持ちはわかる。だが、あれからどれだけ経った。残酷なようだが、もし姿を消したあの時にシャラがまだどこかで無事だったとしても、間違いなくもう生きてはいない」

「でも、師匠!」

「食料も水も、キャンプに残っていた。シャラの手持ちのポーチさえ。彼女は装備も道具も、何も持っていない。そしてもう……夏は過ぎ、秋も終わろうとしている。つまり……」

 そう。シャラという女は、溶けるように消えた。自分たちは、彼女を見つけ出すことは出来なかった。見つかったのは彼女の外套と、それに丁寧にくるまれていた保存瓶だけ。

 彼女はキャンプまで駆け抜けたが、そこで何かがあった。何があったのかはわからない。痕跡はそれだけで、他には何も見つからなかった。可能な限りあそこで粘ったが、幾度となく襲撃を掛けて来る蜘蛛の群れと、食料の枯渇を前にして退くしかなかった。

「でも! 姐さんは!」

「もうよせ、ラッカー!」

 尚も食い下がるラッカーを怒鳴りつけたのは、ジャッタではなかった。ミスラもまた、顔をあげてそちらを見る。

「親父さん……起きて、大丈夫なんですか?」

「ああ。心配ありがとうな、ミスラ。俺はもう、大丈夫だ」

 それはこの冒険で一行が得た、最大の成果だった。あの後、シャラのメモに遺してあった調合法で作り出した薬は、酒場の主人の容態を劇的に回復させた。まだ歩行に支えはいるが、彼はもう酒場に復帰を始めていた。

「いいか、よく聞け」

 主人は、妻に支えられながらもその足で歩いて椅子に座る。その顔には、ラッカーと同じ怒りと嘆きが満ちていた。

「俺だって、本当は信じたい。考えちまう。アイツがどこかで生きているんじゃないか……動けなくて、助けを待っているんじゃないかってな。だがもう……無理なんだよ。なあ、ジャッタ」

 酒場の主人は、ちらりとジャッタを見た。彼は諦観しきった顔で、先ほど言い掛けた言葉を紡ぐ。

「ああ……もう、冬が来る。雪解けまで、あの森に近づくことは出来ない。地形と雪が、人を拒む。あの森の冬を生き抜くのは、俺も不可能だ。ましてシャラには」

 ラッカーや酒場の夫妻の気持ちを慮って、ジャッタはずっとその結論を言わずにいた。しかしミスラだけは最初の捜索時に、すでに聞いていた。

『これはシャラの……いや、先に逝った仲間の遺体と遺品を探す旅だ』

 彼はラッカーには言うなと念を押した。ミスラはそれを約束する以外に、何も言えなかった。

「シャラは……馬鹿だぜ。俺なんかの為に。まだ若かった。何でも出来たろうに……死んじまうなんて」

「あなたのためだけじゃないわ。あの子は、お父さんの遺言を証明したかったの。どこかで分かってた。あの子は冒険者に、複雑な想いを抱いていたから……いつか、何かあるんじゃないかって……」

 引き裂かれるような気持ちであるはずだが、酒場の夫妻は現実を受け入れていた。かつての仲間を幾人も失い、厳しい心の冬を乗り越えてきた夫妻は、それでも生き抜く術を知っている。だが、こぶしを握り締めて震える少年は、その哀しみを知らなかった。

 ……今までは。

「どうしてなんだ……どうして? なんでみんな、納得してるのさ」

「誰も納得はしてない。だが、どうしようもないことなんだ」

 どうしようもない。仕方がない。その言葉で納得できるほど、喪失の痛みは柔らかいものではない。無力に打ちひしがれながらも何も出来ない苦悩は、遺された者を苛み続ける。

「どうして……どうして僕は姐さんを護れなかったんだよ!」

 椅子を蹴倒すように、ラッカーは酒場を出て行った。ミスラは慌てて立ち上がったが、師と夫妻はため息を落としてその背を見つめるだけ。

「あ、あの……追いかけなくて、良いんですか」

「もしよければ、ミスラちゃん。あの子が馬鹿なことをしないかだけ、見にいってあげてくれる?」

「わ、わかりました」

 大人たちには、大人たちの追悼があるのだろう。彼らは身と心を削って、シャラの捜索を打ち切る決断をしたばかりだ。ラッカーに、それは出来ないから。

 ミスラはそのまま酒場を駆け出て、相棒の背を追った。どこに行くかはわかっている。

 今は誰もいない道具屋の扉を開けた時、彼は裏手の倉を開けようとしているところだった。

「……開かないよ。泥棒除けに、親父さんが鍵をかけてるから」

 ラッカーは無言のまま手を止めて、そこを出て行こうとする。外への扉に背をつけるようにして、ミスラはそれを止めた。かつて二人でここを潜った時、シャラはどこかぎこちない笑顔で迎えてくれた……その時のことを、思い出しながら。

「一人で行くなんて、馬鹿な真似しちゃ駄目」

「君に、来いなんて言わないよ」

「それでラッカーがいなくなったら、みんな哀しむよ。今のラッカーと同じくらいに。きっと、シャラさんも」

 その名前にだけ、彼は反応した。押しのけようとしていた手を止めて、唇を噛む。

「僕のせいだ。行かないと」

「仕方がないなんて言えないけど。でも、ラッカーのせいじゃない。シャラさんは、ラッカーのことをすごく大事に思ってた。きっとあなたが幸せになることを、望んでくれると思う」

「違う! 君まで、あの人が死んだようなことを言うのか! 僕があの時、姐さんの護衛を最優先に動いていれば……姐さんは今頃、ここにいたはずなんだよッ!」

 その言葉が、さくりと胸に刺さる。確かに。彼が彼女にずっとついて行っていれば、シャラは助かったかもしれない。でも、それは。

「そうだね。もし、ラッカーがそうしてたら……シャラさんは、まだここにいた。『おかえりなさい』って、あなたのこと、迎えてくれた。それで、あの冒険でいなくなってたのは……あたしの方だった」

 涙が、落ちる。自分を押しのけようとしていたラッカーの腕の上に。彼はそれに気付いたのか、ハッと腕の力を抜いた。

「あたしだって……あの人のこと護りたかったよ! ラッカーみたいに付き合いは長くないけど……いい人だった! 私と、本気で話してくれた……! 親父さんのことも、私のことも、ラッカーのことも、助けてくれた! あたしだって、お師匠だって、ずっと後悔してるよ!」

 自分が蜘蛛の魔物たちを蹴散らせるほど強ければ。油断し、押し倒されて、助けを呼ぶような間抜けでなければ。誰も死ななかった。

 ミスラもまた、そう思う自分を抑え込んで生きてきた。

「ラッカーだけが特別に辛いの? それとも、あたしが死ねばよかったの?」

「いや……違うよ。そういう意味じゃない」

「そうだよ……あたしは、お父さんを助けられなかったこと……ラッカーのせいにはしない」

 零れ落ち始めた涙は止めどなくて。言葉は勝手に唇から落ちていく。ラッカーは茫然と前に立って、ミスラの肩に置いた手を滑り落とした。ミスラはその手を取ると、ぎゅっと握りしめる。そうしなければ、二人とも崩れ落ちそうだったから。

「あたし、生き延びちゃった……ラッカーがシャラさんのことにだけ集中してれば、あの人は助かったかもしれないのに。それなのに、またあたしが生き延びちゃったよ……」

「君は……悪くないよ。君が生きていることには……意味がある」

 ラッカーはそう言いながら俯いた。彼はしばらく、何も言わなかった。彼はずっと大切な誰かと誰かを、知らずに天秤に掛けてしまったことを見ないようにして来た。ミスラは、その片方の皿の上に乗ったのが自分であることに、もう気付いている。

『ラッカーが初めて来たときも、この瓶を渡したの。初めての子には、おまけしないとね。あとこれは、まあ、私が毎月飲んでるやつ。女の身で冒険者をやるんなら必要だと思うから、渡すだけ渡しとくわね。くれぐれも体に気を付けて、必ず帰っておいで』

 最初に会った時から、シャラは自分に対して何か含むところがあった。これでも冒険者の娘だ。世故は分からなくとも、人の心が向けて来るささくれた気配は知っている。

 でも。

『……私はこういう女よ。そんなのに横取りされたくないなら、あなたも自分の想いをきちんと伝えた方がいい。あなたは私みたいに汚れてない。きっと、あの子にお似合いだから』

 シャラの本音を聞いた時、ミスラは微かに感じた敵意の正体を知った。

 田舎者で常識知らずで美しくもない自分を、彼女が恋敵と見做してくれたことを。

 妙な話だが、それが嬉しかった。父、ラッカー、ジャッタ……彼らは自分を対等な者として大事にしてくれたが、シャラは自分を女として扱ってくれた初めての相手だったから。

「右にあるものと左にあるものを、両方とも手に出来るなら……誰も苦しみなんかしない。でも人は弱いから。間違うから。動けないときもあるから……でも、それでも、やり直しは出来ないから。あたしたちは前に進むしかないの」

 ラッカーも、本当は知っている。彼は選んでしまった。それに後から気付いたとしても、変えることはもう出来ない。ここに彼女が帰ることも、もうありはしない。

「ごめん……ごめん、姐さん。……シャラさん、ごめん」

 涙で腫れあがった眼をくしゃくしゃに歪ませて、二人は抱き合って泣いた。暗い道具屋の中、まだ彼女の気配が、微かに残る中で。二人は背を撫で合い、ただ泣いて、泣き明かした。失ったものに想いを馳せるために。

(「でも……あたしは」)

 そうしながら、ミスラは心のどこかで冷えた己を感じている。

 本当に、自分は哀しんでいるだろうか。

 同じ男を巡って争う女が……知恵が回り、色めいていて、世話を焼いてくれる優しさの中に、微かに滲む憂いがあって。柔らかな肢体で彼のことを抱き留めることが出来る女が、消え去ったことを。

 元々繊細な彼は、傷ついて苦しんで、残酷な現実に向き合おうと足掻いている。

 今、その肩に手を置けるのは、自分だけ。

 彼を愛する全ての人が、自分にそうすることを望みさえしている。

 死んだ女は彼の幸せを願い、天から優しく見守ってくれるだろう、と。

 だが、ミスラは知っている。

『あなたの目の前にいる女は、あなたやあの子が考えているような、自制の利いた優しい大人のお姉さんじゃないの。本当はね。あの子の翅をもいで、閉じ込めてしまいたいと思う女なのよ』

 彼女は望むはずだ。

 ラッカーが自分の為に、嘆き、悲しんでくれることを。

 無謀に身を晒してでも、手を差し伸べてくれることを。

 今、自分はその物語にとどめを刺そうとしている。

 あの日、少年の手で恐るべき蜘蛛の魔物から救われたのは、自分だから。

 ミスラは泣き崩れながら、心の中で謝罪を唱え続けた。

 ああ。きっと、そうだ。

 自分はあの時。

 蜘蛛に襲われ、ラッカーの名を呼んだあの時。

 心のどこかで。

 きっと……――

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ