12,悪夢への帰還
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……全ては、夢。
そして記憶だ。
淀みの中から水面の虚像を捕らえようと手を伸ばしては、沈み込む……己の人生の繰り返し。
(「……何度、目……よ」)
シャラは、呻いて目を開く。
全てを思い出して目覚めると、白閨の中で、壁に埋め込まれて、動けなくて、あの蜘蛛たちが身も心も苛んで。
もはや何かを想う気持ちも失せた。
二十数年の短い人生。その終わりだけが、まだ来ない。
蜘蛛の抱擁は優しくて残忍で、甘い毒は心を溶かす。全てが倦むような熱で眠りに誘い、結末を変えることの出来ない物語を、ひたすらに見せ続ける。
(「もう……いや。見たく、ない」)
だがそれを拒む方法はない。助けを求めて周囲を見たところで、白閨の中に己の辿る道が見えるだけ。舐められたように綺麗な骸骨が、大事そうに閨の中にくるまれているのが。
ここはさながら、神殿のよう。白骨たちは神像か、でなくば標本箱の標本のように、大事そうに、規則正しく並んでいた。その側には、いつもひと際大きな蜘蛛の影がある。
巣の主の影が。
鮮やかな黄と赤の体色に、すらりと細く長い脚。毛のない艶やかな体。絡新婦に似た、優美な形。しかし繊細な形に反して、大きさは他の蜘蛛たちを圧倒する。その腹だけで他の大蜘蛛そのものより大きく、脚を含めれば象も超える。
なにより、蜘蛛であれば顔があるべき位置から、艶めかしい女の細腰が生えていた。血の気が失せた、しかしどこか艶のある肌に、長く伸びた黒髪を纏わりつかせて、埋め込んだ白骨を撫でまわす……女の上半身が。
それが、シャラを手籠めにした、女蜘蛛。
他の大蜘蛛が鬼蜘蛛に似た、太く逞しく柔毛に覆われた姿をしている中で、女蜘蛛だけが他の蜘蛛とは明らかに異質だった。
(「確か、蜘蛛は……」)
昔、図書館の図鑑で、多くの蜘蛛は雌の方が大きく、時にまるで違う種のように見えることもあるという話を見たが、それは魔物にも当てはまるのだろうか。自分たちが大蜘蛛と呼んでいるものは雄だったのか、それともあの大蜘蛛は長じると人に似た形を得るのだろうか。
ふと、一匹の逞しい大蜘蛛が、何を思ったのか巨体の女の影に近づいていった。だが女蜘蛛は、壁に埋め込んだ骸骨へと頬を摺り寄せるのに忙しい様子で、足元に纏わりついて何か訴える大蜘蛛を見向きもしない。それでも大蜘蛛は何か訴えるように、硝子を掻くような声をあげた。
「……うっ」
朦朧としているシャラの背筋さえぞっとさせるような、凍てついた何かが走った。女蜘蛛の顔が、ぐるりと首を回して足元を睨む。白目を剥くように無理矢理に大蜘蛛の方へ向けた瞳に、正気の色はない。額に開いた紅い単眼に憎悪のしわが寄った。
どつっと鈍い音がしたと思った瞬間、紅い血を噴き出しながら大蜘蛛の体が宙に浮かんでいた。甲高い悲鳴をあげながら、大蜘蛛は身をばたつかせるが、槍のように細く長い脚に串刺しにされたままでは何も出来ない。
女蜘蛛はしばらく大蜘蛛を見つめた後、ごみでも投げ捨てるようにその巨体を放り投げた。視界の向こうに飛んでいった大蜘蛛の体が白閨のどこかに衝突する。その振動は、シャラの身さえぎしりと揺さぶった。
『う、ふ……ふふ……』
蜘蛛女は焦点の合わない目を笑みの形に歪ませると、また骸骨を優しく撫で始める。その笑い声は人のものだが、その怪物が人語を話すのを見たことは一度もない。
(「この、化け物を、誰も……」)
人々は地を這う大蜘蛛たちを恐るべき魔物として警戒しているが、この怪物に比べれば大蜘蛛の十匹や二十匹など塵芥に等しい。
だが女蜘蛛は人が昇ることの難しい巨大樹の樹上に構えた白閨の奥に身を潜め、滅多にそこを出ない。現にシャラは目が覚めている時は、常にこの怪物の気配を感じていた。だから、遥か樹上から、哀れな犠牲者たちを見下ろす目があることを、誰も知らない。
その証拠に、この怪物の存在をどの冒険者からも聞いたことがない。
森を統べる真の女王の存在に気付いた者は、等しくシャラと同じ運命を辿ったのだ。
この森で消えた、父のように。
だから、シャラの物語もここで終わる。
ラッカーたちが自分を探して、地上を這い回っても意味はない。父さえ助からなかったのだから、自力でこの状態から助かる術などありはしない。
(「あの女は……見ての通りの、気性だし……」)
えげつない趣味をお持ちの怪物は、壁に埋め込んだ骸骨たちにやたらと執着する。お気に入りの獲物なのか、整然と並んだ白骨死体と自分では扱いが違うらしい。繭にした人間を苛むのは手下にやらせて、何か気に入らなければ塵を掃くようにその手下を殺した。
大蜘蛛たちが努めてシャラを傷つけまいとし、何やら奴らにしかわからぬ丁寧さで世話を焼くのは、そのためだろう。
シャラは目が覚める度、場所を移動させられていることに気付いていた。長い眠りに堕ちている間に、大蜘蛛たちが拘束を外して新たな所に優しく埋め直しているということだ。うっすらと意識がある時に、ぐったりした人の肢体が別な所へせかせかと運ばれていくのを横目にしたことがある。恐らく大蜘蛛たちは女蜘蛛の植え付けた卵と、それを育む繭の管理を任されているのだろう。緩やかに拘束し、意識を混濁させ、全てをどうでもよくして、自殺を阻むために。
常に天井や床の邪魔にならないところに埋め込まれて、女蜘蛛のお気に入りたちのように目立つところには並べられていないところに、女蜘蛛に気を遣う大蜘蛛たちの気苦労を感じる。
(「こんなとこでも……ついでみたいな、扱いね……」)
別に蜘蛛に好かれたいわけではないし、自分を弄ぶ怪物に共感してやる必要はないのだけれど、シャラは妙な自嘲を覚えた。あの女蜘蛛にとって繭は、扱いに気を遣うべきではあるけれども、絵画として屋敷に飾るものではない、ということか。
(「もう、いいから……はやく、終わって……何も、かも……」)
いずれ待てば、その時は必ず来る。来てくれるはず。はやく、はやく、来て。ここでは、時の進みが遅すぎる。お願いだから、この膿んだ熱を放置しないで。せめて、蜘蛛たちの毒に酔わせていて。熱が頭を焼き溶かす間だけは、他事を忘れていられるから。はやく、おねがい、倦んで、熟んで、産んで……それで終わるなら、それでいいから。
(「さきの、ない、ゆめは……もう……」)
どんなに拒んでも、瞼が灼けるように重い。
目を開けていられない。
意識が、溶けていく。
現実であったかどうかも忘れかけている、あの夢の中へ。
何度も、何度でも……。