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蜘蛛の白閨  作者: 白石小梅
11/16

11,螺旋輪廻


 シャラは駆けに駆けた。

 息が切れて、喉が灼けるほど。

 鉄の味が舌の上に苦い。

 震える足の動きは、もはや歩いているのと大差ない。

 聞こえるのは己の息遣いと、草を踏む音だけ。

 闘いの喧騒も、魔物の金切声も、もう聞こえない。

 それでもシャラは、絶対に足を止めはしなかった。というよりも、立ち止まることが出来なかった。生き延びたことで、恐怖が胃の腑を掴んでいた。

 あの大蜘蛛に、回り込んでくるような智慧があるとは思えない。それでもあれは、慈悲もなく荒れ狂う、世界の負を背負った禍だった。

(「私は……私は、無理。あんなのと渡り合うのは、もう無理」)

 何をどうしたら貧相な武器や貧弱な魔法で、あんな化け物と闘う道を生きて行こうと思えるのか。誰かがやらなければならないことは、わかる。でも、帰りを待つ者がいるのに、何故あんな真似が出来る?

 冒険者は狂っている。父も、その仲間たちも、ミスラもラッカーもだ。

 あの闘いの間は無我夢中で忘れかかっていたものが今、己の心に圧し掛かり、繊細な硝子細工にひびが入るように、深い亀裂を走らせていた。

 シャラは涙を拭った。その時ようやく、蕾をしまった保存瓶を腕に抱き抱えたままなのに気付いた。しかし立ち止まって背負い直すことは出来ない。心が千々に乱れて、足を止められなかった。

(「私には、あんなのの相手なんか出来ない。冒険なんて、出来ない。みんな頭がおかしいよ……!」)

 つい先ほどの記憶が、鮮烈に脳裏に瞬く。ラッカーに圧し掛かる大蜘蛛。自分へ迫って来た、毛の生えた触肢。その先端についた緋色の牙。記憶が炸裂する度に悲鳴が喉元へせり上がり、呼気が掠れる音になって掻き消える。

 駄目だ。考えるな。ベースキャンプには、魔除けの結界が張ってある。薄く輝く光の周辺。あそこは安全だ。それだけに集中しろ。あともう少し。すでにあの光が見えるから、この辺りに近づくだけで魔物たちは痛みを覚えるはずだ。もう安全だ。それでも、ああ。

 頭を振って考えを掃った時だった。何かに足を取られ、胸を打ち付けるように転んだ。ポーチの荷物がぶちまけられ、手に持っていた瓶がそのまま転がる。ぞっとして振り返ったが、足元には何も見えなかった。

(「っ、瓶、が……」)

 伸ばした指先を掠めて、瓶は勢いをつけて坂を転がっていく。

 シャラはそのまま体を丸めて、幾度となくむせ込んだ。目の前がぐるぐると回っているような感覚がする。喉がひりついて、息をするたびに痛い。ポーチから転がった木の水筒を見つけて、一気に全て飲み干した。乱打する心臓が落ち着くまで、動けなかった。

(「瓶……瓶を……」)

 朦朧とする頭を奮い起こし、首を絞めるように巻き付いていたポーチを外して、シャラはゆらりと立ち上がった。足は燃えているかのようで、まともに動かない。恐怖が心臓に爪を立てている。

 それでも……。

 霞む目で、シャラは坂の下に転がっていた瓶を見つけた。周囲を見回しても、魔物の影はない。それを確認できる程度の頭は、まだ残っている。

 あの花は取り戻さなければならない。でなければ全てが無意味になってしまう。父の死、ラッカーたちの闘い、自分の小さな冒険と覚悟……その全てが。

 シャラは慎重に坂を下った。草は生えているがそう長くもないし、土を掘り返したような跡もない。あの蜘蛛が隠れることが出来るような場所はない。

 大丈夫。大丈夫だ。

 言い聞かせながら坂を下ると、シャラは保存瓶を拾った。外れかかっていた蓋をぎゅっと締め直し、外套を被せて汚れを落とす。ひびは入っていない。保存に問題もなさそうだ。頭の奥が痺れているような状態でもそれがわかるのは、道具屋の性のようなものだった。

(「よかった……大丈夫ね」)

 背後には結界を背負っているし、周囲には何もない。魔物は来ていない。自分は逃げ延びたのだ。

 あと心配なのは、ラッカーたち。

 彼らはあの闘いを生き延びたのか。ここまで戻って来てくれるのか。

 不安が肚の奥に揺らめき始めた時、遠くに声が聞こえた。「姐さん」と呼びかける声。その声に続いて、ミスラとジャッタがシャラの名を呼ぶ声が、遠く聞こえた。

 まだ喉は掠れていたが、シャラは長く息を吐いた。

(「無事だった……神様、本当にありがとう。彼と帰れる……帰ったら、もう二度とこんな冒険はごめんよ」)

 先ほどの闘いの最中、つい口走ってしまった告白だが、こうなった以上は譲る気はない。ここまで走る間に、その想いは一層固くなった。

 こんな危険な旅に大切な人を送り出せる女がいるものか。彼には、選んでもらう。私と共に生きるか、命懸けの冒険を取るのか。何が何でも。

(「貴方は私の命の恩人。命を張って私のことを護ってくれた人。あんなこと出来る相手に、惚れるなと言われても無理よ。ミスラには悪いけど、私と一緒にいるのなら街で暮らしてって、そう言……――」)

 心に決めて振り返った時。

 そこに浮かんでいた髪の長い女の顔と、視線が絡まった。

 心臓の鼓動が、とくん、と一度打ったきり、時が止まる。

 あまりにも唐突で、事態を認識することも出来ない。

 薄く嗤う、細い唇。おどろに下がる、艶やかな髪。どこか焦点のぼやけた瞳。血の気の失せた肌、透き通るように白い薄めの胸……。

 逆さにぶら下がった女体が、背を反り返らせるように自分を見つめていた。

 女の唇が笑みの形に吊り上がり、微風が黒髪を揺らす。その額には、人の目とは別の六つの瞳が開いていた。薄紅く光る、宝石のような単眼が。

「ッ!」

 咄嗟にポーチを探した指先が、空を切る。いや、仮にポーチがあっても、意味はなかったろう。聖水瓶はもうないから。

 女の下半身があるはずの場所から、目にも留まらぬ速さで蜘蛛脚が伸びた。ジョロウグモのものに似た硬質の脚がシャラの身を包み込む。女の下顎が真ん中から二つに割れて、その先端に紅い牙が覗いた瞬間、己の首筋を突き破る鋭い痛みを感じた。悲鳴をあげる間もなかった。

「あ……ッ! ッ……!」

 助けを呼ぼうとした口が、開いたまま勝手に息を止める。空気を求める魚のように口を動かしながら、シャラは必死にもがいた。皮膚を突き破られる痛みはすぐに消えて、心臓が脈打つたびに、びり、びり、という筋に走る痺れのような感覚が走る。身は攣ったように震えて、指先がかってに硬直した。

「姐さん! 無事かい!」

 ラッカーの声。仲間たちが走って来る。ただし、自分のいる坂の下ではなく、結界へ向けて。

「あ……あくっ……か……」

 声が出ない。まともに息も出来ない。痙攣の度に肺が収縮し、勝手に空気が出たり入ったりを繰り返している。長いこと同じ姿勢で固まっていた時のような気色の悪い痺れが、指先から身の内までじくじくとしみ込んで来る。

「シャラさん、どこ? おかしいよ、どこにもいない……!」

「荷物がある。一度は、戻ってきている。周囲を探すぞ。だが、決して離れるな。三人で固まって探すんだ……!」

「姐さん! お願いだよ、返事をして!」

 三人が、全く別な方向へと歩いていく気配を感じて、シャラは死に物狂いで手を動かそうと身を捩った。女の上半身がついた蜘蛛の化け物は、身悶えする獲物の抵抗を楽しむように首筋に牙を突き立てたまま、長く淫靡な舌で流れ落ちる血を舐める。

(「い、行かなきゃ。た、たす、助け、を……」)

 一度、二度……そして三度。熱を帯びたぬるりとしたものが首筋を這う度に、ぞくり、ぞくりと背筋を寒気が走った。

 駄目だ。動けない。力が入らない。声も出ない。

 気が付けば、目の前の大半は焼き付きに覆われていた。音が、遠い。顔が熱い。

「嫌だよ、姐さん!」

 シャラは残酷なほど優しい抱擁を受けたまま、足が地面を離れるのを感じた。柔らかな草を引き抜くように、力なく首筋を晒した身が持ち上がる。音もなく、ゆっくりと地面が遠くなるのが微かに視界に映った。

 女蜘蛛は余裕を以て糸を引き、遥か高い巨大樹へ向けて昇っていく。

「姐さん! シャラさん……ッ!」

 足元から、彼女の名を呼ぶ声が響いている。

 ああ。そうね……私は、姐さんじゃない。

 それに、そんなつらそうな声音で名を呼ばれたのは、初めて。

 朦朧とする意識の中で、シャラはどこか甘い気持ちで、その声を聞いていた。

(「呼んでよ……もっと……私を……」)

 ずるりと熱いものが首から抜かれた感触があって、体がひときわ大きく震えた。だがそれだけ。もう何も動かせなかった。気付けば、指先も、腕も、足も、感覚がない。首筋にだけ、熱い吐息が掛かるのを感じる。それも、遠くなる。

 紅く暗く染まる中で、自分を呼ぶ彼の声だけがこだまする。

 微かに繋がった意識がふっと途切れる時。

 シャラは遠い意識で、思い出した。

 この記憶を、幾度となく繰り返していることを……。

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