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蜘蛛の白閨  作者: 白石小梅
10/16

10,蜘蛛の魔物


 緑に茂る葉がかつてこの地に存在した古い文明の遺跡を覆い、遺跡の隙間を白い霞が幽霊のように漂う。鬱蒼と天を覆う巨大樹が大地を暗く染め、雨や夜露の雫がぱたりぱたりと苔の上に滴る地……。

 それが、巨大樹の森だった。

 馬で進めるのはここまで。後は、徒歩で行くしかない。

 ラッカーとその師が、交互に目を光らせて先行する中、犇めく大樹の隙間を突き進む。

「姐さん、目標はわかるの? 森の中は目印も少ない。もしも……」

「馬鹿にしないで。貴方に道具の使い方を教えたのは誰?」

 これでも道具屋の端くれ。冒険者相手に幾度も使い方の指導をして来た。測量魔具を用いた位置推測や、魔物避けを使うのは手馴れたものだ。父の形見の地図も正確で、危険地帯を避ける道筋は、すでに割り出してある。

「この先には毒花が咲いてる。一度、南に向かって回り込むわ」

「……姐さんにお株を奪われちゃうな」

 持ってきた豊富な道具類さえあれば、自分でも冒険の役に立てる。三人と並び立てる点があったのは、嬉しかった。

 それでも。

「……師匠、何かあった?」

「皆、下がれ。気配を気取られた。魔獣の群れに警戒されている」

 魔物が相手となれば、出来ることはほとんどない。森に暮らす魔物は、蜘蛛ばかりでない。狼や鳥、時には植物や行き倒れた死者さえも、取り込んだ魔素によって魔物と化し、この森に蠢いている。

 魔物たちはただの獣と違う。見つけた人間を見逃すことは決してない。奴らは人間を発見次第、襲い掛かる。飢えていなくとも、縄張りに踏み入らなくとも。故に魔物と称されるのだ。

 冒険者に求められる第一の能力が“魔物と闘う力”であるのは、そこにある。この世界において、人界の外に出るならば戦闘は避けられない。

 ラッカーは身を伏せたまま坂の下を睨んだ。苛立たし気に円を描く、大きな狼の群れを。

「狼か……数は四体。やり過ごせるかな」

 ミスラがそこに顔を近づけて、囁くように語る。

「きっと、匂いを追って来る。シャラさんの聖霧で気配を消してるのに、気付かれたんだし」

「上手くやれば撒ける。奴らの鼻を攪乱できればな」

 促されたように、ジャッタも答える。そして二人はラッカーを見た。答えは、リーダーに委ねるという意志を込めて。

「……逃げようとしてしくじるのが一番まずい。こっちには姐さんもいる」

「じゃあ?」

「先手を取る。まずは師匠がここから射撃。その後に僕とミスラで突っ込む。師匠はそのままここで、姐さんを護衛しながら援護して」

「承った」

 語り合う三人。強い仲間意識と技能を共有する、冒険者の顔。振り返ったラッカーが語り掛けて来るまで、シャラは口の挟みようもなかった。

「姐さんはここを動かないで。師匠に護ってもらう。聖水瓶を持っているのは知ってるけれど、それは自分の身を護る時だけに使うんだ」

「仲間に何かあったら?」

「もしも僕や師匠に何かあっても、奴らの気を引いちゃ駄目だよ。互いを護り合うのは、僕ら自身でやる。僕らの仕事は、姐さんを護ることだ」

 その顔が、店で見る少年の顔とは違って見えた。強い意志のある瞳。男が女に向ける熱。頷きを返せば、槍を構えて駆けていくその背は頼もしい。

「行くよ、二人とも!」

 矢が空を切り、魔狼たちの咆哮が坂の下に轟く。肉と鉄のぶつかる音。回転する槍。刃が舞って、血がしぶく。叫び合い、緋の中で三人が踊る。シャラはその外れでしゃがみ込み、耳を塞ぐしか出来ない。

(「大丈夫……これは三人にとっては日常。必ず戻って来る。必ず……」)

 そう言い聞かせても、胸を締め付ける気持ちは店で待っていた頃よりも一層強くなる。

 共に旅をしてもなお、失うことへの不安は一層、強くなっていく。





 森は深く、広く、緑色に揺らめく霞となって旅路を包み込む。巨大樹はあまりにも高く、その葉は巨大で、雲のように天を塞いでしまう。木漏れ日はともし火。それが絶えれば、闇が全てを呑み込む夜。

 夜間は貴重品である結界の聖石を消費してキャンプを張るから、襲われる心配はない。

 それでも日に一度、多ければ二度は、魔物と、闘いと、血と、恐怖とが旅路を彩る。三人の仲間は強く、そして逞しく、手慣れた様子で怪物たちを撃退するが、シャラの不安は拭えない。

 まだ生きている、そしてこれから死ぬかもしれない、という実感は、危機を乗り越える度に胸の中にしみ込んで来る。

 この闇に溶けるように消えてしまう者が出るかもしれない。

 それはラッカーか。自分か。それとも残り二人のどちらかか。誰が消えても、夜は変わらずに口を開けて人を待ち続けるだろう。

 そこに溶けた者がどうなったのか……誰にも教えぬままに。

 何か暗い予感を覚えながら、シャラは数日かけて三人を導いた。

 目標の湖畔まで、あと少しの所まで。

「この先よ。あとはあの丘を越えるだけ」

 地図から顔をあげて、先を指した。

 シャラの心臓の鼓動は痛いほどだった。

 坂を上って開けた湖を前にしたとき、父の秘密の全てがわかる。彼が見出した答えが、ここにあるのだ。

 そして三人は、丘を越えた。

「これは……!」

 それは、これまで目にした何よりも幻想的な光景だった。

 柘榴石のように輝く花の群れが湖畔の一角を覆い尽くし、輝いていた。風に靡く花弁が水気を受けて、煌めきながら舞い飛んでいる。

 三方を丘に囲まれ、もう一方は巨大な湖。反対の岸からは、緑に遮られて全く見えないだろう。そこはまさに、秘密の花園だった。

「こんなにたくさん……! 親父さんどころか、何十人も救えるんじゃないですか!」

「まさか本当に、こんな場所があるとは……先生。あんたって人は……」

「姐さん……お父さんはスゴイ人だね。こんな場所を知ってたなんて」

 三人が振り返る後ろで、シャラは膝を落とした。

(「お父さん……」)

 本当にあった。彼は最後の最後に、結果を遺していた。母を救うには間に合わなかったが……それでも。

「みんな、ありがとう。ここが目的地。エイクレイルの花畑よ。私が依頼したのは、ここまで。これで秘密は……みんなのものになったから。帰りは、仲間として送ってくれると嬉しい」

 滲む視界を拭い、シャラは立ち上がる。

「ここからはお願い。採取を手伝って。花が開き切っているものより、膨らんだ蕾を探して。見ての通り、この花は開いてしまうとすぐに散ってしまう。散った花びらでは、効果は薄いの。私の持ってる保存瓶には魔法の保護が掛かっているから、蕾を街まで維持できる」

 四人は頷き合って、花畑に踏み入った。思った以上に花は開いてしまっている。その中で蕾を探すのは一苦労だ。それでもこれだけあれば、一つ、また一つと蕾は集まり、瓶を満たしていく。

「ラッカー。ひと瓶あつまったわ。念のため、もうひとつ……」

 全ては、うまく行っている。あとはこれを持ち帰ればいい。瓶を持ち上げて、ラッカーのところに歩み寄った……その時だった。

 ラッカーの目が見開かれて、自分を突き飛ばすように槍を振るったのは。

「……!?」

「逃げろ、姐さん!」

 どつっと重い音がして、金切り声が湖畔に響く。何が起こったのかもわからないまま振り返ると、どこから現れたのかこちらに飛び掛かろうとしていた巨大な蜘蛛が顔面を突き刺されていた。紅い血が飛び散り、鳴き喚きながら腕を振るってラッカーに掴みかかろうとしていた。

「な、なによこれ! どこから……!」

「蜘蛛だ! みんな、気を付けて!」

 その叫びに、離れたところにいたミスラとジャッタが振り返る。瞬間、周囲の花びらが散り、大地を割るように無数の蜘蛛たちが姿を現した。黒い花びらを蹴散らしながら、真っ直ぐこちらに迫って来る。一匹や二匹ではない。十匹か、それ以上か……。

「まとまれ! 独りになるな!」

 ジャッタが跳び退って矢を放ち、ミスラの悲鳴が上がった。咄嗟に振るった短剣は、蜘蛛の触肢を切り裂いたものの、圧し掛かって来る勢いまでは止められなかった。

「ミスラ! くっ……! 立って走って、姐さん!」

 ラッカーはまだもがく蜘蛛を振り払うと、シャラの手を引っ張った。残った手で咄嗟に瓶をひっつかみ、シャラも駆ける。

「ま、待って!」

 頭のどこかで、罠に嵌まったことに気付く。明らかに蜘蛛たちは、こちらが散るのを狙っていた。魔物の中には、人にとって価値のあるものの側に巣食い、それが人を引き寄せるのを待ち構えるものがいる。

 父は最後にここを目指し、そしてどこかで潰えた。その“どこか”とは……つまり。

「ラッカー! 助けて!」

 ミスラは悲鳴をあげ続けていた。巨大な蜘蛛に圧し掛かられながら、必死にその牙を掴んで止めている。ジャッタも次々と矢を放っていたが、追いすがる蜘蛛を足止めするので精一杯。そちらまで助けに行けていない。

「う、おおぉ!」

 ラッカーは咄嗟に、槍を投げた。それは引き絞られた矢のように飛んで、ミスラに喰らい付こうとしていた魔物の胸倉を貫いた。

「ラッカー、後ろよ! 一匹来る!」

 シャラの叫びに、ラッカーは槍投げの結果を待たず腰の短剣を抜き放っていた。振り向きざまに背後の蜘蛛の足が二本飛んだが、突進までは止まらない。体当たりに突き飛ばされ、花畑に押し倒されて……。

「ッ!」

 咄嗟にシャラが投げた聖水瓶が、蜘蛛の顔面で弾け飛んだ。絶叫をあげて蜘蛛がのけ反るが、腹部に剣を突き刺したまま絶命したせいでラッカーへ覆いかぶさる。

「姐さん! 僕に構うな! 師匠の方に!」

「嫌よ!」

 彼は抜け出ようと身を捩るが、すでに次の蜘蛛はすぐそこまで迫っている。保存瓶を抱えたまま、シャラは残る手でポーチの聖水瓶を投げた。今、彼を護れるのは、自分だけ。瓶を投げる度、蜘蛛は悲鳴をあげて転がるか、咄嗟に後ろへ跳んで逃げるが、次から次へと迫って来る。

「いいから、僕を置いて逃げろ! それを親父さんに届けて! 姐さん、お願いだから……!」

「一緒に行くのよ……! 私の父はここで死んだの! だからあなたには、私と一緒に生きて欲しい! 大事な人とこんな形で別れるなんて、もうこりごりなの!」

「僕と一緒に死んだら、親父さんが助けられないだろ!」

 一瞬だけ、蜘蛛たちが散った。聖水瓶の数はもう少ない。今、逃げ出せば自分は助かるかもしれない。もがくラッカーに手を差し伸べれば、二人とも死ぬかもしれない。

 シャラは即座に、ラッカーの手を掴んだ。

「一緒に生きられないなら、一緒に死ぬわよ。前から、あなたとずっと一緒にいたかった。姐さんとしてじゃなくてね」

「はあ? 姐さん、それって……」

「名前で呼んで。最後になるなら」

「ああ、もう!」

 シャラとラッカーは、互いに渾身の力でその身を引きあった。蜘蛛の死体を蹴り飛ばし、どうにか拘束を抜け出す。遠目には、同じ要領でジャッタがミスラを蜘蛛の死体から引っ張り出していた。

 だがそちらを見ている余裕はない。蜘蛛が腕を広げて、迫って来る。ラッカーにまともな武器はない。二人は走り出し、しかし、シャラは足を取られてこけた。咄嗟に振り返る。目の前には、花をかき分けて迫り来る、蜘蛛の脚。煌めく、八つの眸。見たことがある景色。

「……ひッ!」

 稲妻のように、“その時”の恐怖がよみがえる。

 シャラは咄嗟に腰のポーチに手を差し込み、もう数少ない聖水瓶を投げた。魔を祓う聖水を浴びて、大蜘蛛は甲高い叫びを上げてひっくり返った。

(「これは……私、これを知ってる? どこか……どこで?」)

 へたり込んだまま後じさり、周囲を見回す。左右から、花びらを撒き散らして二匹の蜘蛛が迫ってきていた。シャラはすぐにもう一本の瓶を構えた。硝子のぶつかる高い音。悪夢のような悲鳴。

 残り二本の聖水瓶の片方を、すぐ右へ迫る影へ投げつけた。甲高い悲鳴を上げて大蜘蛛がのたうち回る。

 これが、最後の一本。

 だが左側へ投げつけるのは、間に合わない。剥かれた牙が花畑を割って……。

「コイツを使え!」

 ジャッタの声と共に、抜かれた槍が飛翔した。それを空中ではっしと掴んで、ラッカーは着地と同時に跳躍する。

「姐さん!」

 瞬間、斬風が髪を揺らした。大蜘蛛の脚が宙に舞い、短槍が銀の軌跡を描いて回転する。旅装に身を包んだ、しなやかな青年の背中と、揺れる金色の髪。彼が振り返った時、その額から汗の雫が煌めいて、潤んだ大きな瞳と視線が絡んだ。うら若く、微かにそばかすの残る愛らしい顔立ちには、まだ少年の匂いが残る……。

「ラッカー……!」

 思わず、彼の名を呟いた時、確信した。

 知っている。自分は、この風景を、見たことがある。

 だが、今はそれを考える余裕がない。今は、生き延びることと、それから……。

(「ねえ。ラッカー。呼んでよ。私を呼んでよ……! 姐さんじゃなくて!」)

 そうだ。無我夢中で、訴えたこと。死ぬにせよ、生き延びるにせよ、一緒がいい。そう伝えられた。伝えてしまった。後戻りは、もう出来ない。

 身を回転して槍を振るう彼は、まるで水が流れるように蜘蛛を斬り払う。

「み、右! まだ来る!」

 次の蜘蛛と格闘して、ラッカーはその胸倉を突き刺した。しかし今度の蜘蛛はまだ死なない。貫かれたまま触肢をばたつかせて、獲物を掴もうとする。

「くっ……しぶとい奴、だな!」

 シャラは即座に、最後の聖水瓶を投げた。絶叫を上げて、蜘蛛が身を逸らす。その瞬間、ラッカーは蜘蛛の巨体を薙ぎ払い、横から迫っていたもう一匹の頭を刺し潰した。

 身を守るものは、もう何もない。

「助かったよ! さあ、逃げて! それを親父さんに届けて!」

 花を散らしながら迫る、無数の影。それを前に、青年は槍を回して身構える。護衛の任を果たし、殿を務めるために。ああ。きっとミスラは、これを見たのだ。彼女の父の背を、この視点で。

「ラッカー、あなたは? 私、あなたと一緒に……!」

 彼は振り返って、シャラの肩を掴んだ。その指は力強く、真っ直ぐにこちらを見つめる目には、愛情と決意が満ちている。

「姐さん……ううん、シャラさん。僕は後から、必ず追い付くから。みんなで帰ろう。そしたら、ずっと一緒にいるから……! だから今は、逃げて!」

 見つめ合った視線の間に、熱い何かが結ばれる。

 約束。この約束。それが私の欲しかったもの。

 ああでも。ここで彼を置いて走れば、どうなる? どうなるんだ? 知っている、気がする。結末を。でもそれは……彼が死ぬのでは、なかったような。

「約束よ」

「約束する! さあ、走って!」

 彼は突進してくる蜘蛛の群れへと跳躍する。帰る意志と、守る意志を手放さない、強い目で。

 よろけて駆け出すシャラの手を、ミスラが引っ張った。

「下がってください……! 奴らは任せて! キャンプまで戻れば、結界が張ってありますから!」

 更にそのすぐ隣から、ジャッタが肘でシャラを押しやるようにしながら矢を放つ。

「駆けろ! 蜘蛛どもは全力で走れば追い付けないはずだ!」

 シャラは聞いた。彼が独り、周囲に聞こえぬ音で囁いた声を。

「先生……! 俺が隣にいれば、ここから生きて帰れたことを……今、証明してやる!」

 大蜘蛛の群れと冒険者たちが激突する、闘いの音。

 それを背に、シャラは走った。視界が滲むのは、涙のせいなのか、何かが感極まったのか、わからない。

 ここから離れなくてはならない。自分は彼らとは違う。街の道具屋に過ぎない。あのバケモノと渡り合える手段はない。

 やがて喧騒は遠くなり、聞こえなくなっても、シャラは駆け続けた。

 だってそうだろう。依頼主である自分と、そしてここに来た目的である花の蕾を護ろうと、彼らは殿を務めている。

 自分が逃げ出すことでしか、彼らは逃げられない。

 それなら、この禍から全員が生きて目的を果たすには……生き延びるには、これしかない。

 そのはずだろう……?

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