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蜘蛛の白閨  作者: 白石小梅
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1,長い長い夜伽の始まり


 雨がそぼ降る夜のこと。

 木枠の窓を妖しく叩き、ほの温い夜の闇に誘う音色。

 ランタンに燻る灯の魔石が炭のような焔を発して、優しい熱で閨を包む。

 幼子は柔らかな褥にくるまり、壁に踊る優しい影を見つめて。

「ねえ、お母さん。あのおはなしして。かっこいい、冒険者のおはなし」

 夜伽を乞う、愛らしい声。

「おとうさんのおはなしして」

 母はにっこり笑って、その頭を撫でた。

「仕方ないわね、一回だけだからね」

「ええー」

「その代わり、一番長いお話をしてあげる。お父さんが帰って来るまで続くようなね」

「ほんと! 凄い魔法に、怖い魔物に、それからきれいな魔女さんも出て来るやつがいい!」

 高い声音が、天使のように褥の内に跳ねた。

「はいはい。お父さんが帰ってきたら、冒険はおしまいだからね」

「うん!」

 長い夜伽が、始まる時間。子供の頭を撫でながら、母は甘い声音で物語の始まりを告げる。

「昔々。まだお母さんが女の子で、お父さんが男の子だったころのおはなしです。あるお城に、うら若い王子様がおりました……」

 それは、旅路を行く少年王子が可憐な少女と出会うおはなし。

 少年王子を導く騎士や、優しく送り出してくれる城のじいやとばあや、不思議な魔法で彼を助ける麗しい魔女……二人の前に次々と現れる、魅力的な登場人物。

 二人は、数々の冒険の後に結ばれて。

 終わりには、子を授かって平和に暮らす。

 どこにでもある物語。

 暖かな閨の中、優しい母の声音で語られる、心躍るおはなし。

「……その時、王子たちの前に、恐るべき蜘蛛の魔物が現れたのです。大蜘蛛は、怯える少女に襲いかかりました。ああ、少女はどうなってしまうのでしょう」

 めでたしめでたしで終わる結末を知っているのに、幼子は目を丸くしながら母を見つめる。

 人は、うら若い少年と可憐な少女の出会いから始まる冒険譚に、希望を見出すもの。

 それは幼子の夢想にして、大人たちの追憶。

 誰もが一度は、その中に在る自分自身の夢を見る。

「……王子は蜘蛛の魔物に立ち向かいました。突き出す刃はかみなりのように速く、蜘蛛たちを斬り伏せますが、蜘蛛は次々と現れます……」

 もちろん、寒々しく紡がれる現実は、それほど上手くはいかない。

 冒険譚の主役を演じられる者など、この世界に多くはいないのだ。

 それでも。

「……王子はこうして、可憐な少女を救い出したのです」

 語りながら、母は雨のしとつく窓を見つめる。

 あの人は、まだだろうか。

 旅程では、もう帰っていてもおかしくないのに。

 山賊が出たり、災害があったりしたのだろうか。

 それとも、人の手に余る魔物が現れたのでは。

 嫌な予感は、雪のように降り積もる。

 いや。きっと彼は、大丈夫。この辺りでは、誰よりも腕の立つ冒険者だもの。何者にも敗れることはない。如何なる障害でも、彼は乗り越える。そう、信じている。

 家の戸が開いたら、いつもの言葉を掛けよう。


『おかえりなさい、冒険者さん』


 そうだ。彼は帰って来る。

 だって彼はあの日……恐るべき蜘蛛の魔物から、少女を救った少年だから。





 シャラは、重い瞼がひくついたのを感じた。

 濁った夢を見ている。

 淀んだ水の中に細糸で結び付けられたまま、水面に手を伸ばそうと足掻いているかのような。

 そんな夢を。

『いいかい、シャラ。お父さんはお母さんの病気を治す薬を手に入れるために、ちょっと危険な旅に出てくる。必ず、帰って来る』

 それは、消えた父からかけられた、最後の言葉。

『冒険者なんて、愛するものじゃないわ』

 それは、死んだ母の口癖。

『酒場の親父さんお勧めだっていう道具屋さんって、ここ?』

 それは、想い焦がれることになる少年との出会い。

『そうよ。おかえりなさい、冒険者さん』

 それは、彼が冒険から帰る度に口にした台詞。

 彼はいつも『ただいま』と返した。

 それを繰り返し、繰り返し、繰り返すうちに。

 誰とも距離を置いていた人生が歪み始めて。

 彼とその仲間と、私の旅が始まった。

 たった一度きりの、短く儚い冒険が。


『シャラさん』


 襲い来る蜘蛛の魔物の群れのただ中で、そう呼ばれて。

 心が繋がった……そんな気がして。

 次の瞬間、緋色の牙が淡い想いを引き千切った。

 上手く手を伸ばせば、手に入ったのかもしれない幸せ。

 最初から諦めれば、生きていられたかもしれない人生。

 そんな全てが、今は水面の向こう側。

 細い絹糸に結び付けられ、浮き上がることも沈むことも出来ないまま、混濁した意識で記憶を手繰る。もう届かない現実とわかっていながら、無駄に思い返すばかり。

「……う」

 という僅かな呻きが漏れて、シャラは目を開いた。手を伸ばそうとしたものの、感覚だけが身を起こしたつもりになっただけ。実際にはぐったりと首を下げたまま、ほとんど動いていない。

(「また……ぜんぶ、ゆめ……いまのは……おかあさん、の?」)

 シャラは、淀む記憶の中を繰り返し揺蕩う。朦朧としながら瞼を震わせても、なかなか焦点が合わない。

 尤も、悪夢よりひどい現実の中で見える風景はいつも同じ。

 白い闇だ。

 髪よりも細く艶やかで、絹のような糸で編みあげられた、広大な空間。日や月の明かりを吸って朧げに光る、純白の閨だけだ。

 空も、日や星も、草木も水も、長らく見ていない。いや、実際には大した長さでもないのかもしれない。意識はいつも混濁していて、辛うじて目を開いていられる時間も長くはない。昼夜もわからないし、どれくらい寝ているのかもわからない。記憶を夢に見ている間は、自分の人生そのものの長さに感じるけれど、起きてみれば随分と短かかったような気もする。

(「それ、とも……こっちが、夢……? ねむる私が、みてる、悪夢……?」)

 目を覚ましても、現実感は伴わない。身に圧し掛かるだるさと、火照った頭と、胸の内と下腹のいやらしい疼きだけが、残された全て。

 シャラは呻いた。猫が喉を鳴らすような低い声音で。

 褥が軋む、音がする。一つ、二つ、三つ……それ以上。織り上げられた白い閨の中に張り付く魔物たち。きちり、きちり、ちゅい、ちゅい、という囁きが蠢き始める。

 逃げることも、身を逸らすことも叶わない。

 今の自分は、この白閨に埋め込まれた、繭の一つに過ぎないから。

 項垂れた首の横に、膨らんだ猫の尻尾のような脚が見えた。人を超える大きさのくせに、かさかさと静かに動く八本の脚。こちらを覗き込む、黒曜石のような八つの目。

「あっ……」

 鋭い爪が肩を抱いて、微かに緋色の筋を引く。包み込んで来る抱擁には、残酷な死の陶酔があった。胸に灯る、いやらしい火が揺れる。風に弄ばれる蝋燭のように、ざりざりした音を立てて。

 それは“死の紡ぎ手”と恐れられる魔物。冒険者たちは、単に“大蜘蛛”と呼ぶ。どう見ても、地を這う逞しい蜘蛛にしか見えないから。もちろん、人を覆うような巨体を除けば、だけれど。

 初めて見た時は心臓を突き刺すような恐怖を感じ、首の後ろが総毛立った。それも今となっては夢の中の遠い記憶だ。

 彼らは自分を傷つけないし、今はひどく感覚が遠くて痛みも大して感じない。重苦しい熱の疼きに、彼らは甘い毒を流し込んでくれる。爪からも牙からも、体毛からさえも。

 永い退屈に色を添えてくれるのは、今やこの蜘蛛たちだけ。それならもう身を任せて、熟れた穢れに喉を鳴らしている方がいい。身を包む糸の隙間を縫って脚の間にぬるりと伸びる熱も、迷妄する心が求める幻影に抱かれる妄想に変えるだろう。

「ん、あうっ……」

 黒く巨大な単眼に、ぐらぐら揺れる蕩けた女の顔が映る。目と口を薄く開いて、髪は力なく下がっている。膨らんだ乳房は透ける絹を纏い、つんと張った突起が、血の気の失せた肌に濃い色を添えている。尤も、見えるのは胸元から上だけ。体のほとんどを白い壁に埋め込まれて、花束のように白糸に包まれている、一糸まとわぬ女の形。そこには、猟奇的な美しさがある。

 シャラは夢と現の境で、蜘蛛に抱かれながら小さく切ないため息を漏らした。肩に爪を立ててきゅっと掴まれる感触は、どこか抱き着いて来る赤子にも似ていて。柔らかい毛並みは絨毯のよう。感覚はゆっくりと回っていて、上下もうまく掴めない。さかさかと忙しなく動く鋏角が首元をまさぐると、背にぞくりと卑しい期待が走った。

「あっ……」

 ぶつりと齧りつかれた首元から、甘い痺れが走る。意志とは無関係に身が震え、不規則に痙攣した。余計な傷をつけないよう、優しく慎重に……しかし残忍かつ無慈悲に。蜘蛛たちは獲物を愛撫する。

(「ああ。この爪が。あの人の。あの子の手なら……」)

 すすり泣くような色めいた響きが、自分の声なのかどうか自信がない。耳を澄ませば、時に自分のものではない声も聞こえることがあるから。静かな閨の外を吹きすさぶ風の葉音に混じって、甘く苦しく漏れ聞こえる、女の音色や男の音色……。雨の夜に独り、娼館の並ぶ通りを歩いているような、そんなくぐもった声。

 繭は自分だけではないのだろうが、誰とも話したことはない。首を動かしたところに人影のようなものを見て、苦労して焦点を合わせても、舐められたように綺麗な白骨が映るだけ。まるで屋敷に飾られた肖像画のように、白い閨の中で腕を組んで眠る犠牲者たちが。

 それらが放り捨てられず、この白閨に眠り続けることを許されるのは、“巣の主”のお気に入りであるからだろう。

 首元に立てられた牙が、じくじくする。紅く熱い筋となって滴るものを、ぬるぬる動く蜘蛛の口が舐め取っていく。蜘蛛脚の中でひくつきながら、シャラは乖離した思考で埋め込まれたどくろを見る。

(「私も、いつか……あそこに並ぶの、かな……」)

 いや。蜘蛛たちの食事になった骸があそこに並ぶのだとすれば、己の運命は異なるかもしれない。

 いずれにせよ、最後は同じことだけれど。

 その時、己の中で“なにか”がぞぞと蠢いた。それは胎の内に這う痛みと悦楽を伴う熱になって、喉元を勝手にのけ反らせる。

「ひ、いっ」

 そう。この感覚が、死を確信させる。この胎の中には、自分のものではない子供たちがいて、母体の温もりを貪りながら、外に出る時を待っている。恐らくは今ここで繭となって呻いている者は、男も女もなく同じ目的で生かされている。

 多少なりとも蜘蛛の習性を知っていれば、誰でも悟るだろう。

 自分たちは、蜘蛛の子を育む繭。

 子蜘蛛たちはいずれ母体を喰い破り、啜り尽くして去っていく。

(「それでいい……もう、それでいいから……」)

 シャラは喉から甘い悲鳴を漏らして、このあまりに永い退屈が、自分の属する物語が、早く終わることだけを願っている。せめてそれまでの間、白い闇の中で身も心も狂わせていたい。終わらない夢の中を、惑い続けていたくないから。

(「やだ……もう、夢を見るのは……いや」)

 それでも幾度ともなく気をやるうちに、身を包む疲労感はじわりじわりと膨れ上がる。瞼が熱い。喉が灼けて、視界は無慈悲に霞んでいく。

 ああ。

 また、始まるのか。

 結末の知れた、物語が……。

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