第78章 奪われて、奪う
『ここは?』
ヨハナは暗い空間の中を漂っていた。
『ここは我らの生まれた場所』
無数の黒い魂がヨハナを取り囲んでいた。
そこに境界はなかった。誰も彼もが彼女の傍に寄り集まっていて一色の黒になっている。
『なるほどね、あなたたちの生まれた場所か………』
ヨハナは自分の身体を改めて見た。
その姿はやせ細った女性だった。長い髪はぼさぼさで整った様子は少しもない。
骨と皮だけの腕と脚、顔にも生気はなく、恐ろしい絶望をたたえた瞳をしている。
『ここがねえ、あんたたちの生まれた場所か』
ヨハナこと深山沙苗は少しも動じていない。
『こんなところが何だってんだい。私が生きてた前世の方がはるかに地獄だったね。今はさながら天国だった。あんたさえいなければねえ、その天国がいつまでも続くと思ったのに』
『人を殺しておいて何を言う。どこが天国なものか』
『ふん、殺される方が悪いのよ。弱い方が悪いのよ。私はいつだってそう言われて来た。絶望ってどんな物さ。今のヨハナという身分を手に入れたからこそ前世の絶望を描けるんだ。あんたさえいなければねえ』
『来世はない。現世もない。あるのはただ前世のみ。過去ばかりを語るお前たちに現世を語る資格はない。魂と肉体を離れ、自己欲求のみで生きる貴様らでは来世もない!』
『煩い奴だ。ここに来て大口をたたくじゃないか』
『ここで死ね。お前に明日はない。うたえ、我が鎮魂歌を!』
全ての魂がヨハナへと襲い掛かって圧し潰していく。彼方を掴もうとする手が伸びるのをオデュッセウスは許さなかった。全ての希望を打ち破る。転生者の希望は更なる苦しみを生むかもしれない。我が同胞たちの苦しみを。
そしてまたひとつの魂が旅立ってゆく。あるべきところへ還るための旅立ちなのだ。
黒い空間に差す一条の光ときらめき。
天に昇ってゆく。彼か彼女のために開かれた扉と標ある道。
ヨハナこと深山沙苗を取り込んだ際に得た【記憶の手帳】を持ってひとつの魂が去った。
みな、見送った。悲し気に、寂し気に、次は自分だという希望を持って。
生が欲しい。命が欲しい。奪われた身体を取り戻す事は不可能だ。彼らの身体を奪った魂に汚染されているから。魂を滅する事は肉体を滅する事。
新たな肉体と魂の完全なる合致を求めて旅立ってゆく。天へと昇るのはその合致の約束なのだった。幸福であろう。限りない幸福であろう。道中に見て来たあらゆる幸福を彼や彼女は受ける事が約束されているのだ。名付けの祝福を、誕生の祝賀を、成長の幸福を、授かってゆく。
そうであるがゆえに残された魂たちはこの幸福を軒並みお預けを喰らっているような、あるいは奪われた気になって憎しみの炎を燃やしてゆく。
『誰が奪った?』
『奪われた物はなんだ?』
『あらゆる物が奪われた。幸福を、肉体を、あるべきだった家族を、人と呼べる尊厳を!』
『誰が奪った?』
『『『『『転生者だ!!!!!』』』』』
黒い空間から出るとオデュッセウスはインガルと闘っているところだった。
水の鎧をまとい、勢いを得てやって来る。
錫杖を振るい、神通力で牽制し、スキルで締め付ける。
空中に浮かぶ【水の宮殿】はもはや宮殿と呼ぶには足らない代物と化していてさながら小都市のような城塞めいた大きさになっている。地下にあった水を全て吸い上げたに違いない。
民衆はとつじょ現れたこの空中の城塞に祈りを捧げていた。いったい何がそうさせるのか分からないオデュッセウスはとにかくインガルをぶちのめそうと闘いを続けるのだった。
インガルは素早かった。初めて闘った時とは比較にならないほどの力を有している。
水の城塞の中では水竜が唄を唄っているのが聞こえる。
いくらかの加護を受けているのは間違いない。
オデュッセウスは水竜から始末したかったが水の防御は凄まじいほど堅固で攻撃は少しも通らない。
インガルが外に出て来ているのが唯一の攻撃が通るものだった。
「インガル、建物の影で闘わないで!」
「分かってる!」
水竜の助言に従ってインガルは常に建物の影から出ようとする。だが、オデュッセウスはそれには乗らない。今やオデュッセウスが追う側ではなくインガルと水竜がオデュッセウスを追うようになっていた。
好都合だった。オデュッセウスが願っていた展開だった。
インガルと戦闘を続ける間に分かった事がいくつかある。
空中に浮かぶ水の城塞の動きはとても鈍かった。動くには動くのだがそれはあまりにもゆっくり過ぎる。素早さだけでならオデュッセウスが圧倒的だった。
加えてインガルがまとう水の鎧は水竜の水を操るスキルによって形を作られていると判断した。水竜が建物の影に行くなという助言は水の攻撃と防御を両立させるための的確な助言なのだ。
そうと理解したオデュッセウスは事を簡単にした。つまりは水の城塞の中に籠城する水竜とインガルを引き離す事を第一としたのである。
【岩の王】で瓦礫の壁を作り上げると水流のレーザーによって一刀両断される。今やこの水流の一撃は驚くほど高まっていて容易に岩を貫通する。
オデュッセウスはこの数的不利の状況でとても器用に立ち回った。
【岩の王】で壁を作り、水流のレーザーによる射線を切るとインガルを叩く。叩いては建物の影に退くという戦法を取っていた。そしてこれは大いにインガルを追い詰めていた。インガルのほとんどのスキルは今やオデュッセウスにとって無力な代物となりつつあった。恐ろしいのは水竜との共有される加護を得た一撃ののみであってそれもオデュッセウスの素早さの前では力として振るえなかった。
最後にインガルの脇腹に一撃を食らわせた時に水の鎧の上からだったがダメージが蓄積している事とインガルが徐々に苛立って来ている事を認めた。
次だ、とオデュッセウスは思った。
次で仕留める。そのためにもしっかりとインガルを懐まで引き寄せて水竜の援護が届かぬところまでおびき寄せる。
『行くぞ、準備しろ』
『ぬかるな!』
『スキルを使うのだ』
建物の中へと押し入った。
扉を破壊して窓や壁を砕いて中へ入るとそこには少年と少女がいた。泣いている。姉が弟を守る様に抱いていた。
オデュッセウスは初めて動きを止めた。彼は人間が、それも子供が残っていると思っていなかったのだ。
「しめた!!」
インガルの声が聞こえる。
オデュッセウスは振り返った。
「涼音、ここだ!!!」
インガルが神通力で瓦礫を吹き飛ばし、オデュッセウスの位置をマークした。
すると、水の城塞からさながら一斉射撃のごとく水流のレーザーがオデュッセウスへめがけて放たれた。




