第76章 無音の絵画
オデュッセウスは闘いを再開した。
水流を弾くと天使たちの方へと零れていく。天使たちは弾かれた水流が当たると身体が溶けて行った。相性はかなり悪いようだったが水竜たちの【水の宮殿】にはヨハナが生んだ水と地下からの水が吸い上げられて供給は留まるところを知らないようだった。
ヨハナから討つとオデュッセウスは決めた。
どんと勢いよく地上へ降りてゆく。
「ヨハナを狙う気だ!」
水竜とインガルは【水の宮殿】の中からオデュッセウスを攻撃した。水流のレーザーが宮殿から、地下から射出されて来た。
この攻撃を弾き、避けてヨハナへと接近していく。
ヨハナへ一撃を食らわせようとする前にオデュッセウスの眼に映ったのは冷静にパレットを手に取って右手に持った筆で空のオデュッセウスを払った。
すると、筆で撫でられたような一線が空に描かれた。それらは鋭いものと太いものの一閃がオデュッセウスに迫る。
避ける時間はなかった。腕を交差させて防御の構えを取った。
どしんと重い一閃と軽い鋭い一閃とが合わさった一撃だった。だが、水流のレーザーほどには研ぎ澄まされていない。
「私は最高の絵描きになれる。前世ではなれなかったのだもの!」
「その希望を打ち砕く!」
「前世では火あぶりになんて出来なかった。出来ていた時代に生まれた画家はいずれも偉大になっているのに。私に足りなかったのはこの環境なのよ。それが出来る環境が足りなかった。私はここへ来てとても幸福だわ。だって、火あぶりにでも、貧困に突き落としても何もならないのだもの!」
「お前か。お前はセシルの死を望んでいたのか?」
「罪を背負う者が美しければ美しいほど死に向かわなければならないのよ。そしてあなたも死ななければならない。私はひとりの偶像崇拝の後に民衆に哀れにも殺されてしまった乙女とその乙女から名をもらった獣の様子を描くの。これはとても素晴らしい絵になるわ。間違いない、大作の予感がするもの。私に足りなかったのは環境だったのよ!」
「くだらん。貴様らの思惑のなにもかもがくだらん!」
オデュッセウスが再び疾走してヨハナに迫った。
瓦礫を越えて今こそ一撃を与えようと近づいた時に風景が拭われたように変わっていた。
家屋の崩落と地下からの水柱によって破壊の限りを尽くされた街並みではなかった。
明らかに別の土地、別の時代だった。
ごく平和的な街並みで藁を積んだ馬車が走っている。が、それは全て絵だった。絵具で描かれた土地と時代。
街並みは人の生活の様子で溢れていた。汚れた扉、家の壁、石畳の街路。人が居て馬車が走っているのに無音だった。
『絵だ』
『ヨハナのスキルだろう』
『打ち破れ!』
『無論だ!』
どうやってこの場所にやって来たのかは分からない。
オデュッセウスが顔が歪な御者の乗る馬車の隣を過ぎていった。その時に彼は微かな臭いを感じた。自然な藁や馬の臭いではなく油や絵具の臭いだった。
『ここは絵の中だ』
『絵の中に取り込むスキルか』
『筆の攻撃も行って来た。もっと複雑かもしれない』
『2つのスキルを持っているという事も考えられる』
『いずれにせよここから出るしかない』
『早く出よう。早く出て争いを終わらせる』
『セシルを埋めたい』
遠くの方から黒い点が現れた。虚空の方からやって来る黒い点は徐々に大きくなっていく。
その点は黒い棒のようにオデュッセウスを襲った。不条理な一撃だった。回避も出来ない。
黒く塗りつぶされたオデュッセウスは明らかに周囲の色から浮いていたが明らかに何か拭えない物にまとわりつかれて身動きが取り辛くなってきた。
黒い泥のような物に濡れるとそれは重いほどだった。オデュッセウスは地面を思い切り踏みつけて大きく飛び上がった。泥から抜け出ると黒い点がやって来た方に向かって突き進んでいく。
何かにぶつかる感覚があった。壁のようだがもっと柔らかい。破る事は出来そうに思えた。
ぐっと拳を固めるとそれを振るった。
ばさりと布を剝ぐような感覚があった。
そしてオデュッセウスの目に映ったのはまた別の場所だった。
庭の一角に建てられている茶会ような一室。窓と小さな扉。オデュッセウスは扉の前に立っていた。とても薄暗い場所だった。目の前に少年が立っている。奥には小さなテーブルと椅子に座ってカップを持ち上げた婦人が居た。
外は明るい。影が恐ろしいほど黒かった。
その黒い影がオデュッセウスの方に伸びて来る。
目の前の顔のない少年がオデュッセウスを見上げていた。
口を開けるとそこは全くの暗闇で飲み込もうとぐんぐんと大きく開かれて行く。
オデュッセウスは退こうと咄嗟に後方へ飛び退こうとするが新たな壁に阻まれて距離を取る事は出来なかった。
『また絵だ』
婦人の持っていたカップが傾いて中の黒い水が漏れてくる。
床を漂うはずの水は宙に浮いて暗がりに混じると大きくオデュッセウスの方へと迫って来る。
ばしゃりとまた泥がまとわりついた。前と後ろから泥がやって来る。
顔のない少年と婦人の様子が溜まらない嫌悪をオデュッセウスに抱かせた。
強い力を込めるとそれを放つ。
今度は建物ごと吹き飛ばすための一撃だった。
何もかもが消し飛んでいく。水と油と色に変わっていった。
だが、音は何も聞こえなかった。
吹き飛ばした後にオデュッセウスは金色の野原にいた。ススキが黄金色に輝いて光を放つのに太陽だけが見当たらない。そして風が吹くようになびくのに風は全くなく、ススキとススキが触れ合う音も聞こえなかった。
『音がない』
『それがヒントかもしれない』
『叫びだ』
『音を!』
オデュッセウスは咆哮した。
びりびりと振動する。
オデュッセウスの黒い肩が黄金色を塗られたように色づいた。
咆哮を上げる。
次は腹に、腕に、脚にと黄金が塗られる。
オデュッセウスの身体は徐々に黄金に輝くススキの中に溶け込んでいく。
溶け込んでいくとオデュッセウスは少なからず心地よく思った。
黄金に混じっていく。黒い何かが黄金に塗られて行く。