第74章 人間の誕生
ミケルたちは苦戦していた。
水と唄を用いたスキルは凄まじい攻撃力と防御力を有していた。
かつてないほど追い込まれていた。
どのようなスキルを使っても水竜の水の一撃を防ぐ事は不可能だった。
『劣勢だ』
『同意する。かつてないほどに劣勢だ』
『我々はここで死ぬわけにはいかない』
水竜の唄をいくつも聴いた。それは唄い終わるたびに完成して水竜の能力を上昇させていった。互いに影響し合うインガルも能力を上昇させていて初めは無力と判断していたインガルも今はそれなりの脅威となっていた。
もっと力が必要だった。だが、ミケルはほとんどの手を出し尽くしていた。
『水から離れるべきだ』
『同意する。ここの竜は水を使うスキルを有している』
すると、ミケルの中にレーアの声が響いて来た。
≪ミケル、セシルが大変なの。すぐに来て!!!≫
ミケルは地上の方を見た。水柱がいくつも飛び出ている風穴が見える。
『すぐに行こう!』
『そうだ、すぐに行くべきだ!』
『行け!!』
『いや、ここでこれらを始末してから行くべきだ!』
『そうだ、こいつらは追って来る!』
『ここで始末するのだ!!』
『我らの使命を思い出せ!!』
『我らには名がいる!!』
二律背反する想いを抱いてミケルは身を裂かれる想いをしながら地上へ向かった。
闘おうと言った者たちを抑えつけたのは同じく闘おうと言う同志たちだった。まずは水から離れる必要があると言った者たちだった。
「インガル、地上へ逃げるつもりだ!」
「逃がすな!!」
水竜とインガルは【山を掴む手】を使ってミケルの身体を掴んで飛び上がって風穴へ入ろうとするミケルを阻んだ。
ミケルは全力でそれを振り払うと勢いよくその風穴へと突っ込んでいった。
地上へ飛び出したミケルは街の様子を改めて見た。破壊の限りを尽くされているように街は悲惨な状態だった。まるで神の乗る馬車が通ったかのような倒壊ぶりだった。
ヘルッシャーミンメルの翼を広げて飛んでいたミケルは倒壊の瓦礫の中からセシルを探した。街の中央にある大聖堂の傍らにある大広場を見た。そこには刑場の残骸がある。
そしてそこに横たわるセシルを見つけた。
ゆっくりとミケルはセシルの傍へと降り立った。
セシルはミケルがやって来たのを見て微笑んだ。ミケルはセシルの腹に刺さったナイフを見た。
『ナイフが刺さっている』
『見えている』
『彼女は瀕死なのか?』
『そのように見える』
『たったこれだけで?』
誰も答えなかった。
「様子がずいぶん変わりましたね」
セシルが言った。敵意のない声を久しぶりにミケルは聞いた。その声はとても澄んでいた。
「姿だけだ、変わったのは」
「そのようですね。戦い続けていたのですか?」
ミケルはこくりと頷いた。
「それが我らの使命だ」
「わたしは祈り続けていました。そしてあなたの事を考え続けていたのです」
ミケルは翼を畳んで彼女の傍で膝をついた。
瓦礫に背を持たせて脱力した彼女の手にそっと触れた。
「冷たいな」
「はい。少し寒くなって来ています。きっと雨が降っているからでしょう」
「ああ、そうだな」
辺りはとても静かだった。瓦礫の山が街の叫び声や泣き声をかき消していた。地下の揺れは強くなっている。水竜とインガルがミケルを追って来るつもりなのだろうとミケルは思った。
『すぐにもここから離れるべきだ!』
『同意する』
ミケルはこくりと頷くとセシルを向いて言った。
「ここから離れよう」
セシルは首を振った。腹部から流れる血は大きな溜まりを作っている。ナイフの刺さった部分を抑える手にはもう力が入っておらず置いている程度のものだった。
「もう間に合いませんよ。良いんです。あなたに会えて本当に良かった。こっちに寄ってくれませんか?」
セシルの言う通りにミケルはそこに寄った。
瓦礫の外から何やら騒がしい声が聞こえる。だが、ミケルはもう外を気にしていなかった。あるのはセシルとの事だけ。
近づいたミケルの頬に優しく手で触れた。血に濡れていたがミケルは全く気にしなかった。
「不思議ととても落ち着いています。あなたが来てくれたからですね。さっきまであなたに会えないままだったらどうしようかと思っていました。痛みももうないんです。とても幸せな気持ちになっていますよ」
ミケルは静かにセシルの言葉を聞いていた。
名を考えてもらう頼みをしていた事をはっきりと覚えていたし、治療の出来ない今、刻々と迫るその時の前で少しも焦る気持ちはなかった。
「名前を考えていたんです。そして決めました。あなたの名前を」
セシルは微笑んでいた。
「オデュッセウス」
セシルが言った。ゆっくりとひとつひとつの言葉をはっきりと言うように。
「あなたの名前です。[数奇なる運命]」
ミケルへ伸ばされた手に彼は答えた。その手を握り返した。彼の手を握る手はあまりに弱弱しかった。
「オデュッセウス、我が名はオデュッセウス」
今、名付けられた名前を繰り返した。セシルがゆっくりと言った言葉をなぞるように繰り返している。
「ええ、あなたの名前です。大切にしてくださいね」
セシルはまた微笑んだ。
すると、オデュッセウスは身の内から沸々と湧き上がる力の滾りを感じた。これまでにないほど強い厚みのある力だった。
力が充溢していく。
オデュッセウスを作っている全ての魂が歓喜の咆哮を上げていた。
「オデュッセウス、どこ?」
セシルは上空を見上げていた。虚ろな眼をしている。
「ここにいるよ」
オデュッセウスはセシルを持ち上げた。
力が漲ると彼の身体はより洗練されて行った。ぼろぼろだった身体は力を取り戻して整っていた。
そんな彼の頬にまた手を伸ばしてセシルは言う。
「人間と仲良くね。喧嘩ばっかりしてちゃダメなんだから。健康でいてね。そして元気で。笑顔を忘れないで」
「セシル、待て。まだ話す事がある。そう、たぶんたくさんある。目を閉じるな」
セシルは微笑んでいた。その微笑みの力の弱さやもう二度と取り戻せない何かがそこには浮かんでいる。
そしてだらりとセシルの首が力を失くした。腕が垂れた。重みが増したようにオデュッセウスは思った。
「セシル?」
返事はない。垂れた手に触れて、冷たいその頬に触れた。反応は全くなかった。
オデュッセウスはセシルを力強く抱きしめた。そしてそのまま身体を取り込んだ。
雨が降っている。土ぼこりをまとった雨が落ちて来ていた。
力が湧いて来る。憎しみではないところから。
オデュッセウスは湧き上がる力を抑えきれずに全てを爆発させた。咆哮が辺りに轟いた。
それは産声のようだった。名づけを終えて人間が誕生した。