第73章 破滅
突き立つ水柱の数は増えて行き、次第に巻き上げられた土や雫が降り落ちると暗い雲を造り始めていた。
男は刑場へ詰めかけていたし、女は取り乱していた。子供たちだけが唯一この事態に正しく怯えて寄り添い合っていた。
刑場に集まる群衆たちは神父を待っていた。待ちきれないと言う言葉が嵐のように飛び交ったが執行人たちは通例から例外は作れないとして頑として神父を待ち続けるのだった。
「神父はどうしてやって来ないんだ?」
「そういえば最近は各宗派の神父を見ないと聞く。俺のヴィルヘルム派のアドネ神父も見ないぞ」
「ルイーゼ派のインガル神父も数日前からいないそうだ。あの診療所の崩落から姿が見えないらしい」
「どうなっているんだ?」
「さっぱりわからん。だが、それももうすぐ終わるさ」
「そうだとも。すぐにやってしまえばいいのに!」
凄惨な死を望む教徒たちが今か今かと待ち構えていた。
ヨハナは喜々とこの光景を描き続けていた。
コードがやって来てセシルに向かって何かを叫んでいる。
セシルはと言うと縛り付けられている手足と腰が体重を支え切れずに少しずつ痛み始めていた。
各宗派にはそれぞれ2人ほどの神父がこの街にいるが一人として刑場へはやって来なかった。
遂にセシルの十字架が傾いてしまった。家屋の崩壊の揺れや地下の衝撃の揺れ、地盤の崩落にいよいよ耐え切れなくなっての事だった。すると、執行人のひとりが倒れこんでしまう前にセシルの縄を解いて脇に退かせた。後ろ手に縛ってどこかへと連行しようとする。
もはや事態は処刑どころではないと判断しての事だった。独断ではなく執行人たちが囁き合ってやって来ない神父をいつまでも待っていられないためだった。
「延期とします。今は街の状況を把握しなければなりません!」
「そんな事が許されるはずがない。神は処刑を求めている!」
「そうだ!」
「執行しなければ神の怒りは収まらない。それはすなわちこの揺れも街の異変も収まらないのだ!」
「処刑されなければならない!」
「いいや、今は事態を把握する事からだ」
「街の異変に目を向けなければならない!」
強行派と反対派で対立が生じていた。明らかに強行派の方が多かったが刑場の周りから聞こえる崩落と民衆の叫び声が彼らの意志を挫こうとしていた。
反対派を焚き付けて扇動していたのはコードだった。クレイもその隣に立っている。
クレイとレーアが執行人の側へと駆け寄ろうとするが阻まれてしまった。
セシルは再び留置場の方へと連行されて行った。
強行派の群衆はそれを怒り、押しかけようとしている。
反対派と執行人たちがそれを取り押さえるのだが限界があった。
形状の周りを囲っていた柵はすでに破壊されていた。
執行人がセシルを留置場へとにかく押し込めてしまおうと急ぐのだがひとりの素早い男が執行人の服の裾を掴む。
セシルはあっという間に血走った狂気に震える教徒たちに取り囲まれて後ろ手に縛られたまま刑場の方へと再び引きずられて行った。
「やめて!」
「待って!」
レーアとクレイがセシルを引っ張ってゆく男たちの腕を掴んだ。
反対派の教徒たちも数こそ少ないが抵抗するのだった。
強行派の男たちが数人がかりで十字架を出来る限り固定すると今度はもう倒れないぐらいにがっちりと土台が固められてしまった。
後ろ手に縛られていた縄が解かれると男は彼女の腕を掴んで木に固定しようと縄をきつく引っ張った。
すると、この狂った輪の外から子供の泣き声が聞こえて来た。
「父さん、父さん!!」
子供は今、セシルを十字架に縄で縛り付けようとする男の腰に取り縋って泣いて呼んでいた。
「家が、家が大変なんだよ!」
子供の顔には乾いた血が付いていた。衣服は土埃に塗れている。
「俺は、これをやらなくてはならんのだ。そうしなければ街の秩序が守られんのだ!」
「父さん!」
すると、父親の手は途端に抵抗を失ってするすると縄がか細い女の腕に巻かれていった。
セシルが抵抗を止めたのだった。
「どうぞ、巻き終わったらご家族の元へ行って差し上げてください」
男はもう二度と解けないようにきつく巻こうと力いっぱい縄を操った。そしてセシルの右腕は十字架へと固定されてしまった。
「子供が呼ぶ声に耳を貸すべきです、なによりも」
群衆たちはこぞってこの処刑の一助となろうと投げ捨てられている縄や木材を手にしていた。
左手を男が手に取った。その瞬間に男はかつてないほど敬虔な気持ちになって縄を持った。もしかしたら業火に焼かれる間も自らの手で固定していたかもしれない、神が命じていれさえすれば。
水柱がこの刑場のすぐ外から突き出て来た。群衆は水を浴びた。中には噴き上げられた建物の瓦礫を被った者もいる。
揺れは最大となった。無数の水柱と崩落する家屋が凄まじい勢いで増えて行く。
レーアはなんとかセシルを助け出そうと十字架へと向かうが狂った教徒たちがそれを阻んでいた。
中にはもう処刑の事も頭から無くなって街のこの異変にその場で祈りを捧げる者まで現れるほどだった。
ひときわ大きな水柱が突き出て来た。それは天高くまで上っていく。
大きな瓦礫が巻き上げられて刑場の方へと降りかかって来た。
瓦礫の雨が刑場へと降り注ぐと群衆たちは我先にと蜘蛛の子を散らすように逃げていく。が、それでもまだ残ろうとする者すらいた。
十字架の足が瓦礫に砕かれるともはやそれは立つ事すら出来ない無用の長物と化していた。いや、ある一点においてこの上ない働きをした。セシルをその場に留まらせるという点においてそれは大きな働きをしたのである。
きつく縛られた右腕は容易に縄を解けなかった。
それでもセシルを処刑しようとする者たちは彼女の元へと詰め寄った。もはや水柱が注いだ雨によって用意されていた火は消えている。この天気では火あぶりも出来そうにない。
だが、彼らはなにがなんでもそれは遂行されなければならないという固い信念を持ってつめかけていた。
どこかにセシルを連れて行こうとする者すらもいた。だが、十字架に固定されている彼女を連れて歩くのは簡単ではない。
降り注ぐ瓦礫、倒壊していく家屋、崩落する地盤によって街は破壊の限りを尽くされていた。
レーアは刑場に飛来した無数のは瓦礫の山々を越えてセシルの元へと駆けて行った。なによりも彼女の傍へと行こうとしている。もはや群衆の姿は見えない。
≪セシル!!≫
≪返事をして、セシル!!≫
≪レーアさん、逃げた方がいいです。逃げてください≫
≪駄目よ、絶対に駄目。どこにいるの?≫
≪まだ十字架の辺りにいます。ですがもう歩けそうにもありません≫
≪すぐに行くわ。すぐに!!≫
レーアは瓦礫を縫うように駆けてセシルのところへとたどり着いた。
瓦礫に十字架が挟まれていた。どうやら本当に身動きが取れないらしい。
「セシル!!」
レーアが叫んだ。
彼女はすぐにセシルの傍に座った。
「立てる?」
「いえ、無理だと思います」
「縄を解くわ!」
「そうすれば!」とレーアが叫ぶとセシルは頭を振った。
「体に力が入らないのです」
セシルはそう言いながら自分の腹を見た。
レーアもそこを見ると一本のナイフが彼女の腹部に突き刺さっていた。
「だ、誰が?」
「分かりません。詰めかけて来た人たちの誰かでしょうけれど知らないうちに刺さっていたんです」
抜くわけにはいかなかった。もしそのナイフを抜くとしたらそれは止血が十分に出来る準備がある時だけだった。
にこりと弱々しくセシルが笑った。
「止血をしていなさい。ここを抑えるの。すぐにルイーゼ派の人を呼んでくるから!!」
「いえ、そんな人よりもミケルを呼んでください。彼に伝えなければならない事があるんです」
レーアは頷いた。ミケルは治療するスキルを持っている。かつて自分の病を治してくれた時のように。
≪ミケル、セシルが大変なの。すぐに来て!!!≫
レーアはもしもの時の事を考えてルイーゼ派の教徒や治療キットを探すために走り出していた。