第72章 怒れる群衆
レーアは恐れていた。
極限の恐怖を感じていた。
ここまで鬼気迫る人々を見た事がなかった。
大地が怒りに揺れ、空は曇り始めていた。
人々は神の怒りを恐れていた。それもこれも全ては偶像崇拝する不信心教徒の処刑が遅れているせいだと言う人々が少なくなかった。夜のうちにそれぞれの家で過ごしていた暗がりの中からすぐにでもするべきなのだという人々が朝に表へ出て来ると意見の合う隣人を見つけ出して意見を一つの塊にした。個は群をなして次々と合わさり、途方もない群衆と化していた。唄を忘れ、賛美を失い、血気に逸る感情の塊をぶつけ合うのを止めなかった。
ある一点へ向かう限りない前進を止めない群衆が口も手も動かして裁判所へ詰めかけていた。予定を繰り上げて処刑を行えと言うのだった。
「すぐにやれー!!」
「出来ないのなら俺たちの手でやってやる!」
「神が怒っておられる!」
「聞こえないのか、この怒りの声が!」
「聞こえないのならお前たちも異教徒だ!」
「そうだとも、神の怒りの声を聞く我らこそが真に正しき教徒だ!」
「「「「「偶像崇拝者に死の裁きを、今すぐに!!!」」」」」
処刑は正午ちょうどに行われる予定だったが繰り上げて2時間早く行われる事となった。あと2時間もない。
裁判所の面々はもうすでに決まっていた事を群衆の前で変更するのに躊躇わなかった。この中にも少なからず神の怒りを信じる者が居たのは事実であり、そうした者に加えてほとんどの役員たちが暴動を恐れていた。
執行人の一人が大々的に時間の変更を報せ、大歓声を起こした。彼らの信心が不信心に勝利した瞬間であり、もはや神の怒りも収まったも同然なのだった。
そしてもう一人がほとんど同時刻にセシルに予定が早まった事を告げた。
「処刑の時間が早まった。お前も知っている通りに最近の地震が神の怒りだと言う群衆が居るのでな。偶像崇拝をした愚か者を捧げよと騒ぎ立てている。準備をしておけよ」
「はい」
名付けの願いを聞き入れて彼へ捧げる名を決めてからセシルは寝食を忘れて祈りを捧げ続けていた。
「実際に執行人たちはお前を理解できない。偶像崇拝を指摘された者は必ず一度は否定する。誤解だと訴えるのがほとんどだった。なのにお前は一度も否定しなかった。なぜだ?」
「あなたは神を信じていますか?」
「信じているさ。はっきりとな」
「わたしもです。彼がここにいると信じています。そして彼の在り方はわたしたちのようではなかった。その一端に触れた時にわたしは少しだけ信じる者を見出しました。それがあなたたちの神とは少しだけ違っただけなのです」
「少しだけ? 大きな違いだと思うがな」
「いいえ、少しだけです。彼に触れれば分かります。わたしはそれだけで良かったのです」
執行人は押し黙ってセシルを凝視した。
「その者はお前の処刑の時に現れると思うか?」
それまですぐに答えていたセシルが口を閉ざしてしまうので執行人は興味を強く持った。
「おそらくは来ると思います。わたしは彼に捧げる物を持っていますから。彼が望んだ物です。わたしが捧げられる唯一の物」
「無駄な望みは捨てる事だな」
執行人はそう言い残してその場を去った。
セシルは執行人が去るのも見送りもせずに再び祈りを捧げ始めた。
揺れている。地下からの鳴動を感じるごとにセシルはミケルの震えを感じていた。これが彼の苦しみであり、哀しみの大きさなのだと彼女は思っていた。極まっていくそれらを少しでも軽くしてあげたい、軽くなって欲しいと思って彼女は祈りを捧げ続けるのだった。
そしてその時はやって来た。
セシルは3人の執行人によって大広場へと連行されて行った。連行される間、両手を縛られて縄に繋がれた様子で行く彼女を見て人々はあらゆる言葉を投げつけた。物すらも飛んできた。
湧く群衆をセシルは見なかった。そこに彼女が見るべきものは無いように思ったし、実際にいなかった。
大広場の中央に火あぶりのための準備が済んでいた。藁が積まれた中央に磔の十字架がある。
セシルはそれを見て「ああ、あそこなんですね」と思った。
彼女の処刑台の前でセシルは跪いた。
群衆たちの処刑を求める声は聞き取れないほど大きくなっていた。
その群衆の向こう側にセシルは2人の知人を認めた。
レーアとヨハナが居たのだった。2人はセシルから見て左右に分かれていた。右側にヨハナが居てキャンバスを片手に持って一心不乱にスケッチしている。笑って一種の狂乱じみた様子は喜んでいるようにすら見えた。
レーアはそれに対照的に深い悲しみに恐慌状態に陥らんばかりだった。
≪セシル!≫
頭の中にとつぜん自分の名を呼ぶ声が聞こえて来た。それは聞き慣れた声だった。声ならぬ声だったのにセシルはその声の主がレーアだと分かった。それが理由もなく嬉しくてセシルは優し気に微笑んだ。
≪レーアさん?≫
≪そう!≫
≪良かったです。無事だったんですね≫
≪可哀そうなセシル!≫
≪この揺れは彼なんでしょう?≫
≪そうよ、今も闘ってるの!!≫
≪そうですか。ずっとずっと闘いっぱなしで疲れないのかといつも思います≫
≪のんきな事を言わないで。絶対に助け出して見せるから!≫
≪ミケルとレーアさんが無事であればわたしはそれで満足です≫
群衆が待ちきれないとばかりに足踏みし、苦難や災難を堪えて来た様々から解放されるのを今か今かと待ち続けていた。
地震と群衆の足踏みが合わさって街は全体が振動していた。
「これより刑を執行する!」
執行人が大きな声で叫んだ。
がつっと腕を掴まれてセシルは立たされた。不眠不休で祈り続けたためにいくらかふらついた彼女はよろりと傾いた。
「十字架へ」
執行人が言うとセシルは腕の縄をほどかれた。
十字架に手と足を固定された。上からの視点はそこに集まる群衆の顔を見渡す事が出来た。どれもこれも見覚えのある顔をしていた。セシルが治療した老人もいた。確か膝が痛いと言っていた老人だ。淑女と呼ぶにふさわしい上品な女性もいた。確か頭痛が酷いと言っていたはずだ。
「みなさん、調子はいいですか?」
懐かしい顔を見てかける言葉もなかったセシルが呟いたがその言葉は群衆の叫び声でかき消されてしまった。
彼女が縛り付けられた十字架は大地の震動に耐えられなかった。グラグラと揺れている。急遽、その足場を頑丈に固定しなければならなくなって執行人たちは新しい木材で固定しなければならなくなった。
赤々と燃える火が見える。あれがここで燃やされるのだとセシルは思った。
大地の震動は強くなっていく。ミケルが闘っているのだ。
セシルは磔にされながら彼へと祈りを捧げ続けた。
すると、大きな揺れに耐えきれなくなった遠くの建物が倒壊して行った。
刑場に集まっている人々はそれにすら気が付いていない。だが、セシルには良く見えた。
一本の水柱が天へと突き立つように伸びて行った。凄まじい勢いだった。それが増えて行く。1本、2本、3本と。
「みなさん、危ないですよ。危ないですよ。お子さんがいる人は子供のところへ行ってあげてください。ご家族がいる人は家族の元へ」
そんなような言葉を口にしているが群衆たちは耳も貸さない。いや、届いていないのだろう。
また凄まじい勢いで4本、5本と水柱が増えて行く。それは次々と家屋を倒壊させながら明らかな街の破壊をしつつ刑場の方へと近づいていた。
そして誰かの頭上へ落ちて来た瓦礫が叫び声をあげるとようやく街の異変に気が付いた。
だが、気が付きはしたのだがある者たちは刑の執行を望み続けた。この異変も全てこの偶像崇拝の者がいるためなのだと唱えるのだった。
「刑を執行しろ!」
「神がお怒りだ!」
「聞いた事がある。この街の下には水神がいると!」
「神がお怒りなのだ。鎮めるにはたったひとつの方法しかない!」
周りの人々を押しのけてひとりの血走った眼をした男が飛び出して火の方へと走り出した。
「お待ちなさい。神父が立ち会わなければなりません。言葉を聞かなければならないのです」
執行人たちによって取り押さえられて群衆に戻された男はひとしきり暴れると執行人たちを睨みつけた。
「神父はいつやって来る?!」
「すぐ来るはずです」
だが、神父は一向にやって来なかった。
群衆たちは突き立つ水柱に恐れをなして倒壊していく建物を恐れながら見つめていた。家族の元へ走る者がちらほらと現れて少しずつ数が減って行った。
神父はやって来なかった。突き立つ水柱の数はもう数えきれないほどになって倒壊していく家屋も数えきれないほどになっている。
そして遠くから歩いてやって来る神父服を着た男が見えた。
その隣の通りからはコードが足を引きずりながらやって来ていた。