第70章 角と爪
轟々と鳴っていた音は徐々になくなった。
風速が増すにつれて音も身体を襲う感覚もなくなっていた。
【岩の王】を使って壁を作り出したがこの暴風の前には無力だった。全てを薙ぎ倒す風がミケルを襲う。
岩は全て削られた。凹凸は無くなり、滑らかになった。
土や泥や苔は消え去った。風がどこかへと運んでしまったのだ。そしてそればかりでなく他の物も運んで行ってしまう。
その場所は真空へと限りなく近づいて行っていた。
遂に轟々と鳴る音は止んだ。かと思うと耳鳴りのように鋭い音が響く。
「苦しいでしょう、もうすぐそれも終わるわ!」
ローザモンドが叫んだ。居場所を特定する事は難しかった。宙に浮いているミケルの全方向からその声は聞こえていた。
スキル【風を読む者】がその周囲の状況を目まぐるしく教えてくれた。スキルの発動が感じる事は少なくとも風がそこにある事を教えてくれた。
完全に空気は無くなった。
驚く事に真空になってもミケルの身体に顕著な変化は現れなかった。彼らは酸素を必要としない。魂たちが寄り集まっているだけで創られた身体なのだ。循環器もないし、言ってしまえば脳もないのだ。
ミケルは平気そうに宙を漂った。手を伸ばせば吹き荒ぶ嵐に見舞われて身体を無残に持っていかれるだろう。
「あなた、平気なの?」
ローザモンドが驚いた調子で尋ねる。
ミケルは徐々に炎が燃え立つのを感じていた。風を受ければ受けるほど炎は激しくなる。それにはもちろん燃料が必要だがスキル【2つの動力源】がその燃料を命を燃やすように投じて来ていた。
「どうやら平気のようだ」
ミケルは笑って答えた。
ローザモンドの取った作戦は悪くはなかった。人と判断しての攻撃ならこれ以上の物はない。並の人間なら絶命していただろう。だが、ミケルは並ではない。
風が止んだ。それと同時に宙へ浮く感覚も無くなった。とつぜんそれが止むと周囲にあった泥や苔が一斉に塊となって襲い掛かって来たが【岩の王】でそれを防ぐとミケルはローザモンドを追った。
彼女は貯水槽の少し開けた場所へ行こうとしている。風に乗って鳥に姿を変えているがミケルの眼には追う事が出来ていた。
とんと軽い跳躍で管を端まで駆けてしまうとローザモンドを捉えた気になった。
彼女は鳥の姿から人型へと形を変えている。
「もう逃げるのは止めたのか?」
「広い場所でないと出来ないと思ったから」
風が待っている。緩やかに上昇していた。足が地面を離れ、ゆらりと宙に浮いていく。
「私のコレクションが増えた。あなたのおかげでね」
すると、ローザモンドの身体が巨熊に変わっていく。
風を纏った巨大な熊がミケルに襲い掛かって来た。
突進は風の助力を得て驚くほど速かった。
ミケルは防御の構えを取る事も出来ずに猛獣の突進をもろに受けてしまった。
ローザモンドがこれまで変えたどの獣よりも巨大で力強く堅固だった。
壁に押し付けられた状態でミケルの首筋に熊の牙が襲い掛かる。
ミケルはホウラーヒッシュの大角を出して熊は少しも揺らがないでミケルの首へめがけて大きく開かれた口を近づけて来る。
力の方向を僅かに逸らすのが精いっぱいだった。
風を纏った熊の爪が壁へと食い込んだ。ミケルはそれを避けて横へと退いたので一命をとりとめたがあの力と鋭さなら捉えられたら致命傷になるだろうとミケルは思った。
距離をとると風の攻撃がミケルを襲う。避けると熊の突進に見舞われた。
ローザモンドの攻撃は単調であったが故に強力だった。
獣と獣の激突。
風を纏った巨大な熊と炎を纏った巨大な鹿がぶつかった。
角と爪。
力は明らかにミケルの方が勝っていた。
だが、風と熊の巨大さがその力を受け流していた。
熊の爪が鹿の身体に食い込んでいく。血は流れない。離さない決意のように力強く突き立っていた。そして深く深く入り込んでいくほど熊の牙は鹿の首元に届きそうになる。熊は巨大な鹿の首を抱え込んで今こそ首元に咬みつこうと口を大きく開いた。
鹿は力を振り絞って熊を持ち上げるとそのまま壁へと叩きつけた。それでも熊は離れない。
また叩きつける。熊はついに鹿の首元に咬みついた。みきみきと音がする。凄まじい顎の力で鹿の首を折ろうとしているかのようだ。
ローザモンドは風の力を使って浮いていく。地面に引きずりおろして首を砕くよりも宙に浮いた方がそれは簡単のようだった。
すると、ミケルは鹿から蛇へと形を変えた。大蛇が熊へと絡みついた。
絡みついて巻いていく。締め付けは強くなった。
大蛇の締め付けと熊の咬み付き。
めきめきと食い込んでいく。互いを食い合う獣、獣と人間がそこにあった。
骨を砕き、皮を破った。
そして爆発する様に大蛇が黒々とした得体の知れないものに変わった。
ローザモンドは人間とも言えない、獣とも言う事が出来ない物に包まれていた。
暗黒の空間にローザモンドは立っていた。
ローザモンドこと舞島美玖は自分の手を見た。細く長い指を見て顔に触れた。
舞島美玖の身体である事を認めると確かな解放を感じていた。
彼女の頬は紅くなっていた。
『ここはどこ?』
『ここは我らの生まれた場所だ』
『生まれた場所?』
『そうだ。ここで産まれ、ここから飛び出た』
『ふうん、なら最も神に近い場所とも言えるね』
『また神か。くだらん』
『そう、ここに居たらそう思えるかもね。私って死ぬの?』
『ああ、我らが殺す』
『そっか、仕方ないね。綺麗だね、あんたって本当にそう思う。嫉妬するぐらいにね。最後にお願いがあるんだけど聞いてくれる?』
『聞く耳は持たん』
『そう言うと思った。だから一方的に押し付けるよ。最後は思いっきり抱きしめてくれないかな?』
ミケルは舞島美玖に迫った。大勢の魂が轟々と燃えている。
『さっき、獣と獣の姿で抱き合っていたでしょう。その時の力強さが気持ちよくってさ。今もそうしてくれないかなって思ったんだけどなあ』
そして舞島美玖の魂は圧し潰されて行った。
またひとつの魂が解放の喜びと共に旅立っていく。
【治癒の掌】を持って去った。
ミケルたちは去り行く魂が何を持っていくのか選べるのか知らない。だが、何を持っていこうとも少しの言葉も言わなかった。誰もが相応しい物を持っていく。