第68章 【繋ぐ者】
もう身体に力が入らない。
レーアはどうにか身体の向きを変えようと思ったが突き刺さったナイフが思うように動かすのを阻んだ。息が苦しい。ナイフは肺に到達しているかもしれない。喉元に吐き出したい水感がある。
それでもレーアは前を見ていた。腕は麻痺して力が入らない。足を使って這って進んだ。ただ一心に2人の友人の事を思った。
助けなければならない。2人とも恐ろしいほど孤独だった。そして今の自分も。点と点、離れ離れになった悲しい黒い小さな点だった。
セシルを助けられるのはミケルしかいないとレーアは考えている。
いくらか感覚を取り戻していた右手で背中のナイフに触れようと伸ばしてみるが届かなかった。
粛々と死が迫って来ている。伸びた足元にそれが冷たく感じさせた。
自分は助からないかもしれない。それでも助けたい人が居る。
無気力だった日々、病に大部分を圧し潰されて空虚な日々に別れを告げて間もないのにすでに確かな死を感じるなんてあんまりだとも思った。
扉は開かれていた。どんなところへ行くのも自分次第だった。
そして選んだのだ。自分を助けてくれた人の助けになろうと。それに後悔はない。
この瀕死のレーアにまだ動く力を与えていたのはひとえにこの決心だった。
これまで人の助けになって来たという実感はなかった。それが誰かの助けになろうという揺るがない決心を抱くとその新しさ、鮮烈さに酔いしれて我を忘れさせていた。
走馬灯のような映像が見えていた。かと思えばそれは今のようにも思える。セシルとミケルしか彼女の前に現れなかった。
もう身体が動かない。這い進むのも出来なくなった。足が動かない。自由が利くようになった右手を使うには身体は重すぎた。左手はもとより動かない。
だから、レーアは祈った。友の無事を、友の幸福を。神にではない、友の意志が折れませんようにと祈ったのである。
そして明るい扉が開かれた。
≪ミケル、セシルが死刑になってしまう。火あぶりにされてしまう。彼女を助けられるのはあなたしかいない。どうか、彼女を助けてあげて≫
明るい扉の先へ向かって彼女は叫んだ。
≪レーアか?≫
≪ミケル?≫
≪レーアなのか?≫
≪うん、わたしだよ。レーアだよ。セシルを助けてあげて。わたしはもう駄目だから≫
≪駄目というのはどういう事だ? どこにいる?≫
≪地下道のどこかにいるの。ローザモンドを討とうと思ったけれど駄目だった。出来なかったの。少しでもミケルとセシルの助けになろうと思ったのだけれど≫
≪そうか。ローザモンドは今、俺たちの目の前にいる≫
≪そう、気を付けてね。獣に姿を変えるスキルと身体の形を変えるスキル、風を操るスキルを持ってる≫
≪お前も地下道から退くがいい。決戦になる。全てが破壊されるだろう≫
≪それはもう無理だよ。わたしはもう動けない。もう目も見えなくなった。身体が動かないの。さようなら、ミケル。セシルをお願いね。あなたに出会えて本当に良かった。病を治してくれてありがとう。わたしを解き放ってくれてありがとう。病が治ってからの日々は幸福だったわ。本当よ、だから幸福のままで行けるの。ありがとう、そしてさようなら≫
光が薄れていく。そこは真っ白な空間だった。ミケルの誕生した場所が真っ黒な空間だとしたらその対極にあるような真っ白な空間に向かってレーアは語り掛け続けた。
3つ目のスキルに目覚めていた。彼女は遠く離れた者と交信できるスキルを得ていた。
ひときわ大きく揺れが起こった。その揺れがミケルの存在感としてレーアは感じていた。
薄れた光はついに消えようとしていた。開かれた扉が閉じようとしているのだ。だが、彼女は幸福だった。3つ目のスキルは彼女は手に入れた覚えのないスキルだった。通常の人が3つのスキルを有するには非常な鍛錬や修練が必要になる。彼女はその習得を喜んで幸福だった。
さよならと思った。
母を思い出した。言葉が上手く出ないレーアを教会の孤児院に捨てて行った母を。
孤児院の仲間たちを、旅の途中に命を落としていった仲間を。
揺れがまた激しくなった。いや、激しすぎる。岩盤を貫いて来る音のように聞こえる。それはレーアの真下にあるようだった。
いまや揺れは彼女の身体を震わせるぐらいになって横たわる地下道の管をびりびりと軋ませている。
身動きのとれないレーアはこのまま地の底へ、そこで闘うミケルの傍へ落ちて行ってもいいと思いながら成り行きに身を委ねていた。
そして直下の岩盤が砕けると青年の姿のミケルにレーアは抱かれていた。
「え、ミケル………?」
「よお、そんなスキルを持っていたなら最初から使ったらどうだ?」
「今、使えるようになったんだよ。仕方ないよ」
「そうか」
身体の向きが変わると喉元に留まっていた血が口から漏れた。
「ふん」
レーアは無造作に背中に突き刺さったナイフを抜かれた。痛みは感じなかった。
「【治癒の掌】」
すると、レーアの傷がみるみるうちに癒えていく。痛みは消え、痺れは消えた。
「あ………」
レーアは元気を取り戻していた。
穴の開いた岩盤の下から一頭の大きな鷲が飛び出て来た。
そして地下道の間に降り立つとローザモンドに変わっていた。
「もう、無茶苦茶するのね。あなたって」
「ローザモンド!」
「あら、生きてたの、あなた?」
レーアはローザモンドを睨んだ。
「ふうん、治してもらってってわけね。優男なところもあるのね。でも、全く似合わないわ、あなたには」
レーアは弓を構えた。矢を取り出そうと手を伸ばす。
「レーア、お前はセシルの方へ行け」
「え、でも………」
「これは俺の獲物だ」
ミケルを見ると眼が爛々と燃えていた。戦闘態勢なのだ。下ではまだ闘いが繰り広げられている。
「分かった。気を付けてね」
レーアは走り出した。セシルの元へと。