第67章 薄れゆく意識の中で
放たれた矢は真っすぐにローザモンドの後頭部に向かって行った。矢の鋭い切っ先は空を切り裂いてローザモンドの頭部に突き刺さるように思われた。というのもこの暗がりでは高速で直進する小さな物体の行方を追う事はとても困難だった。
文字通りにレーアは放った矢の行方を見失っていた。だが、それは失敗に終わったと直感的に理解した。
音がしなかったのだ。ローザモンドの声も、頭蓋骨に突き刺さる音も聞こえなかった。それよりも避けるような身体を動かす音すらも聞こえてこないのは何故だろうとレーアは思った。様子を見ようと管の側面から僅かに顔を出そうとした瞬間にカツンと矢が床に落ちる音が聞こえて来た。それは異様だった。放たれた矢を弾いたにしては遅すぎる。それが今、聞こえたという事は何らかの影響を受けていたのは明らかだった。
「しまった………!」
レーアは思わず呟いた。ローザモンドを見失っていたのだ。いや、もう見失ってしまったのなら直進するしかない。レーアはそう思うと傷ついた足を構わずに歩き始めた。
彼女はスキル【祈りの道】を使って周囲を探ろうかと思った。だが、それはもっと窮地に陥った時でいいと思った。
ずしんと何かが下でぶつかる衝撃を感じた。闘っているのだ。ミケルが恐らく転生者たちと。孤独の少年がたったひとりで闘うさまを見てレーアは涙がこみ上げる想いをした。それでいて他の者たちが欲しいと言って手を差し伸べる様子を思い浮かべると新たな決心に燃え立って立ち止まった。
「ローザモンドを連れてゆくわけには行かない。絶対に!」
言葉に思い浮かべる前にそれは口から出ていた。行為が思考を上回った瞬間で反射的ですらあった。本能的なこの直感に彼女は従った。
すぐにレーアは【祈りの道】を展開した。スキルが展開していくのが分かる。その範囲は大きく広がっていた。
「え、あれ?」
その範囲は従来の広さよりも拡大していた。
病を治療された事で魂と肉体が完全に合致して本来の力を取り戻したのだった。
そして効果範囲が定まる直前に人の足、踵の部分が僅かに入り、そして出て行った。
ずいぶん離れたところにいる。だが、追いつけない距離ではない。
レーアはそちらの方へ走った。足の怪我が小走りにさせたが逃れた踵はすぐに捕捉する事が出来た。
ここにいるのなら反応はローザモンドに違いない。レーアはそれを追った。ローザモンドには余裕があるように思えた。反応を見る限りは余裕があるように見えるが迷っているようにも見える。レーアは少しだけ分からなくなる不安を覚えた。というのも彼女が受け取った反応は彼女が知るローザモンドよりも身長が低くて体つきががっしりしているように思えたのだ。
それはどちらかというとクレイのような反応だった。
レーアはとにかくその人物の方へ向かった。それがローザモンドであれ、クレイであれ確かめれば済む。クレイなら助力を乞えばいい。
「あの!」
管を下りて貯水槽の反対側へ移ろうとしているその女を呼び止めた。その女はクレイでも、ローザモンドでもなかった。
レーアの知らない女が地下道内にいたのである。女は呼んだレーアを見た。手で貯水槽に下りると合図する。
管を進んでレーアもそちらの方へ出ると女は腰に手を当てたいくらか不機嫌な様子でレーアを見た。
「なにさ?」
「ここで何を?」
「なにしてたってあんたには関係ないだろ。そっちこそこんなところでなにをしてるのさ?」
「ここでクロイン派のローザモンドを見なかった?」
「クロイン派? わたしはヴィルヘルム派だからねえ、クロイン派の神父でもない教徒の事なんて知らないね!」
すると女はレーアを警戒しつつも貯水槽に長く留まるのを嫌がるような素振りを見せた。
外に出て行きたいのだとレーアは思った。
「なにさ、用がないならもう出ちまうよ。じゃあね!」
「待って、出口を知ってるの?」
「そりゃあ、そうさ。そうでなきゃ入れないし、出られないだろ。ここはね、良いごみ処分場なのさ」
なるほど、確かに嫌な臭いがしている。レーアは自分の衣服に刷り込んだ泥や苔の臭いよりも酷い臭いに鼻をふさぎそうになっていた。
「それじゃあ、行くよ。ここで会った事はお互いに言わないでおこうよ!」
「待って!」
出て行こうとする女を引き止めた。なにか考えがあるわけではないがローザモンドが現れた場合に助けになるかもしれないと思った。
「もう待てないよ。さっきから地震がしてる気がするんだ。良くない事の前兆な気がするんだよ。なんだ、あんた、足を怪我してるじゃないか。手を貸して欲しいのかい?」
「それならそうと言いなよ」と付け加えて女がレーアに近づいて来る。
「だめ、近寄らないで!」
レーアはその女が近づいて来るのを拒否した。
女は怒りを露にしながら立ち止まった。
「なんだよ、ちょっと優しくしてやろうと思ったのに!」
「ごめんなさい。わたしは人を探していて。それでこんなところに。あなたが見ていないならいいんです。見ていたらどれだけ良かったか。ごめんなさい。振り返らずに行ってください」
レーアはこの女とローザモンドの繋がりを想像できなかった。薄汚い女と洗練された女は釣り合わないように思えた。
そして次の管に入ろうとそこの前に立った。彼女の【祈りの道】の効果はまだ続いている。これを頼りに探すつもりだった。獣の様子に姿を変えられるローザモンドだ、もしかしたらそれらしい姿に変えてどこかに潜んでいるかもしれない。
薄汚い装いの女は動いていない。その反応はレーアのスキルに反応として伝わっている。
「それじゃ」
女に別れを告げてレーアはその管に入った。
「やれやれ、これで終わりってわけね」
ローザモンドの声だった。振り返ると大きな熊がレーアの前に立っていた。
そして横なぎに爪を振るった。
腕でなんとか防御したが爪は鋭く彼女の腕を切り裂いた。そして振り抜かれた鋭い爪を有する右腕と交差する様に左腕がやって来た。レーアはその左腕に無防備な腹部を打たれると右側の壁に吹き飛ばされてしまった。
壁に叩きつけらた衝撃と腹部と腕の痛みで彼女はどうにかなりそうだった。
「どうして?」
虫の息のレーアは顔を上げた。ぼろぼろの彼女は熊から姿を変えたローザモンドを見た。
明らかに異常だと思った。
クロイン派の獣の教義は確かにある。獣に姿を変えられるスキルを一時的に授かる事が出来る。だが、ウィノラによるとそれは決められた獣にだけだった。それも強くイメージできる獣に限る。
このローザモンドはいくつもの獣に姿を変えている。クロイン派の教義のスキルではない。
風を操るスキル、獣に姿を変えるスキル、この獣のスキルが人にも姿を変えられるというのか。
「ふふ、悲しいね。なにもスキルのない一般人というのは。ほら、見てな」
ローザモンドは伸ばした右腕を左腕で撫でた。
すると、右腕の前腕部にあった肉が上腕部の方に寄っていくのが見えた。太さが変わった。次に掌を押すとローザモンドのすらっと伸びていた腕は短くなった。
長い左腕と短い右腕が出来上がった。
「分かるかい?」
レーアは恐ろしい者でも見るような目でローザモンドを見た。人間とは思えなかったのだ。
「これを見せる時の表情が好きさ。いつもみんなそんな表情を浮かべる。私はね、自分の身体の造形を変えられるんだ。不思議だね、前世で求めた自由が今世で与えられている。神に選ばれたのさ」
レーアは麻痺して動かない身体になんとか力を入れようとしていた。身体はぶるぶると震えている。自由にならない。
そんなレーアの肩をローザモンドが踏みつけた。
もう痛みも感じなかった。
「あの子の面倒は私たちが見てあげるよ。安心しな」
すると、またレーアのいる場所よりも更なる下の方でまた揺れがした。それもこれまでの微弱な揺れよりもはるかに大きな揺れだった。
「くそ、あいつ、あの子を殺すつもりだな」
ローザモンドはレーアが持っていたナイフを取り上げると彼女の背中に突き刺して狼の姿に変わると駆け出して行った。
突き刺された痛みのない感触を確かに背中に感じながらレーアは横たわっていた。血が流れていく感覚がある。背中の皮膚を、足の上を、腕から確かに流れ出ていく。
もう言葉を発する体力もなくなって目は虚ろになって霞む。
「セシル………、ミケル………」




