第66章 百獣の王
泳ぎに自信があるとは言っても限界はある。
レーアは長い通路を越えた辺りで限界を迎えそうになっていた。
上を見上げた時に彼女は微かに灯りを見てそこだと思った。
光へ上っていく時、彼女は自分の速まる鼓動を聞いたし、手足を動かす水中の音を耳にしていた。
だが、それ以外の確かな音も耳にした。先ほどまでは聞こえなかったそれを確かに感じていた。
それの出す音はあまりに大きすぎて滑らかだった。水の中で住まない人間の音ではないように思えてレーアはこの貯水槽内に潜んでいた生物を連想した。
とにかく彼女はそれでも空気を、光を求めて上へ上へと上っていく。
脚を何かに咬みつかれた。鋭いが短いいくつもの牙に挟まれている。激痛に彼女は叫び声をあげそうになるがそこは水中で声にはならない。
持っていたナイフを取り出して切りつけるとそれはレーアの脚から牙を離した。
何かがいる。何らかの水棲生物が。
ナイフでの攻撃で距離は出来たようだ。だが、攻撃性は増しているだろう。ナイフの感触はすっと身を切った程度で致命傷にもならない。かすり傷だ。
傷に耐性のない生き物は少しの傷にも激昂する。
レーアはわき目もふらずに一心に光へと上がった。
なんとか地下道へと這いあがる事が出来た。
酸素を目いっぱい吸い込む。苦しさが解消されると途端に咬みつかれた脚の痛みがやって来た。
レーアは上着を脱いで破って簡易的な包帯を作ると血が出る脚に巻いた。歩く事は出来る。だが、走る事は難しいだろう。
傷の大きさからしてこの生物の大きさもそれなりの大きさだ。
すると、ざばりと水を落とす音を鳴らして貯水槽から人が出て来た。
ローザモンドだった。
「やれやれ、あまり逃げないでよ。面倒になるでしょう」
ローザモンドは来ていたワンピースの裾をたくし上げて絞って水を落とした。彼女はこの水中の遊泳がまったく平気そうだった。
レーアは矢を構えて彼女の注意がまだびしょ濡れの衣服に向かっているうちに放った。
またどこからともなく風が吹いてそれを阻んだ。
「無駄よ、もうお止めなさいな。観念する事ね、抵抗すればするだけ悲しい結末になる」
咬まれた右足をかばってレーアは立ち上がった。助力は見込めない。コードはいないし、クレイもいない。ミケルに至ってはまだ戦闘を続けている。というのも微弱な揺れが先ほどから繰り返しあるからだった。
レーアは逃げた。驚く事に走れないと思っていた身体は走れるようになっていた。酷い傷だったのに痛みはさほど感じない。
スキル【忍び寄る者】が単独行動をしているレーアの能力を補助してくれている。これに勢いを得た彼女は走り出した。
「もう面倒ね。まあ、もうやっちゃっていいか」
猛烈な風が吹いて彼女を襲ったがそれはかすり傷を彼女に与えるだけで致命傷には至らなかった。それほどの鋭さがない。水に濡れた衣服が風をいくらか防いだのだ。だが、それも長くは持たないだろう。いずれは乾くだろうし、そうと分かったローザモンドが対応してくるだろうから。
「だから嫌いよ、水って!」
ローザモンドは大きな犬に姿を変えた。クロイン派の派閥の教徒らしい振る舞いだ。
野獣の疾駆にレーアは太刀打ちできそうだと思った。地下道へ逃げ込むとそこはやはり暗がりだった。
水のない貯水槽にたどり着いた。風の防御は濡れた衣服でどうにかなるかもしれないがレーアの攻撃は風で弾かれる。野獣に対するにはナイフと潜伏した矢での攻撃が最も効果的なのにレーアはここで手段が限られているのを認めた。
貯水槽から伸びる管の一つにレーアは隠れた。
ローザモンドが犬の姿から人型の姿に戻った。
「ねえ、もう諦めたら?」
ローザモンドは明らかにレーアの方を見て言った。潜伏場所がばれている。犬の嗅覚で知ったに違いない。レーアは管の奥を見た。暗い管がレーアを誘っている。それは絶望か、希望か。
「あなたは転生者なの?」
「そう。あなたもあの子と交流があるのね。そうね、私は転生者よ。どこかからやって来た。前世の記憶を持つ者、持つと言っても特別な何かがあるわけじゃない。普通の少女だった。芸術科の学校に通う大学生でね、どこにでもいるような見た眼をしていたと思うな。
突出したところがあるわけでもないのにここへこうして来てしまった。スキルというものがたくさん使える。私が芸術科で学んだあれこれが活かせるスキルがいくつも授かって生まれたのよ。きっとそういう風に出来ているのよ、この世界は」
「わたしには前世の記憶なんてない。大部分の人がそうなのよ。この街で何を企んでいたの?」
「私は特にこれと言った要求はないわ。私が望んだのはただひとつ与えられたスキルと知識を使って素晴らしい芸術作品を作る事だけ。造形なのよ、私は像を作るの。素晴らしい像を作る。私はあの子を見た時に戦慄した。どうしたあんな風に居られるのだろう。どうしてあんな形で生きていられるのだろう。そう思った。誰によって作られたのだろう。
決して人間じゃないわ。あんなものを作るのは人間では不可能よ。それが可能なら神と呼ばれるでしょうね。無造作な群れの中から突き抜けてやって来る一頭の獣よ、その姿は見事に均整がとれていて触れる者の全てを傷つけるほど鋭くある意図された造形。あの子に触れたらあの子は熱かった。この手で触れたのよ、とても熱かった」
レーアはローザモンドに語らせるままにしていた。声が大きく響けば響くほど良かった。彼女は新たな別の貯水槽にたどり着いた。そこへ潜んだ。そこへ至る途中に地下道内の泥や苔を頭から被り、衣服に塗り付けて彼女の臭いを消した。
矢を構えて暗がりの中で息を殺した。
「あの子は完成されている。生きた芸術よ。私が求めるのはただそれだけ。私とヨハナはそれだけだけど他の連中は知らないわ。中には世界征服なんて企んでた者もいるらしいけれど誰かは興味ないから知らないわ。でも、もうその企みもきっとお終いね」
ローザモンドが彼女の射程範囲に入って来た。レーアの居場所はばれていないと彼女は思った。レーアの方を少しも見ないからだ。かと言って探しているようにも見えないのが不気味だった。
レーアはローザモンドの視界が彼女から外れるのを待った。
そしてその時がやって来た。
引き絞った矢の狙いを定めてローザモンドの長い髪が垂れる後頭部にめがけてそれを放った。