第65章 不吉な風
レーアは走っていた。
真っすぐに地下道へ向かうつもりだったが探し人に適したスキルを持つ人が居る事を思い出して大慌てで方向を転じた。
クレイがそのスキルを使うのに必要な物をどうにか調達しなければならない。レーアはミケルが借りていた無賃宿の部屋に入るとミケルの荷物を手に取った。
それはひとつの小さな鞄だった。彼が街の外でアクセルたちに接触して来た時に持っていたあの鞄。すっと持ち上げるとあまりの軽さにレーアは驚いた。恐る恐る中身を見るとそれは空っぽだった。
レーアはその空っぽな中身に酷く傷ついた気になった。
クレイのスキルがこれで発揮できるのか分からないがレーアはそれを持って彼女のところへ向かった。
クレイはルイーゼ派の第2診療所でコードに付き添っている。
レーアは走った。
診療所に着くとその診療所で主に治療を担当していた神父がレーアを見るなり悲し気に言った。
「判決が下ったそうですね」
「はい」
レーアはそれだけ答えた。
「クレイはいますか?」
「ええ、あちらに」
神父はレーアの対応にいくらか面食らった様子でレーアの背中を見送った。
「クレイ!」
「レーア、どうしたの?」
クレイは看病に疲れている様子で眠そうだ。
「これで持ち主の居場所を特定して!」
レーアが押し付ける鞄を受け取ったがクレイは良く分からない様子できょとんとしている。
「これの?」
「そう。急いで!」
「分かった」
クレイがスキルを発動した。
首をかしげる。どうやら反応がないらしい。
「あれ?」
もう一度、クレイがスキルを発動させる。
「うーん、反応がないや」
「反応がない?」
「うん。ないの。でも、これはちょっと違うな。どちらかっていうとこの鞄がまだ誰の物でもないって感じでレーアが探す人の所持品じゃないって感じかな」
レーアは頭が真っ白になった。それがいったいどういう事なのか彼女には分からなかった。これが彼の所持品ではない。物にさえ認められない寂しさがそこにあるように思えた。空っぽの鞄の中身がそれを強く思わせる。
クレイとコードをそこへ置いてレーアは診療所を出て行った。
後ろからクレイの声が聞こえる。「ねえ、この地震って」と言っていたがレーアは構わなかった。
自宅に戻って戦闘用の準備を万全に整えた。
彼は闘っているのだ。それもとても孤独に。唯一の理解者であるセシルを失おうとしている。そんな事態を見過ごしてはいられない。
街の祭りの様子は例年通りにいけばもう終わりを迎えるころで徐々に盛り上がりは衰えて日々の静かな祈りの生活に戻っていくはずなのにここに来て再び盛んな賑わいを見せていた。誰もがこの神の降誕祭に偶像崇拝をしていた娘を処刑する事に信心深い繋がりを感じ取って互いの正しさを感じ合って抱き合って叫んでいる。
その叫びの中をレーアは走った。
狂っていると思った。この街の真実にたどり着こうとしているレーアはこの狂騒の中を真実へ向かって真っすぐに進んだ。前進するほかに道はなく、前のほかに見るべきところもない。
大聖堂の方へ向かった。彼女は地下と言われるとその場所しか思いつかなかったし、そこにはまだ隠されている何かがあると思っていた。
大聖堂は信者たちでごった返していたがその方が動きやすかった。人が居ればいるほどレーアの行動はその中に違和感もなくまぎれる事が出来た。
大聖堂の例の部屋へ入ると地下への階段は開いたままになっていた。
レーアは弓を握って矢を持った。ナイフが右の腿の側面に付けられている事も確認している。
敵の影はなかった。
闘う覚悟は出来ている。そう、なにが出て来たとしても。
レーアは地下神殿内をくまなく調べ上げた。人の気配はない。
争ったあとが残っている。微かに揺れている気がするとレーアは思った。
神殿内を調べ尽くしたがあるのは絵画を初めとする芸術品ばかりでそれらしい物はなかった。揺れは明らかにこの下が発生源のようだった。
どこかに何かがあるはずだという考えを疑う事すらしなかった。彼女はこれまでこんな地下神殿の事など聞いた事がなかった。クレイがレーアに教えてくれたこの場所はこの街が知らなかった全てを含んでいる。
芸術品を収めている神殿から出た。4つの小神殿の扉は開いていた。中を改めて見るが地下に繋がる様子ではない。
4つというのが彼女には引っかかった。この街の宗教の派閥も4つだ。
神殿の外へ出ると彼女は円形の台の方へ歩いて行った。そこには4つの柱がある。これもまた4であり、柱の真ん中に神の小さな像が彫り込まれていた。
4つの柱と4つの神殿、そして4つの派閥。
この円形の台こそが地下への扉ではないかと彼女は思った。床を調べてみるが鍵となるようなものはなかった。
レーアは探した。ここに何かがあるはずだ。
「勘は良いね。当たってる」
大聖堂へ繋がる階段の方から人が下りて来ていた。
ローザモンドとヨハナだった。
その物腰は優雅で余裕に満ちていた。
「そこが奥への道。この街の深遠さ」
「あの子が下に行ったんだ。どうやって行ったんだろう?」
「どうやって行ったのかなんて大した問題じゃない。その気になれば岩盤を砕き続けてもたどり着けるんだから。問題はあれとあの子がぶつかってる事だよ」
「そうね、私はあの子を回収するわ。死んだら可哀そうだもの、見られなくなってしまうもの。そうなる前に回収しなくっちゃ」
「そうだね、私もそうしたい。でも、今はそれの他にも私はやるべき事がある。ついにあの娘を描けるんだ。見てよ、ほら。私はこれで牢の中で祈りを捧げ続けるあの子を描いたんだ」
ヨハナは白い衣をまとった。すると、ヨハナの姿が消えてしまった。見えなくなってそこに存在感すらも感じなくなって背景に溶け込んでいる。
「私はあの子が火あぶりになる様子を描く。素晴らしい芸術品が出来上がるぞ。すごい作品が出来上がる。これこそが芸術だ」
「私はあの子の元へ行くわ」
「まあ、好きにしなさいよ。あなたの次は私だからね。私の分は取っておいてよ。まあ、今は他に夢中になる物があるからさ、譲るけれど本当は譲りたくないんだからね。それにインガルの奴もきっと欲しがるわ。取られないようにね」
「分かってる。あの男なら力づくでもどうにかなるわ」
「そ、じゃあ、まずはそれから始末しなさいよ。私はさっそく向かうから準備しなくっちゃ」
「それじゃ、またあとで会いましょう」
「ええ」
ヨハナは自分の小神殿から大きなキャンバスを持ち出して階段を上っていく。
レーアの前にローザモンドが立ちはだかった。
「こんにちは、はじめまして。ローザモンドよ、よろしくね」
ローザモンドは柔らかくレーアに挨拶をした。それは初対面の2人には相応しいほど柔和だった。
レーアが何か返事をしようと口を開いた瞬間に「そして、さよなら」とローザモンドが言うのが聞こえた。
不穏な空気を感じてレーアはその場を離れた。瞬間的に横へ転がると彼女がそれまで立っていた場所に一陣の風が巻き起こっていた。
「やっぱり勘が良いのね」
ローザモンドが笑う。
「でも、それだけ苦しいのよ?」
瞬間的にレーアは矢を放った。
風が吹いてその矢を弾く。
またもう一度、ローザモンドへ向かって矢を放ったが同じように弾かれた。
風が吹いている。吹くはずのない屋内の地下で。
レーアは避けた。避けると同時に逃げた。芸術品を収めていた神殿内へと逃げ込む。風をそれが少しでも防いでくれると思った。
その神殿を越えた先に貯水槽の水があると聞いていた。
背後の方で風が吹く音が聞こえる。ローザモンドを相手にするにはレーアは相性が悪すぎた。
神殿を出るとレーアは貯水槽の水が確かに見えた。走って扉を過ぎた。
そして水が見えた時に彼女は迷わずに貯水槽の中へと飛び込んだ。彼女の身体があった場所を風が通過した。貯水槽の水面がそれに合わせて少し揺れている。
レーアは泳ぎ始めた。少しだけ泳ぎには自信がある。その自信が迷わずにそうさせた。




