第63章 インガルと水竜
少年の姿のままで獣は進んだ。
その道はクレイとコードが出会った貯水槽に続く地下道の様子とはまるっきり違う。だが、通路の向こう側を通る水のような音が聞こえていた。
水だった。
貯水槽の清らかな水と汚れている水。水だった。水が関係している。
この地下の更なる下にも水があるだろう。この獣も水の中では呼吸は出来ない。そこに潜む何かだとしたら闘いは不利かもしれない。
だが、たとえ不利であろうとも獣がする事には変わりがない。変えられないのだ。
地下道を進んでいるとそこが徐々に下方へ傾いているのを知った。傍を通る管の方に流れる水の音も激しくなっている。
獣は突き進んだ。
そしてただっぴろい空間を感じた。というのも水が落ちる音が聞こえて来たからだった。それもひとつやふたつではない。いくつもの落水の音が獣の耳に届いていた。
地上のあれこれは獣の頭の中にはなかった。
緩やかだった傾斜は角度を増してほとんど歩けないぐらいになった。行くのが少し早くなっただけだと思った獣は傾斜に対する抵抗を止めて身を任せると滑るようにそこへと落ちていく。
そしてようやく地下道の出口へ着くと落水を回避してその空間の壁へへばりついた。鋭い爪を壁へ突き立てて堪えたのだ。
獣が張り付いたのは落水の前にその場所の様子をよく観察するためと水以外の物がそこへやって来た事を報せる事を避けたからである。
これは功を奏したかもしれない。
獣が張り付いた壁の反対側に4つの燭台が立てられている四角いところがある。そこは水の溜められているこの巨大な空間の中で唯一、濡れないで済む場所だった。
桟橋のようなその場所の先にひとりの男が立っていた。
遠すぎて獣にはそれが誰なのか分からなかったが背格好と状況からインガルと推測できた。
いったい何をしているのか獣には分からない。なにか話しているように見えるが獣にはその話し相手がいるようには見えなかった。ぼんやりと見えるインガルは負傷から回復しているように見える。
ここは転生者たちの隠れ家なのかもしれないと思った。インガルがいるのがその証拠だ。
獣は全身に力を込めるとそちらの方へと跳躍した。足に力を込めてばねのように弾くと一直線にインガルの方へと向かっていく。
インガルはまだ獣の超速度の接近に気付いていない。好機だ。その胴体と首を切り離してやろうと獣は壁を掴んでいた爪をさらに鋭くさせた。
だが、何かにぐっと足を掴まれた。空中で減速し、ぴたっと止まってしまう。
「なんだ?」
そしてぐわんと振られると獣は壁へと叩きつけられるように投げられていた。
壁へと衝突し、打撃を受けたがダメージは少ない。
何かに掴まれていた。
その感覚に獣は覚えがある。インガルのスキルだ。【山を掴む手】の感覚だった。だが、インガルは獣に気が付いていた様子ではない。
現にとつぜん壁の方で獣が衝突音を響かせているのに驚いている様子だ。
「そうか、ここを勘付いたか!」
インガルが叫んでいる。
「涼音、こいつだ。こいつが上で暴れているんだよ。協力して闘おう。ぼくとお前なら勝機は十分にある!!」
インガルは天狗の姿に変わった。
獣はインガルの方には目を向けていない。インガルを殺すのは簡単だと判断していた。どのようなスキルを持っているのかは分かっているからだ。それよりも獣はインガルのスキルを使った者の方が気になった。
涼音とインガルは呼んだ。
すると、水の溜まったこの空間の更なる下、水の底から揺らめく影が見えた。
巨大な影だった。
「竜だ!!」
水の中を泳ぐ竜がそこにいた。それがなんらかの方法でインガルのスキル【山を掴む手】を使ったのだ。
浮かび上がって来る。獣に迫って来ていた。
「これがこの街の秘密か」
獣は誰に言うでもなく言った。
「くだらん、実にくだらん秘密だ。その全てを打ち砕いてやる!」
水から飛び出してくる竜が空に浮いていた。獣の方を見て咆哮する。
「強いな、だが、俺ほどではない!!」
獣も戦闘態勢に入る。疲れがあるようには思えない。感じていないからだ。だが、痛みは継続している気がするのはなぜだろう。この心身に残る疼きが痛みなのだろうかと獣は思った。
水竜は巨大だった。オスカーと闘った時に姿を変えたヘルッシャーミンメルと同程度の大きさだと獣は判断した。
そしてそれに類する魔獣だろう。
「涼音、協力しよう!!」
天狗のインガルが叫んだ。
神通力を使って獣の身体を抑え込んでいる。水竜の姿は首長竜のようだった。古の姿を獣は見ている。
獣は【岩の王】を使って水を溜めるこの空間の壁から岩石を球形に取り出して水竜へ投げつけた。
「それはアドネの!」
インガルが叫んだ。
水竜に投げつけた岩球は空中でぴたりと停まった。そして方向を転じて獣の方へと投げられた。
間違いない水竜はインガルのスキルを使用している。だが、どうやってだろうか。
「涼音、ぼくが奴を抑える。こいつがスキルを持っているという事はアドネはもうこの世にいないかもしれない!!」
「ここで討つしかない!!」とインガルが付け加える。
そしてインガルが【山を掴む手】で獣の身体を握りしめた。
インガルも使っている。この水竜も使える。スキルを共有しているのだ。
それはかなり厄介だ。
水竜の身体がぐるんと宙で回転した。徐々に落下を始めている。
そして尻尾が獣に叩きつけられた。当たる直前に獣はインガルの拘束から抜け出したが回避は出来なかった。防御のために腕を前に交差させたがその一撃はアドネの一発よりもはるかに強かった。
下方に叩きつけられた獣は水の中へ身体を落とした。
激しい音を鳴らして水竜も落ちて来る。
獣はずいぶん深いところまで落とされたが身体はまだ動いた。
水中で獣は体勢を整えると前方から猛スピードで迫る水竜を迎え撃つために構えを取った。