第59章 悲しい揺らめき
クレイは黒狼と散歩していた。
街のあれこれを案内したいと言っていたし、市場へ行って欲しい果物を買ってあげようと言った。
ある通路にさしかかると黒狼がぴくりと反応した。
通路の大聖堂から遠ざかる方向に人だかりが出来ている。
その付近の建物が半壊状態で瓦礫の山があった。それに注目しているのだろうとクレイは思うと途端に興味を失った。
だが、黒狼は興味がある様子でいる。
「ねー、市場に行くんだよー」
黒狼はすたすたとその瓦礫の山の方へ、人だかりの方へと向かった。
クレイは動かなかった。「もー、勝手なんだからー」などと怒って見せている。
黒狼は血の臭いを嗅ぎ取った。
クレイに構わずに進む黒狼を見て彼女はちょっぴり寂しい気持ちを起こすと小走りに駆け寄った。
担架が運ばれてきていた。
黒狼は人々の隙間から中を覗くとそこにはコードが倒れているところだった。
人が呼びかけているが意識がないのかコードは反応しない。
「え、コードじゃん」
クレイが人の群れの奥から言ったのが黒狼の耳にも届いた。
「あんた、知ってんのか?」
「うん、知り合いだよ」
知人だというクレイのために人々は彼女をコードの元へと通した。
「コード!」
彼の肩を揺すった。
コードの口元は血で濡れていた。
「気を失ってるんだよ。命は大丈夫そうだ。今、ルイーゼ派の連中を呼んだところさ」
小太りの男がクレイに教えてくれた。
「いつからここに?」
「さあ、分からないねえ。なんでも小一時間前に建物がとつぜん崩れ始めたって話だよ。それに巻き込まれたのかもしれない」
コードの事情と街の中の状況を知るクレイにはそれがどういう事なのか理解できる。
「ありがとう」
礼を言うと彼女はコードの様子を確認した。明らかに戦闘を行った後だった。
「ねえ、ミケルを呼んだら良いんじゃない?」
クレイは黒狼に言った。
が、そうとは出来なかった。
「必要ありませんよ」
コードだった。身体中が痛むらしい。痛みをこらえる呻きを漏らしながらコードが言った。
「コード!」
クレイが叫んだ。
意識がある事に彼らを取り囲んでいた群衆が騒いだ。
「大丈夫?」
クレイが心配する。
「大丈夫ではないでしょうね。アドネと闘いました。とても強かったです。恐らく3つ目のスキルでしょう」
コードはクレイから目を離してその隣にいた黒狼を見て言った。
「彼は十中八九、転生者です。格闘系のスキルを有しています。動きを読むようなスキルと場を整えるスキルを有しているはずです。あと、これを受け取ってください。私にはこれぐらいが出来る事でした」
動かせない彼の腕の力ない手が開かれた。そこには短い髪の束が握られていた。いくらか焦げている。
クレイがそれを受け取った。
「あなたに尋ねたい事があります」
コードは黒狼を見据えている。黒狼は喋らない。それを承知の上での問いであろう。
「あなたは神を見た事がありますか?」
黒狼は首を振った。ないのだ。もしあるとすれば彼は神を信じていたかもしれない。だが、この転生というものを許している神を、そしてそれを作り上げた神を好きにはならなかっただろう。
「そうですか。私は今、もっとも神に近しい存在はあなたではないかと思っていました。あなたは神からの使いなのではないかと思っていたほどです。あなたは神が遣わしたこの世界を清浄する者ではないのかと」
言い終わらぬうちにコードは頭を振って馬鹿げた考えである事を示した。だが、その眼はそれを信じ切っている。
「忘れてください。あなたの武運を祈ります」
そしてコードは担架に載せられてルイーゼ派の教会へと運ばれて行った。
「これ、アドネの髪なの?」
クレイが尋ねるが黒狼はやはり答えない。
クレイはスキルを使ってアドネの位置を特定した。そこは彼の自宅だった。
「自宅にいるみたい」
黒狼はそちらの方には歩いて行かなかった。
万全の状態で向かうべきだと彼は考えていた。
ミケルの方と合流するつもりだった。
彼らはすぐに見つかった。
事情を説明すると合流に異議を唱える者はいなかった。
『闘いが始まる』
『そうだ、闘いが始まるのだ』
『格闘系で闘う者だそうだ』
『行くぞ』
『ああ』
いつもなら【憤怒の炎】が燃え立つはずなのに今になってそれが少ないように思われた。
いわゆる気が乗っていない状態だった。だが、そうするしかない。
気乗りしない原因は分かっている。セシルの事が気になって仕方がないのだ。
それでもミケルは行くしかなかった。
彼の強い意志は使命を貫く事を強いた。
そして彼はそれに従った。
クレイにアドネの居所を最終確認してもらった。アドネの居場所は変わっていない。自宅にいるようだ。アドネの自宅の場所を教えてもらってミケルはそこへ向かうために歩き始めた。
クレイは心配そうにミケルの背を見ている。彼女はどうするべきか分かっていない。
右へ左へと首を動かしていたのが心配のあまりに駆け出してミケルの隣に立っていた。というのもレーアがそうしていたからだった。
「付いて来なくていい」
ミケルは2人に言った。
「でも………」
ミケルはレーアを見た。その眼だけで彼女には十分だった。クレイには構わずに歩き始めたミケルから分離した個体があった。少女姿の同胞がミケルの身体から出て来た。
クレイの前に駆けて行って言った。
「大丈夫だから、待ってて」
クレイは「う、うん」と言ってミケルたちを送り出した。
少女はとてとてと走ってミケルの後ろに付いた。そして本体と合流する前にクレイに手を振った。
ミケルはアドネの自宅の前に立った。
彼の家は質素な平屋だった。
扉を叩いた。
すぐにもここを攻撃して奇襲をかけても良かったがミケルはそうしない。そうするべきではないと感じていた。
そしてアドネが自宅の奥からやって来る足音が聞こえて来る。
ミケルは自身の中に熱い炎を感じ始めた。その炎は小さかった。微かで、寂しく、悲しいほど弱弱しい。だからこそ何かをくべるのだ。炎を更に強くしなければならない。今、確かに燃えている炎の揺らめきが風を感じさせた。