第56章 無感動な抱擁
ローザモンドは答えなかった。
ミケルもそんなローザモンドに反応しない。彼女はゆっくりとミケルの頬に触れた。
ミケルはそれを払いのけた。
「絵描きの転生者はいるのか?」
再び尋ねた。
また沈黙している。もうその沈黙が答えのようなものだった。
ミケルを見ているローザモンドは何も喋らなかった。
彼女はミケルをじっと見ながらその体を撫でた。
もうその他の事は見えていない様子だった。
そしてアトリエの扉が開く音が聞こえた。
ミケルはそれがレーアかと思ったがその先にいたのはヨハナだった。
どうやら仕事を終えて帰宅したらしい。
「おや、ローザモンドが来ているとは聞いていたけれどまさかミケルも一緒とはね。何をしているの?」
くすくすと笑いながらヨハナが尋ねた。
ミケルはぶすっとして答えない。
ローザモンドはヨハナが来た事にも気が付いていないようだ。それぐらいにミケルの様子を見るのに夢中になっている。
「どうしてそんな風になっているんだろう?」
ローザモンドがぼそりと呟いた。
「どうしてこれほど完成された形で生まれる事が出来たのだろう?」
また呟いた。それにどのように誰が答えるべきなのかその場にいる者では誰も分からなかった。
ヨハナを見るとくすくすと笑うのを止めないでミケルたちに近づいて来る。
「ローザモンドも芸術家なんだ。彼女は造形でね。像を造るんだよ。きっとミケルの身体が彼女の理想に近いんだろうな。私もそれは否定しないけれどね。さて、私も描いていいかな?」
「構わん。が、セシルの事を話せ」
「きみはあの子に夢中だねえ」
絵筆とスケッチブックを持ってデッサンを始めながらヨハナはぽつぽつとセシルの事を話し始めた。
「あの子はどうなるか分からないよ。最初、彼女は無実を主張していた。実際にそうだったのかもしれないよ。クロイン派の[獣の教典]を彼女が手に入れたところでどうしようもないからね。それについては弁護人がかなり頑張ってたかな。でも、次が問題だった。
偶像崇拝の事なんだけどね。ミケルは知らないだろうが偶像崇拝の疑いをかけられた者はほとんどの場合、処刑を免れない。これまでにもセシルのように無実と思われる者がその疑いにかけられたんだが全員が処刑された。
ここで良くなかったのが彼女は偶像崇拝を明確に否定しなかったんだ。もしかしたら彼女は神の他に祈りを捧げるものがあるのかもしれない。それをあの場で誤魔化す事が出来ていたら変わったかもしれないがね。判決は明日にでも出るだろうね」
「どんな風に出るんだ?」
「出るまでは分からないよ。明日にでも出るさ」
「お前の口ぶりでは処刑になると言っているようなものだった」
「まあ、これまでの例をあげただけさ。今回は分からないよ。弁護士も頑張っていたからね。それに裁判所側も本当は処刑なんてしたくないのさ。それが敬虔なる教徒ならなおさらね」
ミケルは沸々と怒りを燃やし始めている。
「ヨハナ、お前は転生者か?」
「またそれかい?」
譲る気はミケルには無いのだ。何度だって問い続けてみせるだろう。
「大聖堂の下には何がある?」
ヨハナは答えなかった。
「地下神殿があるのを知っている。そしてその下で怪しく活動している者がいる事も。インガルとハドゥマは転生者だった。地下神殿の小神殿内に絵筆があった。あれはお前のではないのか?」
ヨハナはデッサンを続けている。
するとミケルの隣に居たローザモンドがミケルの頬に再び手を伸ばして触れた。
「熱い。落ち着いて。ね、わたしたちは害は及ぼさない。あなたを見たいの」
ミケルはその手をさっきよりも強く振り払うとローザモンドは驚いた眼でミケルを見た。
「ミケル、落ち着いてくれ。セシルを心配する気持ちは分かる。それでも今は見守る事しか出来ないんだよ」
立ち上がったミケルを2人の女性が見ていた。
どんなものでも今のミケルを止められなかっただろう。
人間であれば悲しみを抱いていたに違いないがミケルにはそんな感情は分からない。ヨハナとローザモンドはミケルのそのやり場のない感情を悲しみと知って慰めていたのだった。
だが、そんな慰めはいらない。
もうどんな慰めでも癒されないほど傷ついているのだ。
ローザモンドがミケルの手を握った。そしてゆっくりと立ち上がると彼を後ろから抱きしめた。
ローザモンドの大人の女性の抱擁はミケルにどんな感慨も与えなかった。
それを振り払うとミケルはアトリエを出て行った。
外へと駆け出していく。今すぐにセシルに会って話がしたかった。
ヨハナの家の敷地を出るとそこでレーアが待っていた。
ミケルはレーアに抱き着いた。どんな気の迷いかしれないがとにかく彼はレーアに抱き着いていた。レーアも彼を受け止めて抱きしめ返した。
抱擁が彼らを包んでいる。




