第53章 狩人の勘
ウィノラは機会を窺っていた。
彼女が盗み出したクロイン派の教典[獣の教典]はクロイン派の神父が獣化について調べたものだった。
それは街の外の者にかなり高額で売れる“商品”となった。クロイン派の獣の信仰はかなり古い。スキルとして獣化のスキルを有する者はいつの時代にも存在する。そうした者が集められて研究された。ある説では人間の肉体から獣の肉体へと移行する時に体組織が変化する。変化するのなら獣化のスキルは魂に宿るのではないかという仮説を立てた者があった。この仮説を立てたのが現クロイン派のアンゼル神父の一族だと言われている。それ以来、彼の一族は代々神職に就いた。
この宗派の中で最も古いのがこのクロイン派だった。そのためにクロイン派の信仰の歴史とも言われ、スキルの魂と肉体の保有の研究書として有名となったのがこの[獣の教典]だったのである。
ウィノラはそれが高額で取引されるという情報をどこかから聞き出した。それはたまたま街に訪れた行商人の他愛のない話からだったかもしれない。宿屋で働いていた彼女にはこうした話がよく耳に入る。
飢えと渇きと、この街からおさらばする良い足がかりになると彼女は思った。教典を盗み出す事が宗教への、この街への復讐となりながら飛び出す機会になると考えるともはや道は決行しか残されていなかった。
協力者はいない。彼女は独自に調べ上げて計画を立てた。生まれた時から彼女はひとりだった。両親の顔は知らない。育ったのはヴィルヘルム派の孤児院でいつも腹を空かせていた思い出しかない。
その[獣の教典]はどうやら裁判所の方に証拠品として提出されているらしい。
セシルが裁判にかけられる事になったが少しも良心は痛まなかった。あの外からやって来た見るからに飢えも渇きも知らない、困れば誰かに手を差し伸べてもらえそうな整った容貌をしたセシルが気に入らなかったのだ。
「わたしは差し伸べない、むしろ突き落としてやる、堕ちるところまで堕ちやがれ」
そんな風にしてウィノラは思っていた。
教会へ行って祝福を受けるわけにはいかなかった。下手に近づけば彼女が逮捕されてしまうかもしれない。
裁判所の近くに潜んで機会を窺っていた。準備はそれなりに行っている。裁判所に勤める男に酒を飲ませて情報を入手した。[獣の教典]は物が物だけに重要物品として安置されているらしい。
場所も、管理方法も、警備の数も調べ上げていた。
あとはウィノラ自身の事だけ。
ウィノラの身体の調子は良かった。ミケルに治療してもらってからかなり良い。スキルも有効利用する。
ウィノラの【狩人の勘】は視界が悪くなると身体能力と五感が上昇する。
意図的に悪くさせてもそれは発動した。だからこそ彼女は仮面を嵌めて中へと侵入するつもりでいる。
夜になった。
裁判所から人が出て行く。ウィノラは仮面を嵌めた。老爺の仮面だった。恐ろしいような笑っているかのような仮面は市場で安く売っていた。
「行くよ、油断するな」
自分に言い聞かせるようにウィノラは呟いた。
[獣の教典]まではすんなりと行く事が出来た。警備員の巡回ルートは把握している。
懐に入れていた教典を覆う布を手に取った。それを広げようと端を持つ。
ばさりと広げて教典を手に取ろうとした時に狭い部屋に気配を感じた。
背後に人が居る。
ウィノラはゆっくりと息を吸った。弁解をする。そして隙があれば逃げるか、それとも打ちのめす。
振り向くとウィノラの調べには上っていなかった女が立っていた。
「こんばんは、良い夜ね」
ウィノラは仮面のままで話しかけた。
「ええ、良い夜ね」
月が出ていて風が吹いている。
良い夜かもしれなかった。街は人であふれている。人々が酒を飲んでいる。中には路上に寝転がっている者までいる始末だった。要するに盗人が出ても不思議ではない夜であり、死体がひとつ出来上がっても異常ではない夜だった。
女は隙だらけだった。だが、異様な雰囲気をまとっている。手を出せばただでは済まないだろう。白い布を身体に巻き付けていた。胸から下はその白い布で覆われているがどうやらその下には何も着ていないらしい。
ウィノラは逃げの一手を選択するしかなかった。
「それじゃあ、わたしはここで」
そう言って外へ出て行こうとする。
「ええ、またどこかで会いましょう」
女がウィノラを見送った。
部屋の扉を開けて外へ出るとウィノラは立ち止まってしまった。異常な光景が広がっていた。彼女がこの部屋に入る前に歩いた通路ではなかったし、裁判所の中でもなかった。
ぐにゃりと曲がった柱、歪んだ壁、屋内に居たはずなのに彼女が立っていたのは陽の光が降り注ぐ外だった。触れてみてもそれは彼女が知る壁の質感で硬かった。
「なにこれ?」
振り返るとそこには彼女が出て来た扉があった。部屋の扉だ。間違いない。この中に[獣の教典]と白い布をまとった女がいる。
中に入るのは恐ろしかった。だが、この先へ進むのもまた怖い。恐怖と恐怖に挟まれてウィノラは逃げる場所も分からないまま扉のドアノブをしがみつくように握った。
ぐいと引いて扉を開けると灯りのついていない真っ暗の部屋の中に彼女は飛び込んだ。
暗闇の中へと呑み込まれながら彼女は飛び込んだことを後悔した。
どうして真っ暗なのだろう。あの女はどこへ行ったのだろう。教典はどこへ行ったのだろう。
そして部屋に入った右半身にまとわりつくべとりとした感覚はなんなのだろう。