第51章 演奏の終わり
クレイの考えは当たっていた。
ハドゥマの演奏が最高潮を迎えた瞬間にクレイの高音をかき消す怒涛の勢いで低音が響いた。地の底からやって来る音楽で身体の芯から震えていた。
そして精神世界へと連れ込まれると曲は終わった。最後まで演奏したハドゥマは達成感と適度な疲労感に酔いしれて恍惚な表情を浮かべていた。
額の汗を拭い、彼は戦闘の行われていた地下神殿の惨状を初めて見るのだった。
精神世界の球体の中へと囚われた者たちの抜け殻をハドゥマは念入りに見た。全員が囚われた者がそうなるように虚空を凝視している。
ハドゥマは笑った。勝ち誇った笑いだった。
「他の者は適当に処分しよう。それにしてもこの黒狼は興味深い。あれはなんだったのだろう。インガルに売れば高値が付くな、貸しも作れるかもしれない」
そして勝利を確信すると共に高らかに笑った。
現実世界でハドゥマが勝利を確信している頃、黒狼たちはこの世界の事を把握しつつあった。
そこはミケルや黒狼たちが誕生したあの空間に似ていたが別の物だった。完全に閉ざされていて人間世界とは隔絶されていた。並の者なら一生を、囚われた魂が尽き果てるまでここで過ごす事になるに違いなかった。
だが、並の者ではない魂がここにある。
黒狼たちは分離していた。精神世界であるために魂が肉体から解き放たれて形を造る必要がなかったのだがあまりにも数が多すぎた。
「なにこれ、どういうこと?」
クレイが精神世界の様子を尋ねるよりも目の前にいる無数の人々の事を尋ねた。
コードは答えない。
『生ぬるい』
『こんなところすぐに出よう』
『ハドゥマは転生者に違いない』
『ここは精神世界なのか?』
『そうだろう。我らが分離している』
『ならば我らの誕生したあの場所も精神世界に準ずる場所となる』
『分かり切った事だ。ここから出よう。我らにとってここは長居するべきところではない』
黒狼と共に長くクレイと一緒にいた3人の女たちの内の1人の少女が戸惑うクレイの傍へと寄って優しいぎこちない微笑みを向けた。安心させるつもりであったがクレイの方が少女を励ましていた。
「何が起こってるんだろ。大丈夫だよ、ね?」
すると、黒狼たちは寄り集まった。少女も呼ばれて駆けつける。魂の境界線は揺らぎ、合わさってひとつの巨大な塊となった。
クレイは黒狼の様子を夢でも見ているかのような表情で見ていた。
コードは穴が開くほど見つめている。
『行くぞ』
黒狼の姿で全身に力を込めた。背を丸め、頭が下がる。総毛が逆立つとぶるぶると震えた。
そして黒狼は渾身の力でその空間へと体当たりした。
精神世界内で凄まじい音が轟いた。それは現実世界でもそうであったろう。
ガラスが割れたようなヒビが入った。精神世界を作っていた欠片がはらりと落ちていく。
再び黒狼が体当たりをする。轟音が鳴ると精神世界は脆くも崩れ始める。
黒狼は僅かに開いたヒビに爪をねじ込んでそれを広げていく。耳をつんざく音が鳴った。精神世界が壊れる瞬間、音に酔いしれた世界、音で作られた世界が崩れる時にはその音楽が一斉に鳴り始める。
「バカな………」
ハドゥマが信じられないものでも見るように恐怖と驚愕に後退った。
爪でこじ開けられていくヒビに前脚をねじ込み、肩を入れていく。すると、がしがしと音を出して頭を外へと出した。
黒狼が唸る。身体の半分が現実世界に入り、もう半分は精神世界に残っていた。だが、出来上がったヒビを中心に崩れるのも時間の問題だろう。今にもハドゥマに喰いかかりそうになっている黒狼を止めているのはこの世界の狭間だった。
ハドゥマは慌てていた。何をどうしたら良いのか分かっていない。なにせ精神世界が破られる事など初めての事なのだ。コントラバスを再び手に取って弓を弦へと当てがった。座らずに立ったままで演奏をしようとする。
黒狼はすでに両腕を現実世界の方へと抜け出していた。前へ前へと突き進もうとする。頭を振り、毛を逆立ててハドゥマへと迫っている。がりがりと爪が地下神殿内の床を削った。
そしてハドゥマが再び音を鳴らしたその時にヒビは球体の天頂部まで伸びて真っ二つに割れて消えて行った。
解放された黒狼は目にも止まらぬ速さでハドゥマへと迫り、鋭い牙の覗く大きな口で彼を呑み込んだ。
『ここはどこだ?』
『我らの生まれた場所』
『幾度となく答えて来た。その問いに』
『お前の作った世界とはわけが違う。完全なる世界』
『お前は転生者か?』
問わずとも分かり切った事だった。ここは魂が現れる場所。
魂と肉体の合致はそれぞれが形を補い合う。魂は肉体の形を装うし、肉体も魂の形を装う。
目の前にいる男は確かにハドゥマの肉体に入っていた男だが魂の形はハドゥマの形を取っていなかった。
『ああ、私は転生者だ。山添修二というものです』
無数の黒い魂たちが山添修二を囲んでいる。憎しみの炎に燃え立って。
『助けてくれ。命だけはどうか。私もこの中で過ごしたっていい』
命乞いをする山添修二を彼らは見下ろしていた。
だが、そんな余地はない。この空間に山添修二の入る余地などないのだ。
『お前たちを探し出すのに苦労した。インガルも転生者だと分かっている』
『そ、そうか。彼も』
『ここで、この宗教で何をするつもりだったんだ?』
山添修二は少しの間だけ沈黙したが顔を上げると勢いよく話し始めた。
『世界を手に入れるつもりだったんだ。世界征服が夢だった。私が王となるのだ。気に入らない奴は向こう側へ送ってしまえばいい。そして世界を見るんだ』
『くだらん』
『そうだなあ。だが、お前のその力があれば容易だぞ。私と手を組もう。お前に世界の半分をやる。その半分が私の物だ。悪い取引じゃないはずだ。計画は出来ているんだ。あとは実行するだけ。お前がいればだいぶ前倒しに出来るぞ。私と、手を組もう!』
最も近くにいた者の足元に近づいて山添修二は言った。
『生憎だが我らの手はすべて塞がっている。貴様と組む手は余っていない』
そして山添修二の魂を圧し潰していく。
同時にひとつの魂が消え去った。【魔弦の奏者】を持ってひとつの魂が去った。見送る時、彼らはとても敬虔な気持ちになっていた。
【統率者】と【仮想機械】というスキルが黒狼の中に残っていた。
あとには黒狼たちだけが残っていた。
まだまだ転生者を探さねばならない。旅は長い。終わりは無いように思われた。
音楽が流れ始めた。
クレイがヴァイオリンを鳴らしている。それはゆったりとしたバラードでみんな聴き入った。
「あなたはまだ転生者を追うのでしょう?」
コードが尋ねる。
黒狼は頷いた。
「私も調べてみようと思います。もし信仰を忘れている者たちなら粛清しなければいけませんから」
コードが抱いたこれからの気持ちに黒狼は応えなかった。それは人間の事だった。
だが、そんな事は今はどうでも良かった。耳障りなものばかりが聞こえる現実世界でこの奏でられる音だけは今、間違いなく黒狼たちを癒していた。
どうして弾いているのかとクレイに尋ねれば彼女はこう答えるだろう。
「みんなに聴いてほしかったから」と。