第45章 あの場所に似ている
襲い掛かった黒狼はハドゥマの首へめがけて咬みつこうと跳び上がった。
牙がハドゥマの首へ、押し倒そうと前に出された前足がハドゥマの肩へと触れる前に黒狼は別のところへと連れていかれていた。
跳び上がっていたはずがいつの間にか地面の上に立っている。
漂うような感覚に襲われているが不思議な違和感をより強く感じていた。
何もない空間だった。色さえも分からない。黒いような白いようなその中間のような。それでいて暗くもなく明るくもない。
黒狼は目の前に立ち現れたハドゥマを見た。敵意をぶつけて唸った。自分の行動がすんなりと行き過ぎている。違和感の正体はこれだった。何か引き止めるような鎖で縛るようなものが掻き消えている。得も言われぬ解放感に心地よささえ感じて唸りは喜びの遠吠えへと変わった。
その遠吠えを聞く4人の人間が黒狼の後ろに立っていた。女が3人と男が1人いる。年齢は様々だった。
この事態をほとんど全員が受け入れられていない様子だった。
ここで最も当惑していたのがハドゥマだった。黒狼へ向かってスキル【魔弦の奏者】を使って精神世界へと誘ったのだがやって来たのは4人と1匹。
驚愕して手が止まっているがハドゥマの方が我に返るのが速かった。やる事は変わらない。
「出てきなさい、しもべたち!」
すると、甲冑に身を包んだ兵士たちがどこからともなく現れた。
剣を構える。すると、敵意をむき出しにして襲い掛かって来た。
黒狼は剣の一撃を避けた。
人間たちもなんとかそれを避けたのだが事態の把握は未だに出来ていない。
『これはどういう事だ?』
『似ています。我々が居た場所と』
『精神世界でしょう。きっとあの男のスキルです』
『ヴァイオリンがその手段というわけか』
『精神攻撃手段は持っていない。【幽霊の手】が必要だ』
『同感。あれならどうにかなるだろう』
『だが、我らは持っていない。譲り受けて来る必要があるな』
『外に出る方法を考えよう』
人間たちはそれぞれ頷き合った。
燻って燃える炎を感じる。力が漲っていく。
兵士たちはハドゥマの指示に従って攻撃を仕掛け続けたが【憤怒の炎】で
全ての能力値が大幅に向上しているそれらには対処するのに苦にならなかった。
ハドゥマは油断なくこの場での防御を固め、攻撃の手を緩めない。
黒狼が防御と攻撃の隙間を縫ってハドゥマへと迫っていく。ここで唯一、敏捷性が突出していたのはこの黒狼だったし、攻撃手段を持っているのもこの黒狼だった。他の人間たちは脱出方法を考える者と防御に徹しつつ黒狼を補助する者に瞬間的に役割分担した。
その頃、外界ではクレイが目を覚ましていた。
精神攻撃に対していくらか抵抗があり、音楽を知っていたが故の耐性だった。
コードはまだ目覚めていない。
よろよろと不安定に立ち上がると彼女はハドゥマとそれに対峙する様にじっと動かない黒狼を見た。
ハドゥマは眼を閉じて演奏を続けている。クレイは不味いと思った。彼女も演奏するので理解できる事だがどんな楽器を扱う奏者でも1曲が最初から最後まで弾ける時には達成感と幸福感に満たされる。その影響がないとは言い切れなかった。同じ演奏者として1曲を終わらせる事はどんな事をしてでも阻まなければならないと彼女は直感した。
音には音をぶつければよい。クレイは自分の持ってきたヴァイオリンを取り出そうと急いだ。ハドゥマはクレイも知っている有名な曲を演奏している。それほど長くない曲を演奏している。
頭が痛い。吐き気もする。だが、今すぐに黒狼を助けなければならない。ハドゥマの音楽に囚われてしまっている。
クレイは高音で奏でられる音楽の中へ低音を掻き鳴らして阻んだ。酷い音だった。調律も何もしていないのだから当然だとクレイは思った。
クレイのスキル【旋律者】が音を増幅させる。効果はたったそれだけ。通常よりも音が大きくなるだけなのだ。
「うっ」
まずコードが目を覚ました。彼もよろめきながら立ち上がって演奏する者たちを交互に見やる。
「これはいったい?」
頭を押さえながら言う彼はまだは思考がはっきりしていないらしい。ほとんど呂律が回っていなかった。
ハドゥマが演奏を速めた。テンポが少し上がり、音が強くなる。
クレイもそれに負けじと鳴らし続けた。
押されているとクレイは思った。ハドゥマの方が明らかに上手だった。スキルも演奏者としての腕も何もかもがクレイの方が劣っている。
「あなたはそのまま演奏を続けてください」
コードが言うと手足を再び赤熱に燃えさせてハドゥマの方へと駆けて行った。その手がハドゥマへかかる直前にコードの膝は折れて転んでしまった。
音の発生源に近づけばより音を強く聴く事になる。
クレイは演奏を続けた。それは曲というよりもより強くより大きく鳴らす事が出来る単音を鳴らすだけだった。
曲が必要だった。思い出すしかない。手の感覚と指先に集中させる。曲に対抗するには曲でしかあり得ない。
クレイは幼いころから最も練習を重ねた曲を絞り出すと途中からその曲の演奏に切り替えた。
スキルを全力で使った。演奏に集中して忘れかけていた曲の楽譜を思い浮かべながらスキルを全力で使うと頭の回路が焼き切れるような熱感を味わった。
曲と曲がぶつかる。
地下神殿の中は増幅された音波と音波が反響し合って凄まじく揺れている。
曲の演奏を始めた時からクレイは眼を閉じていた。頭の中に広がる熱感はますます高熱になっていく。燃えるようだった。眼を閉じると倒れこんでしまうような気がする。それでも無我夢中に演奏を続けた。昔を思い出していた。屋敷の庭の演奏会の楽しさ、パーティーが催されるとホールの端に立って自分の出番を待っていた緊張を。
拮抗が崩れたのはクレイが演奏に完全に集中した時だった。そこが地下神殿であるのを忘れ、目の前に立つハドゥマを忘れ、長い時間を演奏から離れていた時間を忘れて目の前にある聴かせたいものの存在と楽器と曲の知識と自分だけになった時、クレイは完全に曲の演奏に没頭した。
黒狼の吠え声が辺りに響いた。途轍もない轟きだった。雷鳴のごとくそれが響くとハドゥマは演奏を止めた。
「くそ!」
後方へ退く。ハドゥマは階段の方を振り返って見た。逃げる算段を付けようとしていた。
演奏が中断されるとコードも再び我を取り戻していた。
クレイはもう限界だった。頭の中心に感じていた熱は酷くなっている。目の前が点滅するように感じられた。
ふらりと揺れて倒れこむクレイを見るとハドゥマは笑った。勝機があると思ったのだ。
だが、黒狼の方が速かった。
黒狼はコードとクレイを呑み込んで貯水槽のあの水の中へと駆け出した。ざぶんと水の中へ飛び込む音が響くと後にはハドゥマが持っていたヴァイオリンを地面へ叩きつける音が続いた。