第42章 ミヒャエル派の殺人鬼
クレイは走っていた。ぜえぜえと息を荒げて走っていた。彼女は最近になってこうして走る事が増えた事を難儀に思っていた。
彼女が走っていたのは大聖堂を後方に背負ったある街路だった。地下神殿への階段を再び現す仕掛けを彼女は見つけられなかった。
確実な方法はあとひとつ。彼女が抜けたあの貯水槽の水の中を再び潜る事だった。それしかないと彼女は思った。あまり頭の巡りが良い方ではないと自認する彼女は大聖堂の部屋の中で仕掛けを探すために四苦八苦する事が苦痛でならなかった。それなのに小一時間もそうしていられたのは黒狼を助け出したいという一心だった。
今度は1人で行く事になる。行けるかどうか分からない。だが、行かなくては黒狼に会えないのだ。そうと思うと彼女の行動は迅速だった。
ようやく自宅に辿り着いた。が、中に駆け込む事は出来なかった。クレイの自宅がある建物の前に数人の男がいる。同じ背格好の男たち。寄り集まらないで点々と離れているのを見るとクレイはその男たちがミヒャエル派の連中だと判断した。
どうして自分の家の建物の前に彼らがいるのか理解できなかったがすると荒かった息の乱れが整ってきてそのリズミカルな調子がクレイに閃きを与えた。
「そっか、アクセルのシャツを落としちゃったんだ」
アクセルのあのシャツはクレイの実家のある街で取引されている高価な代物だった。クレイはアクセルにそれを着て欲しくてプレゼントしたのだが着たのは数回だけだった。だが、その数回でも着たアクセルを見られただけで満足している。
そうした繋がりでアクセルからクレイへと消息を辿っているのだ。
「でも、私だって見つかったわけじゃないよね」
クレイはぼそりと呟いた。彼女の足元には無言で佇む黒い影があるように思えてそれに語り掛けているのだった。返事はもちろんない。なくても良いのだ。返事なんてもらえる事は極まれでそんな事には慣れている。
この建物は正面玄関の他には裏に小さな出入り口がある。そっちへ回るとそこにはミヒャエル派の連中はいなかった。
中へ入ってもクレイは警戒を解かなかった。クレイの部屋は3階にある。階段を上ってゆくのにもかなり慎重だった。
上階から物音はしなかった。3階は全てクレイの住居なので2階に上がった時に上から音がしたならもう引き返すしかない。それだったのだが2階にすらも物音が聞こえない。
無人の建物のように思えてクレイは不気味に思った。
幸いな事にアクセルのシャツを落としていたクレイは自宅の鍵までは落としていなかったらしい。仮に落としていたとしても予備の鍵を玄関の近くに隠しているので大丈夫なのだが。
自宅の前にも人影はない。クレイは鍵を開けて中へ入った。
物音ひとつしない殺風景な部屋の中は突然、色あせてしまったかのようにクレイには見えた。家の中の雰囲気が彼女の知っているものではなくなっている。
誰かが入ったに違いない。そしてその誰かはミヒャエル派の連中だろう。調べたんだ。この家を調べたんだ。
クレイは強い恐怖心を抱くと持ち出す荷物の事を考え始めた。時間はあまりない。黒狼にとっても、クレイにとっても時間は少ないのだ。
リュックを引っ掴んでその中にあるだけの現金を詰め込んだ。彼女の所有物である指輪やイヤリングなどの金品も持ち出す。もし困ったらこれを売って金にするのだ。この街へ来た時よりも少なくなっているのはアクセルが持ち出して売ったからだろう。
金と武器と食料、そしてヴァイオリンの入ったケースを取り出した。持っていこうと彼女は思った。聴かせたい相手がいる。久しぶりに弾いて音色で気を惹きたい。もしかしたら寄って来てくれるかもしれない。音楽は言葉を超えて想いを伝えてくれるだろうから。
リュックを背負ってヴァイオリンの入ったケースを抱えるとクレイは家の外へ出た。鍵を閉める必要もなければ扉を閉める必要もない。彼女はもうここへ戻って来るつもりはなかった。
彼女の頭の中にはある光景が見えていた。あの黒狼と草原をゆっくりと歩いている光景、彼女が弾き始めたヴァイオリンの音を寝そべって聴いている黒狼がいるある部屋の光景など様々な瞬間の1ページがやって来る。そこにアクセルはいなかった。
階段をゆっくりと降りていく。裏口の扉をそっと開けて外を覗くとそこにはミヒャエル派のあの殺人鬼が立っていた。
「やれやれ、裏口を見ていないとは思いませんでしたよ」
クレイは急いで扉を閉めた。
1階の正面と裏口の鍵はスライド式の簡易的な鍵しかないので心もとなくそれをかけた。
「私はミヒャエル派の教徒であるコードと申します。すこしだけお話がしたいだけなんです。お願いできませんか?」
クレイは返事をせずに階段を駆け上った。
今度はどたどたと音を鳴らしていく。正面玄関の前にはミヒャエル派の教徒たち、裏口の前にはあの殺人鬼がいる。
最上階の3階の窓からクレイは身をよじって外へ出た。正面玄関のある街路の方を見るとミヒャエル派の教徒たちがいるのが見える。クレイの方を見ていない。
どうやら屋根の上に出た事はまだ気づかれていない。それでもゆっくりとしては居られない。階下でどたばたと音がする。殺人鬼が上って来ているに違いない。
屋根の上に出たクレイは下りられる場所を探しながら走り始めた。