第41章 4派閥
演奏が終わるとミケルはセシルと別れた。
もう既に時刻は遅くなっていた。教徒たちは演奏者たちに拍手を送り続けている。
「もう日が沈んじゃったね」
セシルの長い金髪が風に揺れている。その風はいささか冷たすぎた。人々を早く家路につかせようとする魔力が秘められているかのように思われるほど。
「送るよ」
ミケルが言った。セシルはこくんと頷いた。
彼女の家の前までやって来るとセシルはミケルを真っすぐに見て尋ねた。
「今日は楽しかった?」
ミケルは頷きながら「ああ」と答えた。楽しかったかどうかは分からなかった。ただひとつだけ言えるのはいつもよりも転生者について考える事はとても少なくなっていてほとんどずっとセシルの事を考えていた1日だったという事だけ。
考えていたのはセシルの事だけ。長い金髪が揺れている。美しい均整のとれた顔立ち、すらりと伸びた手足、そしてミケルを見る蒼い瞳を。
もっと何か尋ねる事が、あるいは今日、話し続けていたセシルはその群れのような言葉の中に本当に言うべきだった事を今から探すように不安げで立っている。
ミケルはそんな彼女を見て少しだけ優しい気持ちになった。
「私、しっかりと考えておくからね。ミケルの名前を。立派な名前を考えるから」
その言葉を聞いてミケルは安心したようにこっくりと頷いた。
「聞ける時が楽しみだよ」
そう言って「それじゃ、また」と繋げるとミケルはセシルの傍を去った。
歩き始めてセシルの姿がだいぶ小さくなっただろうと思われた頃になってもミケルはセシルがまだ玄関先に立っている気がした。というのも家の中へ入る音が聞こえなかったからだった。
振り返る事は出来ない。もしも振り返ってしまったらミケルは彼女の傍へと行ってしまうからだった。そして彼女もそれを受け入れてくれるだろう。
ミケルは歩いていく。彼の傍を誰かが歩いていた。近くにあった扉を開けてその中へ入るとうつろな目をして歩く少年を見ながらいたずらっぽく微笑んでばたんと扉を閉めてしまった。
それからはいくつもいくつも扉を開け閉めする音と人々の足音、話し声を耳にしたがたったひとつの音だけは未だに彼の耳には届かなかった。
そうした音を自ら鳴らすとは思わなかった。
ミケルは無賃宿で借りた502号室に帰って来て扉を開けて中に入るとそれを閉めた。
家という気持ちは全く起きない。そもそも家などという感覚を抱いた事すらなかった。
ミケルは再び外へ出た。家を求めていた。ここのどこかに自分に相応しい家があるのではないかと思えた。
真向いの家を覗き込むと同じ年恰好の少年と少女が食事をとっているところが見えた。ずいぶん楽しそうだった。
その少年の姿と自分の姿を重ねてそうと振舞えそうな場所を思い浮かべてみるとその場所はたったひとつしかない。だが、彼は今、そこから帰って来たばかりなのだった。
ミケルはその少年が食事を終えてどこか行ってしまうまで様子を見ていた。
窓際から離れるとミケルは背後の漠然とした不安感に襲われて左右も分からなくなるほど取り乱しそうになっていた。あと少しでもあの劇薬に触れていたら気が狂っていただろうとミケルは思った。
とにかく彼は僅かに残った判断力で歩き始めた。どこへと尋ねられたら答えるのは難しい。というのも角を見つけては曲がり、通路を見つけては直進していたからである。まるで通路にそうするべきだ言われてそのまま従っているようだった。
段々と頭がはっきりしてくるとミケルはいよいよインガルを探さねばならないという目標を確かめた。
インガルの行方は依然として知れなかった。今や彼には多くの協力者がいる。それらを使ってもいいし、それらに尋ねても良いだろう。
ミケルは少年の姿のまま行動した。青年の姿でインガルの元へと向かっていたし、少しだけあの姿で暴れすぎていた。
それから夜が明けて太陽が天頂までのレールを鈍行列車さながらの速度で上ってゆくと気温は程よく高まった。
驚くことにミケルは探し続けたインガルの姿も話しすらも聞かなかった。ルイーゼ派の誰それだとか診療所がどうのこうのというインガルとミケルの争いの事を話題に挙げる者はいるにはいたがそれからインガルの話になると途端に興味を失ったように話題は逸れた。
そうして困ったのはミケルだった。途中で見つけたレーアを捕まえると彼は無賃宿の自室に連れ込んで尋ねた。
「この街の宗教について詳しく教えてくれ」
敵を、敵の全貌を知る時が来たのだ。レーアは転生者について噂を集めていた途中にウィノラの例の本の事も調べていたらしい。
そういえばセシルにその本の事を尋ねたなとミケルは思ったが口にしなかった。
「うん。宗教の何について知りたいの?」
「なんでもいい。レーアの知っている事を教えてくれ」
「分かった」
そしてレーアは語り始めた。
神の名は≪エボティタス・アボゥル・デモニナス≫。
ある地方にある≪常闇の森・アボゥザ≫に落ちたひとつの卵の話。
その卵から孵ったのは神だった事。その神が人を導き、魔獣を従えて世界のどこかに国を興した事。
今はその国は海に沈んだと言われているが伝説はたくさん残っている。壁画や彫刻、文書などで残されている。
その神の姿から受け取る物事によって信仰の形が定まった。
教義・体験・儀礼・教団である。
教義はミヒャエル派・体験はルイーゼ派・儀礼はクロイン派・教団はヴィルヘルム派と別れている。
この他にもいくつか派閥はあるがどれも力は弱く影響力はない。
この街は大聖堂を中心に東西南北に区分けされて明確には決まっていないがそれぞれの派閥が東西南北の要所に教会を作っている。
「転生者がいるとしたらその派閥の中の上層部にいると思う」
ミケルはこくりと頷いた。
「わたしたちは主にルイーゼ派の地域しか調べていないからもっと手広くしたら違う情報も得られるかもしれないけれどかなり手間がかかる」
「それぞれの派閥に繋がり、交流はあるのか?」
「交流と言われると難しいな。だって、結局はみんなひとつの信仰を持ってるわけだから。おのずと交流は持つことになる」
「強いて言えばというぐらいでいい」
「それならミヒャエル派は完全に交流を断っている。あそこは独力での行動で人を超えて精神も肉体も神へと近づく事を教義としているから。でも、繋がりというならヴィルヘルム派が中心に繋がるかもしれない」
「なぜだ?」
「教徒の数がヴィルヘルム派が最も多いからだよ。ヴィルヘルム派の教義はね、神への信仰心を持つ事だけなの。だから、他の宗派の掲げる教義に賛同できない人たちが集まるところと言えるの。中にはそこで長い時間を過ごしてから教義を見出して独自の教義を唱えたり、既にある派閥に入ったりするの」
「確かカーティスはヴィルヘルム派だったな?」
「うん、そうだね。ヴィルヘルム派は信仰を持つ事が教義になるんだけどその代わり教団として特徴はとても強いの。派の中で一番信仰や宗教を守ろうとする想いが強いのはここかもしれない」
ミケルはヴィルヘルム派を調べてみようと思った。
それからもレーアにいくつかの質問をしてからレーアの報告を聞いた。彼女の報告はどれもミケルにとっては新しい情報には感じられなかった。
「外に出よう」
ミケルが言うとレーアは頷いた。
「作戦はあるの?」
なかった。今のところはヴィルヘルム派を調べる程度にしか次の行動案はない。
「とりあえずはヴィルヘルム派を調べる事からだ」
「そう。わたしはどうしたらいいだろ?」
ミケルは答えかねた。これ以上に調べさせても今回受け取った報告よりも有益な情報が出るとも思えなかった。
それならヴィルヘルム派の調査に同行させた方が良いという考えが浮かんだ。
何より今のミケルは少年の姿だ。話を聞き出し辛いかもしれない。
レーアに自分に同行するように提案しようと口を開けた時にレーアの頭の向こう側に小さな影が見えた。
それは大慌てで走ってくるウィノラだった。朗報があるという表情ではない。
ウィノラがやって来ると乱れた息を整える暇すらも惜しんだ彼女はミケルに勢い込んで言った。
「セシルが捕まった!!!」