第40章 ご飯を食べてる時がいちばん幸せ
朝だった。爽快な朝に多くの人々が「さあ、今日も1日頑張ろう!」と思って家を出て行く。
ミケルはセシルとそんな朝の連中の中を歩いていた。
ほとんど初めてと言えるぐらいに無賃宿に泊まったミケルはそこでどうしたら良いものか分からないままただ時が過ぎて行くのを待っていた。
一刻がこれだけ長く感じたのは初めてだったかもしれない。
こうして隣を歩いているのが不思議でならない。彼女は今、どこを見ているのだろう。
ミケルはそうした心境を抱きながら歩いている。気にはなるが確かめはしない。確かめたいという気持ちがあるにはあるがそれよりも勝るのは名付けの事や転生者の事、そして例の本について尋ねたかった。
それだったのだがミケルは尋ねられなかった。怒涛の勢いでセシルが話をしていたからだった。彼女は様々な話をした。この街に来た理由、実家の村での可笑しな事件、自宅での困った出来事、果てには道をとぼとぼと歩いていた鳩が飛び立つのを見ると「見た?」などと聞く。
「見たよ」とミケルが答えるとセシルは嬉しくなって微笑むのだった。
この微笑みを見ているとミケルは自分が分からなくなる。昨晩にミケルは打ち明けた。自分たちの成り立ちと生い立ちを。
それが全てウソのように思えてしまう。自分もまたミケルというひとりの男性であり、ひとりの女性に面した男なのではないかと思ってしまうのだった。
市場を巡り、果物を買った。彼女はリンゴをかじりながら街を歩いた。小さな口でそれを食べる様子をミケルは見ていた。ずいぶんと美味しそうに食べる。ふとミケルはあの日、彼女の村で食べたスープやその後にミケルという転生者の父母が食べていたあのサンドイッチの事を思い出していた。
ミケルがそんな風にしてリンゴを食べるセシルを見るので彼女は恥ずかしくなって頬を赤らめた。そっぽを向いてかじるようになった。
次に彼女が案内したのは劇場だった。人々がそこに集まってなにやら劇をするらしい。ミケルは馬鹿げた事だと嘲笑ったがセシルの前では笑わなかった。
「私はね、一回だけ見た事があるの。傷ついた王を癒す若い騎士の物語だった。とっても美しかったけれど同じくらい難しかったな」
昼を過ぎて2人はある店へ入った。そこはセシルの良く行く店らしい。
「あーら、セシルちゃん。今日はデート?」
「からかうのはやめて。その、昔からの知り合いだけどここに来たのはごく最近なの。だから案内してるのよ」
「そう、じゃあ、腕によりをかけておもてなししなくちゃね」
そうして出てきた料理をミケルは食べた。味はしない。だが、少しだけ食事を楽しむという気分が理解できた気がする。セシルの表情が喜びに輝いていたからだった。
ミケルはかなり早く食事を終えていた。セシルはゆっくりと食事をしている。
「味わった?」
「ああ、十分にね」
「もー、信じられないなあ。私、まだ半分も食べてないんだよ。おかわりする?」
「いや、いい。それよりもセシルに聞きたい事がある」
「聞きたい事?」
「ああ。教会から持ち出した物の中に本があっただろう?」
「うん。本は何冊か持ち出したよ。でも、私だけじゃなくて他にもたくさんの人が持って行ったからなあ」
「その中の1冊を確かめたい」
「どんな本なの?」
ミケルはあの晩に診療所でインガルが読んでいた本の装丁を思い出そうとしたが良く思い出せなかった。
言葉に詰まったミケルを見て安心させるようにセシルは微笑んだ。
「大丈夫よ。今度、移動した荷物をまとめたところに連れて行ってあげる。そうしたらきっと思い出すだろうから」
「ありがとう」
「それが必要なの?」
「ああ、気になるという程度だが。クロイン派について多少のためになる事が書かれているらしい」
「へー、クロイン派の………」
セシルの食事は驚くほど遅かった。彼女はとてもゆっくりと食事をする女性だった。
ただその食事をしている様子はとても幸福そうだった。尋ねればそうと答えたに違いない。
ミケルは突然、安穏に襲われた気になって恐ろしさを覚えた。何かを失うかもしれないという不安を源にした恐ろしさを彼は初めて持ったかもしれない。命を奪われる恐ろしさは一度も抱いた事がない。手足がなくなる恐ろしさも一度も抱いた事がない。
この安穏を奪われる恐ろしさ、この目の前の美しい少女の幸福を奪われるかもしれない不安が今のミケルにはなによりも恐ろしい事だった。そうと分かった途端にミケルはセシルを巻き込んだ事を後悔した。
だが、もう遅い。そんな事を後悔したところで、そんな恐怖心を抱いたところでどうにもならないし、目的は変わらないのだ。インガルがひとりとは限らない。仲間の転生者を引き連れてやってきたとしても不思議はないのだ。その時にはかなり酷い闘いになるだろう。その覚悟はある。その闘いに身を投じる覚悟は出来ている。だが、人を巻き込む覚悟までは持っていなかった。
守ればいい。そうだとも守ればいいのだ。
「はぁい、ボーイアンドガール」
2人が食事をしていたテーブルに指先を付けて挨拶をした女性にミケルは見覚えがあった。
「ヨハナさん。お久しぶりですね」
セシルが持っていたフォークを置いて立って挨拶をした。
「ええ、セシル。元気だった?」
「はい。ヨハナさんもお元気そうで」
「私はそれが取り柄だから。ぼくも、ひさしぶりね。と言っても昨日の夜にあったぐらいだけれど」
「え、ミケルと知り合いなんですか?」
「知り合いってほどじゃないけれど。ミケルって言うのね」
「私の古い友人なんです」
セシルは少し慌てた口調になってミケルを紹介した。
すると、ヨハナは何かに納得したように頷く。
「美女は美男子を惹きつけるのかなあ」
ヨハナはミケルを見ながら言った。
「美女だなんて。ヨハナさんの方がよっぽどきれいです」
ヨハナはセシルの言葉を聞いて彼女の肩に触れた。そして座るように促す。食事を続けるように勧めると連れの別の女性を見やった後に甘い声でセシルに囁いた。
「セシル、考えてくれた?」
セシルは申し訳なさそうに困った表情を見せる。触れられたくない話題だったらしい。
「ヨハナさん、私には無理ですよ。そんなの私向きじゃないです。きっと別の人の方が良いと思います」
「一度でいいから私の家を訪ねてよ。もてなすよ」
「はい」
「ミケルもね」
ヨハナはにっこりと笑ってミケルたちの傍を離れていった。元の席に座って連れの女と話を始めている。どうやらミケルたちの話をしているらしい。というのも数回ミケルたちの方を見ては指をさして何か言っているからだ。
セシルは決まりが悪そうにコップに入った水を一気に飲むと食事を再開した。
そんなセシルを見ながらミケルは彼女の食事が終わるのを待っていた。少しだけ食べる速度が上がっていた。
食事を終えて店を出るとセシルは大きく息を吐き出した。店の奥に座っているヨハナを見てからミケルを見る。
「ごめんね。ヨハナさんに何度も誘われてるの。ヨハナさんは絵描きなのよ。大聖堂にも絵を提供するほど名のある人でね。私をモデルに絵を描きたいって言ってるのよ。私はそんな柄じゃないって断ってるんだけど」
ミケルはモデルとして描かれたセシルも見てみたいと思った。絵になるだろう。
「大聖堂の方へ行きましょう」
セシルが街の中心部の方を指さして言った。
「今日は演奏会のある日なの。とても素晴らしい音色が聴けるのよ」
2人が大聖堂に着く頃にはかなりの人だかりが出来ていた。
セシルはミケルを引っ張っていく。どうやら彼女は知っている席があるらしい。
大聖堂の外にある西側の階段を登っていく。
そこにある休憩所のような開けた場所は大聖堂と並ぶように立つ事ができる。大聖堂の窓は開いていて中の様子を見る事ができた。そこからは準備に追われた人々の声が聞こえる。
「ここで聴きましょう。人だかりの中で聴くよりも開けた場所でゆっくりと聴いた方が楽しめると思うの」
階段の手すりに腰掛けてミケルはセシルを見た。セシルもミケルを見ている。それから再びセシルが話し始めた。
それから程なくして音楽が聴こえてきた。確かに素晴らしい音だった。
ミケルの目の先にいたコントラバスを弾く男はミヒャエル派のハドゥマだった。