第39章 地上への階段
小神殿の影に隠れてクレイは階段を下りて来るハドゥマを見ていた。黒狼も息をひそめている。飼い主ってわけではなさそうだとクレイは思った。
「何をするためにハドゥマがここに来るんだろう?」
すると、黒狼はゆっくりとハドゥマが中へと入った神殿の方へと近づいて行った。
「止めなよ、止めなって!」
クレイは黒狼を止めようとするが黒狼は聞く耳を持たずに進んでいく。
彼女も音を立てないように黒狼の後を追った。獣の嗅覚や感覚を信じたのであろう。
4つある小神殿の全てに窓はない。中を覗き見る事も出来ない。閉じられている扉を開けるのも危険だろう。
「ミヒャエル派は良くない噂が多いんだ。特にあのハドゥマはすごいカリスマを持ってるって言われてる。私はミヒャエル派の教義が好きじゃない。ミヒャエル派は神を信仰する事で“死”を超えようとしてるんだ。そんなの出来っこないのに」
耳を壁につけて聞き耳を立てる。クレイには厚い壁の向こう側の音は聞こえてこない。黒狼ならもしかしたらと思って様子を見たがピンと来るものがないのか動きはなかった。耳を立ててじっと壁を見ていた。それがなんだかとても可愛らしく思えてクレイは緊張下でありながら頬を緩ませていた。
「“死”を超えるためにミヒャエル派は窮地へ向かうって言われてる。“死”の超え方は人それぞれのやり方なんだ。だからこそミヒャエル派の連中は個人を優先するんだ。いつも不気味だよ、あいつらって。でもね、とんでもない噂があるんだ。ミヒャエル派にマコンっていう男がいた。その男は“死”を超えるために炎の中へ飛び込んだ。その場でそのマコンは死んだ。それなのに次の日には街を歩いてたって言うんだよ」
「ミヒャエル派はゾンビの宗派なんだ」とクレイは付け加えた。彼女がどれだけ不気味な事を言い続けても黒狼にはそれが通じない。やはり壁を見つめて耳をそばだてるだけだった。
クレイは黒狼の背に手を当ててゆっくりと撫でた。彼女はもう黒狼と離れられなくなっていた。
「ここで何をするつもりなんだろう?」
ハドゥマは小神殿内に入ったきり一度も外に出てこない。その小神殿内に何かの用事を済ませているのだ。
「企みを暴こう。もしかしたらあの殺人鬼とハドゥマは繋がっているかもしれない。カーティスたちに協力してもらうんだ。誰かの粗を探すのはアクセルも好きだった。こんな事をしてたら面白そうだって言ってアクセルの方から来るかもしれない」
話しているうちにクレイは明るくなった。楽しくなって喜んですらいる。
「外に出よう。きっとまだハドゥマは出てこない。今がチャンスだよ」
クレイは階段の方を指さして黒狼に言った。黒狼はまだ小神殿内の壁を見ながら耳をピンと立てている。
動こうとしない黒狼を見て彼女は一足先に階段の方へと向かった。地下神殿のある地下と地上を警戒しながら慎重に階段を上ってゆく。少しでも人の気配があるようならすぐにも引き返す準備は出来ている。
一段あがっては地上を窺って、もう一段あがると地下の様子を窺った。黒狼はあの定位置から動いていない。それが安心させてくれる。
階段を上り切った先の部屋は無人だった。部屋はかなり広かった。地下へ向かうために開けられた扉の他に装飾はほとんどなかった。
天井の絵画や壁や柱にある彫刻をクレイは見た。そして厚い壁を通してかなり遠くから聞こえるように耳に届く人々の祈りの言葉や唄。
そこは大聖堂だった。
大聖堂のどこかにある一室だった。
クレイはようやく地上へ出られた達成感に心を満たされて嬉しさのあまりに涙ぐんでいる。
階段を少しだけ下りて黒狼を呼んだ。ちっちと舌を鳴らしたり、手を振ったり、ついには少し声を出して呼びさえしたが黒狼はハドゥマが入った小神殿の壁の傍から離れる気がないらしい。
半ば呆れながらクレイはその動物めいた言葉の通じない頑固さを嘆いた。
出口の先が無人である事に安心したクレイは大胆になって駆け足で階段を下りていく。
黒狼の傍にしゃがみ込むと背中や喉元を撫でながら機嫌をとった。
「地上に出れるんだよ。ね、ほら行こう」
黒狼は動かない。クレイを見ようともしないのだ。まだハドゥマが気になるらしい。
「ここは危ないんだよ。危険なの。あいつは殺人鬼の親玉かもしれないんだよ」
無理やり引っ張って行こうかと考えたが止めにした。
「私、地上に行っちゃうよ?」
尋ねるが黒狼は反応しなかった。勝手に行けと言われているようにクレイは感じた。
クレイは立ち上がって階段の方へと歩いていく。小神殿の方を気にかけながら。もしも今、ハドゥマがそこから出てきたら黒狼はすぐにも私の方へと駆けて来てくれるに違いない。繰り返し黒狼の方を見ていたがついに地上へと出るまであと一歩となった。
最後に見た時にもしもあの壁を見つめたその眼を逸らしてクレイの方を見る事があれば彼女は引き返して傍に留まっただろう。
だが、そうはならなかった。
地上へ出た。空気は地下よりも澄んでいる。
クレイは部屋を出るために扉を開けた。その部屋の扉を開けると長い通路が広がっていた。その通路は整えられている。窓から差し込む日の光が時刻を教えてくれていた。
無人の通路を歩いていく。扉はひとつしかなかった。あの地下神殿へ行くためだけの部屋に繋がる通路を出るとそこにはたくさんの教徒たちが集まっていた。そこに紛れ込むのは簡単だった。
だが、クレイは突然、恐ろしさに襲われた。この中にたくさんのミヒャエル派がいる。殺人鬼がどこかに潜んでいる。
そしてその不安が黒狼への心配へと変わった。ハドゥマに見つかって痛めつけられている様子が頭の中に浮かんでくる。
すると、ごごごごごっと微かな音がした。気を付けていなければ聞こえないような、いや、それの音と知っていなければ聞き取れないような微かな音がクレイの耳に届いた。
地下神殿への扉が閉まったのだ。クレイは強い後悔を抱いていた。
その近くの壁にもたれかかって地下神殿から出て来たクレイが通った扉を見る。そこからハドゥマが出て来るはずだ。
そして彼は出て来た。少しの汚れもない姿で。どうやら黒狼を見つけて痛めつけたような様子はない。それに安心すると姿が見えなくなるまで待った。
クレイは黒狼が心配でならない。やっぱり無理やりにでも連れて来るのだったと後悔している。
地下神殿へと繋がる部屋へと再び向かった。当然ながら階段は消えていた。黒狼も見る事は叶わない。
部屋の中央には台がある。そこには1冊の本が置かれていた。クレイはそれを持ち上げてみるがそれはこの宗教の神の偉業をまとめた書物だった。
仕掛けがあるに違いないとクレイは思ったがどんな仕掛けか分からない。だが、行く方法は確実にあるのだ。そして絶対に行かなければならない。黒狼はクレイを助けてくれた。だからこそ自分もまた黒狼を助けなくちゃならないとクレイは思った。




