第35章 名もなき獣の決断
ミケルは立ち尽くしていた。崩落した診療所内でミケルは茫然としていた
助力に現れた同胞たちは一体となっている。
教会の堂内で治療を受けていた者たちは助け合って建物の外へと退避していた。ほとんどの壁や屋根が崩落して教会の様子は見る影もない。
その中でミケルは力なく立ち尽くしている。彼は無気力に立ったままでいた。崩落した屋根の端がミケルの身体をかすめて落ちていった。地面に衝突した時にはいくつかの破片を彼にぶつけたが気にも留めない。
騒ぎを聞きつけた人々が集まり始めていた。人々は宗派を超えて負傷者の保護に努める。様子を聞く声や何が起こったのかを尋ねる声がミケルの耳に届くと彼はようやく我に返ってそこを出て行った。
当てのない歩みが再び始まった。といってももう疲れ果てたようになっているミケルは見つけた広場の中心にある噴水の傍にあったベンチに座り込んだ。
インガルとの闘いの間に彼は考え続けていた。人間と獣。
インガルは半人半獣と言って去った。その言葉がミケルの心に引っかかっている。
『我らはなんだ?』
繰り返してきた自問自答。先ほどにも獣だと言い聞かせて闘ったのに彼らは再び心の中をさ迷っていた。
『我らはなんだ??』
答えは出ない。
『獣になるのは容易い。なぜならああして獣だと言い聞かせるだけで我らは獣になる事が出来るのだから』
『なら、人間になる事は?』
『困難だ。我々は人間を分かっていない』
『人間とはなんだ?』
『2つの手と足を持つ動物』
『思考する動物』
『感情を持つ動物』
『それぞれに名を持つ生命』
ミケルは震えている。それは哀しみだった。
名がない哀しみ。独立して生まれたがゆえに名もなき命だった。
『名があるが故に我らは人間にこだわっているのかもしれない』
『ミケルという名を捨てる時だ。それは我らの名ではない。かりそめの
『ミケルという名を捨てる時だ。ミケルという名は我らの名前ではない。あの転生者の名だ。我らは今こそ選択しなければならない』
『我らはこれより先にどのように生きるのだ?』
『どのようにとは?』
『獣で生きるのか、それとも人間として生きるのか?』
沈黙があった。誰も答えなかった。この身体の中には無数の魂がある。魔獣の魂もあれば人間の魂もある。
『我らは、人間として生きよう』
弱々しい声でその声は響いた。
『我らは人間を志向しよう。人間らしく生きよう。身体は違えども我らの魂の形は人間だ。だが、獣も忘れてはならない。なぜなら我らの中には獣の魂もあるのだから。そしてこれらの共存を目指せるのは人間だけだ』
『ならば新たな名を持とう』
『ミケルという名を捨てて新たな旅立ちをするのだ』
『だが、どうやって新たな名を持つ?』
『それについては考えがある』
『あの娘だ』
『セシルに我らの名前を付けてもらおう。我らを知る者、我らのために祈った娘に』
名付けは繋がりを生む。とても強固で密接な繋がりを。
結論を出した途端にミケルたちの身体には力が再び漲って来た。
そして立ち上がった瞬間に目の前にいるレーアに気がついた。
「びっくりした。急に立ち上がるから」
短い悲鳴をレーアは上げた。驚いたのは本当の事だろう。
「ここで何をしている?」
「教会の方で酷い音がするから気になって。セシルは教会に戻っていくし、それに引き留めるのも限界があったから。それであれはミケルがしたの?」
捨てたはずの名を呼ばれる事にミケルは酷い抵抗を覚えた。
「そうだ。インガルはやはり転生者だった。前世の記憶と3つのスキルを保有していた。レーア、この街には、いやこの宗教は転生者を隠す覆いだ。その覆いの下で転生者たちは固い握手をしているんだ。他にも確実にいる。俺はインガルを探す。お前も他の転生者の情報を探してくれ」
「インガル神父が転生者?」
「そうだ。お前たちに行っていたというあの治療は治療なんかじゃない。精神操作だ。俺の見たところではインガルのスキルはその【精神操作】・【何らかの超能力】・【化け物に姿を変える】の3つだ。そして前世でも俺のような生き物は見た事がないと言っていた。あの男は間違いなく転生者だ」
レーアは信じられないと言った表情を浮かべていた。
そんなレーアを置いてミケルは教会の方を見た。セシルはそちらの方へ行ったらしい。会うのだ、会って全ての事情を説明する。あの日、あの雨の降る村で出会ったあの姿で再会する。
そして話をして名を授けてもらうのだ。その時に我らは真に人間へと近付ける。
断られる心配はしていない。セシルはミケルを探していると言ったし、ミケルのために祈っていると言った。断る事はないだろうとミケルは確信していた。
そうして教会へ向かって一歩踏み出そうとしたその時に後ろにいたレーアがミケルに尋ねた。
「まだ闘うの?」
「当然だ」
「どうして?」
奪われた物を取り戻すためにとこれまでは答えてきた。そしてそうと答えるはずだった。だが、今は違う。もっと別の理由があるように思われた。
それなのにその感覚を言葉に表せられない。
だからこそミケルはこう答えるしかなかった。
「奪われた物を取り戻すために、そしてこの世の理に抗うために」
「転生者だとしてそれでどんな悪い事があるって言うの?」
セシルは転生者に助けられた人がいると言いたげだった。自分もそのひとりだと言うかのように強い眼差しでミケルを見る。だが、真に助けたのはミケルではなかったか。真に治療を行ったのはミケルではなかったか。
与えられた物はたくさんあるだろう。人間であれば。
だが、ミケルに与えられたのは苦痛しかない。肉体を奪われて、苦痛を与えられて、その果てに生まれ落ちた今、こんなにも生き辛い。
「自分で考えるんだな」
たとえミケルがそれを口にしてもレーアには分からないだろう。
そしてミケルは教会へ向かって歩き始めた。心なしかその足取りは恐れているようにすら見える。それなのに喜んでいるようにも見えていた。
ミケルは心を平穏にするように努めていた。胸中は無知な人間たちに対して怒りに燃えていた。このままセシルに会うのでは怯えさせてしまうかもしれない。それだけは避けたかった。