第34章 神の像の前で
水の中へと飛び込んだクレイは驚いた。汚れた水だと思われたのに驚くほど澄んでいたのだ。
黒狼が深く潜っていく影が見える。クレイはそれを無我夢中に追った。
どれだけ澄んでいると言っても底は見えない。暗い所へ沈んでいくのはとても怖かった。もし息が続かなかったら、もし黒狼の姿を見失ったらと考えると彼女は焦った。
クレイは泳ぐ速度を速めた。
底の方に通路があった。クレイはそこへ急いだ。もしかしたら息が続かないかもしれない。どれだけ長い通路か分からないのだ。
クレイはこの黒狼が罠にはめたという事は全く考えなかった。この点において彼女は黒狼を信じ切っている。
通路はそれほど広くなかった。クレイが走り回っていたあの地下道よりも狭い。
もう息が持たないかもしれないと思ったその時に水中の視界でぼやけた先に光のようなものを見出した。
助かったとクレイは思った。だが、どんどん苦しくなってくる。
焦りと苦しさが腕と脚に絡まったかのように進めなくなって彼女はぐるぐると手を回した。
すると、黒狼が戻って来て彼女の着ている服の首元を咬むと光の方へと引っ張っていく。
そしてクレイと黒狼は光の下へと身体を晒す事が出来たのだった。
クレイは気を失いかけていたのを取り戻した。激しく呼吸している。
黒狼はそんな彼女の隣でぶるりと身体を震わせて水を払った。
呼吸をいくらか落ち着かせたクレイは黒狼に抱き着いていた。
「ありがとう、ありがとう~」
泣きながら礼を言う彼女のされるがままになって黒狼は抱きしめられていた。
しゃがみ込んでぐすぐすと泣いている。衣服はもちろんずぶぬれだ。
黒狼は身をよじってクレイの抱きつきから逃れた。
「あ」
すんすんと泣くが今ではもう安心した泣き声になっている。
黒狼はゆっくりと先を歩き始めた。
クレイは遅れまいとしてその後へついて行く。助けてくれたのだから罠でもないし、喰おうというわけでもない。
「待って、待って」
長い真っ直ぐの通路だった。水中から見えた光は通路の両側の壁に設えられた燭台の蝋燭の光だった。
蝋燭は等間隔に火がついていてとても明るかった。
クレイが走り回った地下道よりもかなり地下へと下がっている。
クレイは街の地下にこんな場所があると思わなかった。カーティスが持ってきた地図にはこのような場所の記述はなかった。
そしてとても広い空間へと出た。
両開きの扉はとても大きい。クレイのような人がとおるものとはとうてい思えない。もし通るとするのなら大人数だろう。だが、水の通路を今のクレイのように通って来るとは思えない。
巨大な扉を正面に見るクレイの左側の壁に扉よりも巨大な神の像が置かれていた。
どこかの宗派が使用するところなのかもしれない。でも、どこだろう。ヴィルヘルム派の内部ではこんな話は聞いた事がない。
黒狼に導かれてとんでもないところへ来てしまった。
クレイは扉を開けてみようとするがびくともしない。鍵を差し込むような鍵穴すらないので反対側で閂が差し込まれているかもしれなかった。
どちらにせよ扉が開かない以上は先へ進めない。行き止まりになってしまった。だが、ここまで来たらミヒャエル派のあの殺人者に追われる事もないだろう。
万が一にも追われて水の通路を潜って来たといても水の音がそれと知らせてくれる。それから対応は出来るので準備する時間は確保できる。そうと思うとクレイは閉じ込められたような気持ちでいながら安心していた。というのも扉というものは全て何らかの方法や理由で開かれるものであるからだ。いずれ開かれると思うえばこそ彼女はすっかりと安心していた。
時間があるクレイは黒狼を観察していた。神に興味はないし、水面を見ていてもつまらない。
ここで彼女にとって唯一の希望と思っていたのがこの黒狼だった。
「ねえ、あんたどこから来たの?」
黒狼は答えない。
扉を前足で叩いているかと思えばじっと見たり、神の像を見上げたりしている。
「ここはあんたが見つけたの?」
小さな子供をあやすようにクレイは話しかけ続けた。
黒狼はうろついている。
クレイもへたり込むように座ってそれを見ていたかと思うとゆっくりとその後をついて散歩のように歩いている。
そして結局は扉の前に止まって先へ行きたいとねだるように前足で扉を叩くのだった。
「あんた、もしかしてこの扉の先から来たの? この先に帰りたいの?」
ふと、そんな考えをクレイは持った。
そうかもしれないとクレイは思った。言葉に反応した黒狼はまるで言葉を理解しているかのようにクレイの眼をじっと見つめる。水の中へと潜る時について来いと言うかのようにクレイを見つめるその眼で「そうだ」と肯定するようにじいっと見つめて来るのだ。
「そっか、そっかあ。でもなあ、うーん、分かんないよ」
クレイは鍵穴や扉を開ける仕掛けのような物がないか辺りをくまなく探してみたがそのような物はなかった。
その場所のど真ん中に座り込んでクレイは考えた。
ごろりと横になってみた。次にはうつ伏せになってみる。眠たくなるばかりで良案は浮かばない。体の向きを変え続けるのはそれで考えがぽろりとどこかから現れはしないかと思っての事だがそのような事はなかった。
ずいぶん長い時間をそうした考えに費やしていたと思う。横になっていた時などすっかり寝ていたかもしれない。クレイはこうして長い時間を難しい事を考えるのは苦手だった。
「うーーーん」
ちらりと黒狼を見ると周囲をぐるぐると回っている。
「何も浮かばないんだよねえ」
クレイは半ば自分の頭の巡りの悪さを悔しく思いながら呟いた。
すると、ぴちょーんと音が聞こえて来た。どうやらクレイたちが潜って来た通路の方からの音らしい。
黒狼の耳にも届いたらしい。耳を立ててとぼとぼとした歩みを止めている。音のした方をじっと見つめていた。
クレイは立ち上がって音のした方を覗き見たが人の姿はない。天井から水滴が落ちて音を鳴らしたのかもしれない。
そう思うとクレイの心配はまた持ち上がった。
あの殺人鬼が追って来ているかもしれない。奴は諦めていないかもしれない。そういえばあの殺人鬼は「祈りを捧げていない者」が感知できると言っていた。
クレイはさっそく神の像の前に跪いて祈りを捧げた。長い祈りだった。これだけ祈りを捧げたのは初めてかもしれない。だが、神を信じる者の誰もがそうするような自然さがそこにはあった。
すると、それまでびくともしなかった扉が大きな音を鳴らしながら開いていくのが見えた。
風が一気に吹き込んで来る。
扉の先はまた別の通路だった。だが、とても長い。遠い場所までそれは続いていた。
黒狼は迷いなくそちらの方へと歩いていく。クレイもその後へ続いた。
「これで戻れるね」
クレイは黒狼の力になれた事を嬉しく思って声をかけた。心なしか黒狼の歩みが喜んでいるように見えて力になれたと思っていた。