第33章 地下道をさ迷うクレイ
逃げていたクレイは良く陥りがちのパニックになって前後左右も分からないまま地下道内を走っていた。
とにかく逃げなければならなかった。何からだろう。脅威からだ。
出口に向かいたいと思っていたはずだがそちらの方に向かっているのか分からなかった。道をどこかで間違えたのかもしれない。いや、確実に間違えていた。だが、一歩でも引き返したらすぐそこにあの殺人鬼が待っているような気がしてクレイは進む方向を変えられなかった。
息が切れる。ぜえぜえと荒げていた。少しだけ潔癖症めいた性格の持ち主であるクレイはこの地下道内でこれだけ激しく息をする事は避けたかった。想像力が豊かな彼女は吸えば吸うほど地下道内の眼に見えない菌を吸い込んでいるように考えられるのだった。
ようやくクレイは手に握っていたはずのアクセルのシャツを失くしている事に気が付いた。それが彼女の足を止めた。息が整っていくのと同じ速度で冷静さを取り戻していく。
道を、いや、とにかく外へ出るべきだ。
辺りを見回した。彼女はカーティスたちと探索した周辺のさらに奥へと進んでいた。見た事もない場所だった。
これだけ激しくあっちこっちと動いて見てないところにまで足を運んだ。それでもアクセルはいない。
そしてクレイはようやく考えた。自分のスキルは今まで間違った事はなかった。発動したら効果範囲内であればすぐに反応がある。それがないとなれば範囲外にいるのだ。
街の外に出たという事を考えたくはない。たったひとりで出て行ったとは考えたくないのだった。自分を置いていったという事に繋がるこの考えを彼女は今にも泣き出しそうになって受け止め始めていた。
そしてその負の感情がまたひとつの別の可能性を紐づかせる。その考えを振り払うようにクレイは当てもなく再び歩き始めた。
街を出て行った事・そして生じた最悪の出来事の可能性を拭うにはアクセルを見つけ出すしかない。
地図は手元にない。クレイは勘で進んでいた。
地下道の出口は8つある。東西南北の4つとそれらの間に4つある。自分がどこにいるのか分からないクレイは前へと進み続けるしかなかった。そうして進めばいずれどこかの出口へとたどり着けるだろう。
地下道内は真っ暗だった。それはクレイの記憶の通りだった。それだったのにいつの間にか等間隔に壁に置かれている燭台がある事に気が付いた。これは手で壁に触れながら進んでいた時に触れた事で気が付いた。
中にはその燭台に半分ほど溶けた蠟燭が残っているものもある。火をつける物があればほっと安心する事ができるのに。
苔や汚れにまみれている壁を伝って歩くのにその燭台は良い標になった。角を曲がって2歩ほど進んだ決まった高さに燭台がある。角を曲がるたびに見つけられるそれはクレイをどれほど安心させたか分からない。
ひとつの角を曲がった。
その先でクレイは驚いた。ずいぶん先の燭台に火がともっているのだ。この暗い地下道内で火がついている理由はたったひとつしかない。
「誰かがいるんだ………」
少しの警戒もなくクレイは小走りにその火がつく蝋燭の傍へと向かった。
クレイはその火をつけたのは間違いなくアクセルだと思っている。いるのだ、やっぱりいたのだ、この地下道内に。
ほとんど泣きそうになりながらクレイは走っている。
果たしてそこにはアクセルはいなかった。
人も、生き物もいない。落胆は大きい。
ただ火の先を揺らしている小さな光はクレイをそこに留まらせた。
立ち止まると疲労感にどっと襲われる。燭台の下に座り込んで壁に背を持たせかけた。
クレイがそこに落ち着くとうとうとと睡魔に襲われ始めた。だが、眠りは妨げられた。視界の隅にある影が映った。暗い影、人ではない。
その影の主は1頭の黒狼だった。大きさはそれほど大きくない。犬とも思えるほどの大きさだ。
「おいで、おいで」
ちっちっと舌を鳴らして下から撫でるように手を動かしてクレイは黒狼を呼んだ。どうしてこんなところに黒狼がいるのかは疑問にすら思わなかった。
生き物のいないこの地下道内で動物に出会えた事がとても嬉しかった。迷い込んだ仲間のように思えていた。
黒狼はクレイの方にやって来ない。人の言葉を介さないのだとクレイは知っている。
やがて呼ぶ事は諦めた。黒狼は襲い掛かって来る気配でもない。ちょっぴり寂し気な表情を浮かべるとクレイは黒狼にいろいろな話を始めた。
「ここで男の人を見なかった?」
「つんつん頭で、わたしよりも背が高くって、鼻の高い男の人」
黒狼は答えない。お座りのように後ろ脚を床につけてクレイを見つめていた。
「私ね、この街があんまり好きじゃないんだ。ううん、そもそもあんまり宗教が好きじゃないのよ。でも、私の両親は好きでね。生まれた時から私の前には神を模した像があった。あれって不気味じゃない? 私は子供のころは怖かった。夢にまで出て来るんだから。嫌になっちゃうって。それで両親がここへ送り込んだの。ここで信仰を積んで帰って来いって」
クレイは笑っていた。この地下道内で初めて見せた笑みだった。
「あんた、蛇じゃなくて良かったね。蛇だったら良くなかったよ。私の家は根っからのヴィルヘルム派の家だった。それほど強い信仰心もないのに見栄を張ってこんなところに娘を送り込むなんてどうかしてるよ。ねえ、獣の眼から街の人たちはどう映ってる? 歪でしょ。この街でも宗派があるんだけどさっきね、ミヒャエル派の男が2人の信徒を殺してたの。ミヒャエル派は昔から異常な考えを持つ奴らが集まる不気味な集団なんだよね。近寄りたくない、それで逃げてたらこんなところに迷い込んじゃった」
寂し気な微笑みが悲し気なものに変わる。どうやらどれだけ尋ねても反応がないのが寂しいらしい。
「ねえ、出口を知ってたら教えてよ」
尋ねた直後にクレイは「あーあ、あんたが言葉の分かる獣だったらなあ」と言った。それは獣を慰めるようにも、反応がない事に傷ついた自分を慰めるようにも聞こえる。
天井を見上げていたクレイは立ち上がった。
すると、黒狼が歩き始めた。
ただ単にクレイが立ち上がったのを機に動き始めたに過ぎなかったかもしれないがクレイはそこに何かを見出した。
「待って、待ってよ!」
クレイは黒狼の横を歩いていた。
「ねえ、出口を知ってるの? 案内してくれるの?」
声が大きくなって喜びに高くなってさえいた。
黒狼はそのまま進む。
「ゆっくり歩いてくれるなんて優しいね、お前は」
屈んでその背を撫でようと手を伸ばすと黒狼はその手を避けた。
「なんだ、嫌なんだ?」
それからクレイは黒狼に従って歩いていった。
そしてたどり着いたのは水が溜まっている貯水槽だった。それは他の貯水槽とは形が異なっていた。
まず管がない。その貯水槽は今、クレイたちが歩いてやって来た通路の他に道はなかった。形は正方形で水が溜まっているから分からないがどれだけ広いか分からない。
「行き止まり、じゃん。私は出口を尋ねたんだけど?」
少しだけ苛立ったようにクレイは言った。彼女はこの黒狼にいくらかの期待をかけていたらしい。そんな自分を反省するように大きくため息をつく。
すると、黒狼がクレイを一瞥するとするりと水の中へと入って行った。
「え、え、え?」
ちゃぷんと音がして尻尾が水の中へと沈んでいった。
「ちょっと!!」
水際に手をついてクレイは呼びかけた。すると黒狼は犬かきの要領で頭を水面上に出す。
それにクレイは安心する事が出来た。それと同時にこれらの行動から黒狼が伝えようとするメッセージをクレイは察した。
「ウソでしょ?」
黒狼はまだ犬かきで水面上に顔を出している。
目が合った。それもある一定時間も見つめ合っていた。
ちゃぷんと再び音を鳴らして黒狼は水面下へと姿を消した。
「ウソじゃん」
水に触れてみる。それほど冷たくはないが長時間に及べば命の危険はあるだろう。
クレイは後ろを振り向いた。蠟燭の光が見える。だが、その向こう側にはどこまで広がっているか分からない地下道がある。
大きな身振りで深呼吸をする。どうやら覚悟を決めたらしい。
そして最後に出来る限りの空気を吸い込むと水の中へと飛び込んだ。




