第31章 汝の罪をすすぐ
インガルはこの生き物に惹かれている。研究したい。そう思った。こんな生き物は見た事がないと彼は歓喜に震えている。
彼が教会の診療所で行っていた治療はこのスキル【山を掴む手】で人の身体を調べ尽くしてスキルがどこに保有されているかを調べる事だった。
新たな展望を開けるかもしれない。そんな予感を抱いている。
そしてインガルは指先に触れた炎の温かみを考えなければならなかった。彼はこれまで人の脳を、心臓を、多くの臓器を、その手で掴んできた。これまで温かみや冷たさなどの温度覚を覚えてこなかったのにこの炎にはそれがある。
彼の生涯において初めての感覚となるそれへの接近はこの世の真理に近づく事だった。彼は今、絶頂を迎えようとしていた。脳が震えている。全身が歓喜に震え、今にも走り出してしまいそうだ。
彼は到達を感じた。山に登り、山頂へ至ればあとはそこからの景色を満足いくまで楽しむだけ。その愉楽の階が見える。
インガルの目が血走って口元が歪な笑みに歪んだその時にミケルは完全に目覚めていた。
自我にというよりは生命にだが彼はなすべき事をなす。使命に対して目覚めていたのである。
炎が燃え立った。熱く、熱く燃え立ち始める。
怒り、憎しみ、悲しみ、様々なものを焚べて、更にまだ新しいものを焚べようとしている。彼らは自身が持とうとしていた人間性をも焚べようとしていた。
ロンドリアンでの闘争、その後の迷走、そしてこの街でのセシルとの再会。こうした事を経て人間を考え、人間の中へと溶け込むために持とうとしたそれらを今こそ焚べようと手に持っている。
ミケルは、全身に力を込めた。身体が自由を取り戻してゆく。
『我らに足りなかったのは人間性ではない』
『我らは人間を志向する人間ではない生き物』
『獣だ。我らは獣性を忘れていた』
『敵を討て!!!』
『転生者、人間、全ての敵を討つのだ!!!!!』
憤怒の炎が燃え立った。天を焦がせと立ち上る。雲上の神々をも燃やさんとする勢いが生まれようとしていた。
重圧を跳ねのけるとミケルは青年の姿の人間的な様子と獅子の毛皮をまとった半人半獣の姿でインガルの前に立った。身体は上半身だけが異様に大きく見える。それなのに脚には力が漲っていた。
「あなたを捕まえる。なんとしても、どれだけの犠牲を払おうとも!」
「行くぞ!!!」
ミケルは叫ぶと同時に身を沈めた。じりりと足が地面を掴む。
背が曲がり、毛が逆立った。首が沈むと肩の筋肉が牛のように盛り上がる。
突進だ。全力の突撃を行う。
つま先は最大限の力を出せるようにとっかかりを求めてまた強く地面を掴んだ。
さあ、今こそ!!
弾かれた撃鉄のようにミケルは突進した。空気が吹き飛んだ。何もかもを蹴散らしていく。
両手でインガルの肩を掴み、獣のようにその喉元に食らいついてやると手を開いた瞬間にぱぁんと強く手を叩く音が聞こえたかと思うとカッと光が閃いた。
光が薄れていく先で確かにミケルは何かを掴んでいたがそれはインガルの肩ではなかった。無機質な手触りを覚えている。棒状の物を掴んでいる。それもかなり強力な力が込められた物だ。武器に違いない。
現在の持てる限りに力を使った全力の突進だった。それをインガルは僅か2メートルほど後方へと押されるだけでこらえていた。彼は診療所の壁に背を付ける前にミケルを停止させていた。
とてつもない力と力の衝突と拮抗は凄まじい衝撃波を生んだ。教会は無事だったが診療所の内部は激しく損傷していた。
完全に光が消えた。
ミケルが握っていたのは金剛杖だった。片側の突端に輪がいくつも付けられている。それがちきちきと拮抗の震えが伝わって微かに音を鳴らしている。
インガルは恐ろしい形相の半人半獣になっていた。身なりは人間だったがとてもそうとは思えない。長く伸びた鼻、力強く見開かれた眼、長く伸びた白い髭と髪、太い腕と脚、朱塗りの山伏装束をまとっていた。
拮抗を崩したのはインガルだった。右足でミケルの無防備な脇腹を蹴り上げたのだ。
すぐに反応したミケルは蹴りが直撃する前にさっと飛び跳ねて退いた。
「3つのスキル………」
「この姿になるのはこの街に来て初めてですよ。無駄話はよしましょう。私はあなたを研究したい。生前にもあなたのような生き物はいなかった」
日本の天狗のような姿になったインガルの声は野太く辺りに轟いた。
右手には金剛杖を、左手には扇を持っている。
『転生者だ!!』
『前世の記憶、3つのスキル!!』
『間違いない、この街にはまだたくさんの転生者がいるはずだ!!』
拳を力強く握りしめてミケルは天へ向かって咆哮した。その轟きに建物は怯えたようにびりびりと震える。ただし怯えたのはどうやら建物だけらしい。インガルの精神操作スキル【汝の罪を濯ぐ】によってすっかり安心しきっているケガ人たちは声すらも立てない。
スキル【創造する掌】を使ってミケルは棍棒のような武器を作り出した。ただ太い棒でしかないそれをミケルは持った。それはこれをぶつけた時にあの金剛杖を叩き折ってそのままインガルの脳天を砕く算段のために作ったものだった。
「スキルを3つ持っている程度で何を言っている。お前の方は3つどころかそれ以上に持っているじゃないか。【山を掴む手】に抵抗する力、獅子になるスキル、精神攻撃を無効化するスキル、【幽霊の手】は今までで確認できている。なぜ、明確な肉体を持っていないのにそれだけのスキルを保有しているんだろう。お前を研究する事が出来れば私の研究は飛躍的に進歩する」
ミケルは棍棒を持つ手に力を込める。更に力が増している。炎は何かを燃料に驚くほど燃え立っている。