第27章 修道女セシル
ミケルは教会の見えるところで立ち尽くしていた。
彼の眼には教会の建物の外にある木製のベンチに座って顔を覆っているセシルの姿が映っている。彼女の肩は小刻みに震えているように見えた。ミケルにも彼女がそうしている理由が少しだけ理解できた。
教会の中からは呻き声が聞こえたり、血の臭いが空気に微かに混じったりしていて中の惨状が窺い知れたのである。といってもそれはミケルたちがした事だったのでそれほど心は痛まなかった、そう、彼女のこの悲しみぶりを見るまでは。
ミケルはこの青年の姿で会う事が出来なかった。彼はこの姿で色々と激しく動きすぎていたかもしれなかった。かといってセシルに初めて会ったあの少年の姿で会うわけにもいかない。
ただ今のこの状況で会う事は彼が望んでいた事だった。2人で会いたいと彼は切望していた。それと同じくらいにインガル神父とも2人で会いたい。
ミケルは建物の影でデッカーの姿に形を変えた。旅人を装って、今日の朝にこの土地にやって来たという風に教会の敷地内へと入っていく。
建物を見上げてからミケルはセシルに声をかけた。
「こんにちは、この教会の人ですか?」
明るい声を装った。その落ち込みや中の惨状の事など露と知らぬ旅人のデッカーだった。
顔をあげたセシルは泣いていた。頬を涙に濡らしている。話しかけられた事に気が付いて慌てて涙を拭う。
ミケルは咄嗟にそれを拭う布を探した。手元にないと分かると自分の手がそれと相応しいと思ったのか手さえさし伸ばしていた。
セシルはその伸ばされた手を気遣いと受け取って「ごめんなさい」と謝ってから姿勢を正して明るい表情を作った。微笑んで優し気な目を作っている。
「お祈りですか?」
「ええ、まあ。あとは建物に興味があったので」
「そうですか。でも、今は教会内は取り込んでいます。お祈りにもふさわしくありません。大聖堂の方へ行ってください。そちらの方がたくさんの宗派が集まって様々な祈りの様子を見る事が出来ますから。ここはルイーゼ派の教会です。どうぞ、大聖堂の方へ」
毅然とセシルはミケルに言った。
その様子にはある時のレーアやウィノラのような異様な雰囲気は見られない。足は微かに震えている。ミケルがこの場所から離れたら再びベンチに座って泣き始める事だろう。
その毅然さは彼女自身の性格から見られるものに違いない。
「大聖堂か。あなたはここで何をしているんですか、泣いているように見えましたが?」
ミケルは初めて人間を気遣うような言葉を口から出していた。慰めようとしているのではないと感じている。なぜ、泣いているのだろうか。なにに悲しんでいるのだろうかとただ尋ねたかっただけだった。
「わたしは、その、泣いてなんて………」
言葉を何とか口から出していた。徐々に困ったように眉を寄せていく。それは問いに困っているのか、こみ上げる涙を抑えきる事が出来ずに困っているのか分かっていない。
そしてはらりとまた零れ落ちると「ごめんなさい」と断って後ろを向くと落ち着くまでミケルに背を向けたままだった。彼もその背を見守り続けた。この時に邪魔をする者はひとりとして、いや、ひとつの生命もなかった。
「ごめんなさい」
もう一度だけ謝ると次にミケルの前に現れたのは彼が知っているセシルだった。少しだけ幼さの残った表情をしている。彼女の母親を知っているミケルにはセシルが母親似だという事を証言するだろう。
「落ち着いた?」
「ええ、はい。ごめんなさい。中へは入れません。中では負傷者の治療が続けられています。クローゼ派のインガル神父がその治療にあたっておられます」
治療………。
ミケルはレーアとウィノラの異様な様子を知っている。あれは治療と言うよりも精神支配に近い。撫でられた落ち着いた赤子のように精神に波風の立たない状態とでも言うような。
「きみも治療を?」
「いいえ、残念ながらわたしには治療はできません。わたしはインガル神父の補助をしていました」
ミケルは頷いた。彼が知る限りセシルの持っていたスキルは治癒系のスキルではない。
「きみはどうしてこの街に?」
率直に尋ねたこの問いに戸惑うセシルを見てミケルは弁解めいた文句を付け足す。
「いや、泣くほど辛いなら無理してここに居なくても良いのじゃないかと思っただけだ」
ミケルの言葉を聞いたセシルは彼女特有の優しい微笑みを浮かべて「いいんです」と言った。
「分かっていますから。わたしには向いていないかもしれません。ここへ来たのもルイーゼ派の方がわたしの住んでいた村に教えのためにやって来たからです。わたしはそれについて行きました。とにかく住んでいた村を出て行きたかったんです」
「それはどうして?」
不幸だったのか、恵まれなかったのか。あれから、そう、ミケルが去ってから父母との仲が悪くなったのか。ミケルには尋ねたい次の言葉が続々と浮かんでくるが彼は口から出さなかった。いや、出なかったと言った方が正しいだろう。
「それは、わたしは人を探しているんです。たった一度、会っただけの人を。聞いてくださいますか?」
セシルはミケルを見ていた。彼はどこへも動こうとしない。この街では珍しい人物に見えた。旅人で外からやって来た姿でいるのにまるで古くからここに住む人のような雰囲気があった。街の人の出入りは激しい。セシルも外からやって来た。聞けばウィノラも、インガル神父でさえも街の外からやって来た人なのだ。
決然とした瞳の閃きに圧されてミケルは頷いた。そんなミケルを見てセシルは「優しいですね。長くなるかもしれませんよ?」と念押しして尋ねるのでミケルは力強く再び頷くのだった。
そしてセシルは話し始めた。
「わたしが住んでいた村はとても小さな村でした。ある酷い雨の日に出会ったんです、とても寂し気で悲し気で、そして降る雨に晒されて今にも消えてしまいそうな松明のように弱弱しいひとりの少年に」
それからセシルはその少年を家へと案内した事、一緒に食事をした事、村を案内してあげるという約束をした事を語った。
「そして夜、家の扉を開ける微かな音が聞こえたんです。わたしはその少年の事が気になっていてなかなか寝付けませんでした。うとうととしたり、眠れそうになったりを繰り返していた時にその音を聞いたんです。わたしは起きて家の外へ出ました。外はすっかりと暗くなっていましたがわたしはその出先で少年を見つけたのです」
セシルの表情は様々に変化した。悲し気だったり、寂し気だったり、時には苦しそうにも見えていた。
そして言葉を区切った時にいよいよ最後の時を、ミケルも知っているあの瞬間の事を口に出そうとした時の彼女の表情はとても不安そうにしていた。ミケルは彼女のこうした感情の源が後悔である事をようやく読み取った。
「わたし、その後に何があったのかは分かりませんでした。ただ彼に手を掴まれたんです。わたしはその時に短い悲鳴をあげてしまいました。それからは黒い何かに覆われていました。とてもひんやりと冷たいのにとても熱い。硬くて柔らかいような何かに覆われていたんです。そして気を失いました。次に目を覚ました時には父に抱かれていました。父は憤慨していましたよ。娘とその娘が連れて来た少年が夜に会っているんですから。目覚めたのは朝で彼はもういませんでした。わたしはその場で母に『祈る事』を教えてもらいました。憤慨する父に祈る事は出来なかったので父に背を向けて祈りを捧げました。彼への祈りです。わたしはそれから毎朝毎晩、彼が去った方角へ祈りを捧げました。『彼に祝福がありますように』、『彼に少しでも幸福が訪れますように』と。今もわたしが祈りを捧げる時には神よりも“彼”へ祈りを捧げているのだと思います。だから、わたしは確かにこの街が向いていないかもしれません。でも、ここは人がたくさん集まります。いつか“彼”が来るのじゃないかと期待して待っているのです」
「会って何をするんだ?」
「さあ、分かりません。そこのベンチに並んで座ってお話しするだけでも良いと思います。『今は何しているの?』とか『元気にしてるの?』とかそんなお話で良いんです」
夜だった。今もあの日のような晴れた夜になっている。ただ違うのはセシルが大人になっていてミケルは大人を装っていた。
「その少年の名は?」
ミケルが尋ねるとセシルはとても恥ずかしそうに微笑んで風に揺れた流れる金髪をかき上げながら答えた。
「ミケルと言うそうです。この街に新しくやって来た人に同じ名前の人がいるとわたしの友人が教えてくれました。ですが、年恰好が違いますし、とてもお強い方だそうです。たぶん人違いだろうと思いますがいつかお目にかかりたいと思っています」
その言葉を最後に彼女の語りは終わった。
ミケルは心の中で何かが生まれては消えていき、消えては新しく何かが生まれるのを感じながらその場に立っていた。
「長く話をし過ぎましたね。ごめんなさい、お引止めしてしまって。お祈りはどうぞ大聖堂へ向かってください。それではわたしは中へ戻ります」
小走りで彼女は教会の扉の前まで行くと扉に手をかける前にミケルへ向かって一礼して中へと入った。
ミケルはデッカーの姿のままで教会を後にした。




