第26章 獣の教典
ミケルの治療はすぐに終わった。
ミケルは治療を行う間、二言三言の簡単な言葉をウィノラにかけたが彼女はほとんど反応しなかった。促されるままに椅子に座ってぼうっと前方を見つめている。もしかすると自分がどこにいるかすらも分かっていないかもしれなかった。
そんなウィノラに優しく声をかけ続けたのがレーアだった。彼女は本当に優しかった。ウィノラを心配し続けていたのがミケルにも伝わったが悲しい事に目の前のウィノラにはそれが分からなかった。
時刻は既に夕方で太陽は沈もうとしている。また日が経つとミケルはウィノラの肩越しにある窓を見て思った。
ウィノラの治療は終わった。といっても手をかざしてスキルを発動するだけで終わるので時間はそれほどかからなかった。
顔色の良くなったウィノラを見てレーアはすっかり安心している。彼女に抱き着いて助かった事を喜び合っていた。とはいうもののウィノラの痩せた事実は変わらない。体力を取り戻すには数日かかるだろうと思われた。
レーアはミケルに礼を言った。
「実は教会内にたくさんの負傷者がいたの。よかったらその人たちも助けてほしい。そうしたらミケルに協力してくれる人が増えるかもしれない」
レーアの言い方はもちろんそうしてくれるだろうという期待が籠っていた。ミケルはするつもりはない。人助けをするつもりはないのだ。なぜなら彼ら自身が身悶えしているほど苦しんでいるのに助けようとする人間がいないからだ。苦しみが表に出ない限りは人は察する事が出来ない。もし出来るとするのならそれはもう人と人の親しい営みに他ならなかった。
「いや、そこまでするつもりはない。全ての人を助けていたらきりがない。俺の目的は転生者を探す事だ」
窓から外を覗いていたミケルはクロイン派の連中が新たにやって来ていないかを警戒していた。だが、その様子はなかった。
ミケルの言葉を聞いたレーアは少しだけ悲しそうな表情をして下を向くとすぐに気を取り直してウィノラの乱れていた衣服を整えた。
「が、あの協会は前から気になっていた。見に行っても良いだろう」
そう言うとミケルはすぐにレーアの部屋を出て行った。レーアはその後を追おうと立ち上がって後へ続いた。
「来なくていい。お前は転生者について調べろ。そうした取引だったはずだ」
「うん」
この時になって初めてレーアの表情は曇った。それまでは全く陰りさえしなかった表情が。
レーアも自室で準備を整えた。矢を補充して弓の弦を調整する。小型ナイフを綺麗に拭くとウィノラに事情を説明しようと彼女がいるリビングに戻った。すると、彼女は上半身を下着だけにして取り乱していた。
「ウィノラ、どうしたの?」
「レーア、本を持ってなかった?」
「本?」
そういえばクロイン派の連中も本がどうのこうのと言っていた。レーアはそれを思い出したが彼女がウィノラの身体を探しても本など出てこなかった。
「持ってなかったよ。教会から連れて来たんだけどその時にはたぶん持ってなかったと思うな」
言葉がすらすらと出て来る。レーアはもっとおしゃべりがしたいと思っていた。この喜びが彼女に余裕を与えていた。
「ヤバい、あれがないとかなりヤバい」
ウィノラは焦った様子で上半身を下着のままで外へ出ようと勢いを付けて駆け出した。レーアの家はそれほど広くない。物の少ない生活をしているのでリビングには生活必需品の他には数冊の本があるだけだった。
足をもつれさせてウィノラはテーブルにぶつかるように突っ伏す。それでも前に進もうとするのでついにずるりと床へと倒れてしまった。
「ウィノラ、無茶はだめだよ。体力が戻ってないんだから」
「でも、本を取り戻さないと!」
「本ってどんな本なの?」
「その本は、クロイン派の教典なの」
「教典?」
「ええ、最近に記された教典でクロイン派の秘儀をまとめたと言われてる。わたしはそれを手に入れるように依頼されたのよ。すっごい大金で売れるのよ。だから、わたしは追われてた」
「だから、クロイン派の連中が探してたのね。でも、今は本の事よりも考える事があるわ。お金は諦めるしかないけれど。転生者について調べないといけないの、そういう条件で助けてもらったから」
「まただよ、またその転生者だ。おとぎ話だって言ってるのに。でも、わたしは思ったんだ。あの教典をざっと読んだらクロイン派はスキルを新しく付与する。つまり動物に擬態するスキルだけれどどうしてこんな事が可能なんだろう。それって別のスキルが関与してるはずなんだ。でも、どんなスキルでそんな事が可能になるんだろう。この動物の変貌は数十年前から行われるようになったんだ。転生者は前世の記憶を持つ者、通常は2つのスキルを更に多く有する者たちの事だ。もしかしたらあの教典を読めば転生者につながるかもしれない。そんな予感がする。レーア、あの本がどっちにしろ必要なんだよ!」
「ウィノラはいつまでその本を持っていたか覚えてる?」
「分からない。地下道にいた時には確かに持ってたし、レーアの家に来た時にも確かにわたしは持ってたんだ」
「なら、教会かもしれない」
「レーア、お願い。本を探し出して。あれがなきゃどうしようもないんだ」
ウィノラを残して自宅を出るとレーアは先に教会へと向かったミケルの事を考えた。ついて来るなと言っていた。もし、彼女の姿を見られて指示に従わなかった事について何か言われたら事情を説明するしかないと彼女は思っていた。




