第25章 クロイン派の教徒たち
カーティスにミケルの事を尋ねられたその真意を測りかねたレーアは答えられなかった。
そこには何か不穏な予感があった。
「どうしてそんな事を聞くの?」
さっきまではとても大胆になれていたのに今ではすっかり慎重になっている。
「良く聞いてくれ。レーアの感じていた気配は正しかった。地下道は今、巨大な蛇の棲み処になっている。それもただ巨大なだけじゃない。とてつもなく強い魔獣の棲み処になっているんだ。ここにいる者たちはその蛇との戦闘で傷ついた者たちだよ。アクセルが恐らく最初の被害者だ。俺の目の前で蛇に連れられて行く様を見たからな。その時にアクセルが言ったんだ。ミケルが『正真正銘の化け物だったんだ』と言ったんだ。俺たちの知らない間にミケルとアクセルが争ったのかもしれない。とにかく彼ほどの実力者なら蛇に対する術を持っているかもしれない。無害なら助けを借りたいし、有害なら手を打つべきだ」
レーアの頭の中では様々な考えが巡っていた。だが、結論は変わらなかっただろう。
「大丈夫よ、ミケルなら大丈夫。だって、わたしを見てよ。すっかり良くなっているでしょう。わたしは彼に治療してもらったのよ。彼が治してくれたの。だからウィノラもミケルのところへ連れて行くところだったの。きっと彼女の毒もどうにかしてくれるだろうから」
「そうか、彼は治癒系のスキルを持っていたのか」
「ええ、そのあとにカーティスたちの事も頼んでみるわ」
レーアは「だから待ってて」と言ってウィノラのいる診療所の方へと駆け出した。インガル神父とセシルはまだ患者に付きっ切りになっている。
ウィノラの衰弱は続いていたし、死を受け入れているかのような達観した態度も続いていた。
「ウィノラ、移動しましょう」
「レーア、どこへ行くの?」
「わたしの家よ。そこで治療してもらうの」
「治療ならここで構わない。ここの方がいいの。だって、外へは出たくないから」
ウィノラは外の危険性を覚えているらしい。彼女が外へ出たくない理由がそれだとは分からないがとにかく彼女は外へ出ようとしなかった。
レーアは説得するしかなかった。ミケルが突き付けた条件はウィノラを連れて来る事だ。彼女を助けるにはミケルの元へと連れていくしかない。それに彼はレーアとウィノラの3人だけでの処置を望んでいる。
「ウィノラ、わたしの家に行きましょう。わたしを信じて。大丈夫だから」
ウィノラの驚くほど青い手を取ってレーアは立ち上がった。
言われるがままにウィノラは立ち上がってレーアの手に引かれていく。走り出したレーアにウィノラの足はなんとかついて行けるのだった。
診療所を出ていく。レーアは教会内で治療を続けるインガル神父やセシルに断りも入れなかった。裏口へ回って施錠されていた鍵を開けると扉をゆっくりと開けて外へ出た。
その時にレーアはスキル【祈りの道】が発動できる事に気が付いて迷いなくスキルを発動させた。様々な反応がそこにあった。小動物や反応は大きいのに今にもこと切れてしまいそうな弱い反応まで様々だった。
その情報を頼りに彼女は自宅までの適切な道のりを定めるのだった。これで動物たちを避けて通る事が出来ればクロイン派の連中に気付かれる事はない。自分が上手くやれればきっと無傷でたどり着けるとレーアは思った。
そしてレーアは走り出した。ウィノラの手を引きながら。
いつか上った坂を駆け下りていくその時にレーアは思った。いつ自分はスキルの発動に必要な条件を済ませていたのだろうか。教会で一定時間の祈りを捧げない限り発動できないスキルのはずだった。
だが、走り出して一直線に自宅へと向かいながら動物を避けるために警戒するとそうした疑問も全て消えてしまった。
「レーアさん、ウィノラさん、どこへ?!?」
後方からセシルの叫ぶ声が聞こえて来る。振り返る事なくレーアは答えた。
「わたしに任せておいて、大丈夫だから!!」
大丈夫、そう大丈夫だ。何もかもがきっと。
ルイーゼ派の教会からレーアの自宅はそれほど遠くない。彼女は走った。建物が整然と並ぶ通路を行く。迷いはない。完全に正しい事をしている。これでウィノラは助かるのだ。不思議とレーアは息が切れなかった。
ウィノラはほとんど限界だった。レーアについて行くだけで精いっぱいなのは間違いない事だったがここに来てレーアはとても勢いのある娘になっていた。
すると、彼女のスキルの範囲に高速で入り込んでくる2匹の飛行する生き物が現れた。それは直上からやって来るようだった。
レーアはいち早くそれを察すると立ち止まってウィノラをしゃがませた。持っていた矢を構えて狙いを定める。彼女のスキルは正確に位置を教えてくれていたので飛行する梟の1匹の頭部に向かって矢は突進して行ったが梟はそれを回避した。
だが、この対応によって少しだけ隙が生まれた事と2匹のずれがレーアの対処を容易にさせた。
ウィノラの身を低くさせて梟の攻撃が及ばないようにする。弓を振り、矢の先にある小さな刃を突き立てるようにして梟の攻撃を退けるとその隙にまた彼女は走り出していた。
「ウィノラ、急いで!」
無茶かもしれなかった。毒に侵されて意識もはっきりしていない彼女を走らせるには無理があったかもしれない。
だが、家まではもう少しだった。
その時に再び梟たちが入り込んでくるのを感じた。
そして同時にまた別の動物の反応がある。4匹の4足獣が前方の通路にいるのが分かった。それらは前進するレーアたちを待ち受けていた。犬か狼か、はたまた別の獣か。
レーアは意を決してウィノラを連れて狭い通路へと入った。そこはほとんど町民の物置のようになっている通路で物が雑多に並んでいた。必要な物か不必要な物か判断のできない捨て置かれた物たちが置かれている。
その物の影にウィノラをしゃがませて板で姿を遮るとレーアは腰に提げていた小型ナイフを抜いた。柄の端に輪がひとつある。そこに人差し指をひっかけたまま弓に矢をあてて引き絞った。
空気が張り詰めている。4匹の獣と2匹の鳥がやって来る。もしかしたらもっと多くの獣もといクロイン派の教徒たちがやって来るかもしれない。
レーアは迎え撃つ覚悟を決めていた。
その狭い通路にようやく獣、2匹の犬が現れた。姿は見えないが建物の影にもう2匹も潜んでいる。隠れているつもりかもしれないがレーアには分かっていた。
この狭い通路では梟たちも犬たちも攻撃方法が限られている。レーアは採用した作戦が正解だった事を確信した。
1頭の犬がじりじりと前に出て低い大きな声で吠えた。すると、猛烈な勢いでレーアに向かって駆け出した。その後ろをもう1頭が追いかける。2匹は壁の影に潜んだままだ。
そして頭上の梟も1匹がほとんど同時に攻撃を仕掛けるために迫って来ていた。
レーアは空中の梟に矢の狙いを絞っていた。十分に引き寄せたと思ったその瞬間に狙いを迫りくる犬の1頭に転じたのだった。
矢は犬の疾走を上回る速度で空を駆けた。矢じりの閃きが犬に狙いが変わった事を伝えている。もう体の向きを変えるのは間に合わない。犬を狙った矢は正確にその眉間へと向かって放たれていた。それへと当たる直前に顔を背けていた犬の首の側面に矢は深く刺さった。痛みと衝撃とでよろけるが絶命までには至らない。後ろから迫っていたもう1頭がよろける犬を追い抜いてレーアへと迫る。頭上の梟も攻撃へと加わって降下していた。
そして建物の影に潜んでいた2頭の犬と1匹の梟も事態を正確に把握して追撃の機会をうかがっている。
梟の攻撃を転がって避けると抜いた小型ナイフを構えてもう1頭の犬を牽制する。スキルによって反応を受け取っているのでいくらか攻撃の瞬間の判断が出来ていた。
加えて彼女のもうひとつのスキル【忍び寄る者】が単独戦闘において精神と肉体能力を上昇させる働きをしていた。
レーアは既に次の手を考えていた。6人の教徒に違いない。彼らが獣の姿から人間の姿へと戻ると相手にしづらいと分かっていたレーアは6対1の状況を早々に離脱する方法しか考えていなかった。
負傷していると言っても獣は獣、まだ動けるらしい。犬の1頭はレーアを憎々しさいっぱいの眼で見ている。レーアは近くにあったゴミの山を犬たちに向かって降り注いだ。1歩退く犬と咄嗟に避けられなかった犬がゴミの山を雨あられと受ける。その隙にレーアは隠していたウィノラの手を再び掴むと来た道とは反対の通路へと抜けて行った。
梟たちが追って来る。犬たちもゴミを振り落とすために身体を振るわせると後へ続いた。
走る速度は明らかに彼らの方が速い。だが、それは一瞬だけでよかった。
レーアはすでに建物の中へと入っていた。当然ながらまだ自宅のある建物ではない。そこはレーアの家と同じ造りの建物で同じような若い男女が住んでいる。実際に彼女が入って来た事に驚いた男はパンツ一丁で歯ブラシを咥えたままだった。
「ごめんなさい、ちょっと通るだけです」
そう断るとウィノラを引っ張って屋上へと向かう。
窓から上へと出るとそこを伝って自宅を目指した。こうすればレーアたちを攻撃できるのは梟だけになると思った彼女の機転だった。
だが、そうと簡単にはいかなかった。レーアがあと1棟越えられたら自宅だというところで梟たちが現れたのである。それも2匹ではなく8匹もいた。
すると、その8匹は空中ですっと姿を人間へと変えた。いや、戻したと言った方が正確だろう。8人の頭からすっぽりとフードを被った男たちがレーアとウィノラを取り囲んでいる。
「その女を渡せ」
レーアの目の前に立っていた男が言った。
「嫌だ、彼女の毒を治す。用があるならその後にしたらいい」
レーアは拒否した。絶対に渡さないという断固たる決意があった。
「分かった。我々の用があるのはその女が持っている物だけだ。本を持っているはずだ。その本を渡してくれれば今は退こう」
レーアは戸惑った。本など知らなかった。診療所にいた頃から持っていただろうかとウィノラを見る。
「ウィノラ、本なんて持ってるの?」
レーアにとって本がどのような物か分からない。価値はなかったし、命に変わる価値ある物なんて存在しないはずだ。渡してしまっても構わないだろう。
ウィノラは答えなかった。やはり斜め下方を向いていて心なしか走ったために胸が上下しているだけだった。
ウィノラの身体を少しだけ調べてみたが本など持っていなかった。
「本なんてない。持っていないから渡せない」
「持っていない?」
「ええ、持っていないの」
8人の男たちはレーアたちを取り囲みながら会話をした。
「持っていないはずがない。探せ」
レーアは言われた通りに再びウィノラの身体を探した。今度は隅々まで探したのだが本など持っていなかった。
「持っていない。本なんてどこにもない」
レーアが言うと男たちは構えた。
「やはり捕らえるしかない」
レーアにしゃべりかけた男が言うと残りの者たちも頷いて構えをとった。
レーアは闘いを覚悟した。襲い掛かって来ると思ったのは彼らが一斉に飛び掛かって来るのが見えたからだが一瞬で勝負は決してしまった。飛び掛かってくるように見えたのは吹き飛ばされていたのだった。
そしてレーアたちの更に後方からひとりの男の影が見えた。
「降りかかる火の粉を払うのに容赦はしない、2度目ともなればな」
ミケルが右の手を龍の大きな腕のようにして広げていた。男たちが吹き飛んで行ったのはそれで薙ぎ払ったからだろう。
レーアはすっかり安心していた。そしてまた喜びで心を満たすのだった。