第24章 縄を結う手
レーアが喜びに満ちた表情で通路を走り抜けていくのをクレイは自宅の窓際に座って眺めていた。彼女はずいぶん気だるげにいる。
ショート丈のシャツを着て短パンを履いている彼女はレーアの姿が見えなくなるとその喜びの表情と元気いっぱいに走っている様に触発されて立ち上がった。何かをするつもりになったのかと思ったがどうやら違うらしい。立ち上がった瞬間にまた考えが変わって力なくベッドの上に身を放り出した。
ぼぅんと揺れるベッドは高級品だ。彼女の両親はとても裕福な富豪で熱心な教徒だった。クレイをこの街に送ったのも父だった。金銭的な援助もあるし、以前には執事や家政婦まで寄越したほどだった。ただそれはこの街で出来た親しい友人アクセルとの県警を築くのには邪魔でしかなかったので適当な理由を付けて送り返すと彼女は気怠い自由を手に入れた。
彼女は19歳で20歳になったら連れ戻されてしまう。その前にどこか遠くへと連れ去ってくれる男を望んでいた。アクセルがそうしてくれると思っていたが本当にそうなるのか、あるいはそうしてくれるのか分からない。
堅苦しい父親や執事や家政婦たち、好きでもない男を夫にして好きでもない人々に囲まれているくらいなら適当な場所で適度に好ましい男といた方が良いと彼女は思っていた。
そんな風にして一種の反抗を思うと彼女は寂しくなっている自分に気が付いた。父親も執事も家政婦もアクセルも他の仲間もいない。あるのは言葉を発しないいくつかの観葉植物と彼女の良き友である猫だけ。この猫は実家の方で飼っていた猫で長い付き合いだった。
開けられた窓から風が流れて来る。その風が彼女の露わな部分を撫でてゆく。それに肌寒さを覚えると彼女はベッド上のシーツを搔き集めて羽織るように身にまとった。
生あくびをしながらキッチンの方へと歩いていく。この家の鍵はアクセルも持っているので好きな時に出入りできるようになっている。彼は家の中にいなかった。この街に来てから彼と一緒に過ごした時間はとても少ない。ついて早々に出かけてゆく彼について行っていたのだが彼女のスキルを知っているアクセルはそれらの痕跡を上手く隠していた。
キッチンにあったパンに蜂蜜をかけて甘くすると彼女はそれを食べ始めた。食事をしていると猫がやって来た。パンを持っていない方の手で抱き上げて頬ずりをする。嫌がるが抱き寄せた胸元から離れてゆくほどの拒絶ではない。
パンを食べ終えて蜂蜜に濡れた指先を舐めながら再び窓際までやって来ると彼女はまたどこか気だるげな様子で眺めている。
どれほどそうしていたか分からない。猫はいつのまにかどこかへ行っていた。
そしてまた立ち上がると今度はいくらかしっかりしている足取りでクローゼットの方へと歩きだしていた。
「アクセル、どこにいるんだろ?」
ぽつりと呟いた言葉に返事はない。どこかで猫がにゃあと鳴いたかもしれなかった。
着替えを済ませてクレイは自宅を出て行った。手にはアクセルが置いていったシャツを握っている。
クレイはアクセルのシャツを握りしめて街を歩いた。こうしていればいつでもアクセルを見つけ出す事が出来る。彼女のスキル【縄を結う手】はクレイを中心に半径2キロほどの範囲の特定の人物を察知する事だった。条件はその人物が所有していた物を手に持つ事だった。
彼女はアクセルのシャツを握りしめている。探しているのはもちろんアクセルだ。
アクセルが行きそうなところは分かっている。そうした場所を近い場所から回っているのだがいる気配がない。スキルの中にピンと来る報せがない。
彼女のこのスキルは条件を整えさえすればほぼ確実にその存在を報せてくれる。所有物など知人友人にしかこれまで使った事がなかったが子供のころはこのスキルを使って特定の遊びでは無敗を誇ったほどだった。
要するに彼女は人探しにはそれなりの自信がある。
だが、見つからない。
クレイは様々なところに足を運んだ。クレイの家の近くにあった酒場や賭博場や玉突き、的当て、アクセルがこれまでクレイを連れて行った遊び場に足を運ぶ。
中には声をかけて来る者がいたのでアクセルを見なかったか尋ねるが誰一人としてその姿を見たという者はいなかった。
「どこに行ったんだろう?」
こうした遊び場はこの街の中にはたくさんある。ほとんどの店がある区画に集中しているので酒場があるかと思えばその隣には玉突き、その隣には的当て、その隣にはまた別の酒場と言う具合に遊び場はそれなりにあるのだ。だが、だからこそここでスキルを使えば探すのは簡単だった。
クレイは様々な事を考えた。昔の女の家に転がり込んでいる可能性は少なからず考えられた。アクセルは一夜の女を作る事があった。そうした女の家にいると思うと悲しくなるし、寂しくなった。
繁華街にいないと分かるとクレイはあと5分待てばやって来るかもしれない、いや、10分待てばやって来るかもしれない、30分も待てば確実だろうと思ったががやがやと騒がしく、クレイを認めてにやにやと笑いながら話をする小汚い男どもが見えるとここにいるのが嫌になった。
「よお、クレイ。どうしたよ、今日はひとりか?」
紅い顔の男が声をかけて来た。胸板が厚く、肩からクレイの腿が生えているかのように太い腕を出している。その腕は細かい傷がいっぱいだった。
「アクセルを見なかった?」
「いや、見てないな。今日はここらで見なかった」
「そう」
珍しい事だった。本当に珍しい事だった。
この他に行きそうなところを考えるとなかなか出てこない。
「待つか?」
「ううん」
クレイは首を振る。
すると、赤い顔の男は同じく飲んでいる仲間の方を見て「おーい、アクセルを見たか?」と尋ねてくれた。
答えはクレイにも聞こえて来た。
男は肩をすくめる。
「ありがとう。ここに来たら飲ませておいて」
クレイが頼むと男は杯を煽っていた。
「俺たちがそうさせる前に奴はそうするさ」
笑って言う。クレイもそれに笑っていた。
「待たねえのか?」
「うん」
クレイは繁華街を出て行った。
後ろを振り返るとクレイと話した男は仲間の元へと戻って再び酒を飲み始めていた。彼らはクレイの方を見て杯を空けていく。話す事は分かっている。彼らはクレイとアクセルが一緒にいる事を良く思っていないのだ。アクセルはクレイの払いでいくつも借金がある。賭博や玉突きや的当て、酒場のツケなどなど。今ではもうクレイも勘定をしていない。
だが、離れる気にならない。なぜならあそこで酒を飲んでいる連中の全てがこの街で生涯を終えるつもりの連中に見えた。アクセルは外への興味を持っている。いつかはこの街を出て行くと言って夢をクレイに語った。それがクレイには必要だった。外へ、誰の目も届かない外へと連れだして欲しいとクレイは願い続けていた。
繁華街を出たがクレイにはどこへ向かったものか分からなかった。いくつかの候補は浮かんでいたがそこへは行きたくない。でも、行かなくてはアクセルを見つけられない。
クレイはその繁華街からほど近くにあるアクセルの昔の女の家を訪ねた。
アクセルの事を尋ねるが突き飛ばされて帰されてしまった。怒号が聞こえて窓からコップを投げつけられた。
良い別れ方をしなかったのだ。クレイの方が金を持っていたからという理由で捨てられた女。繁華街にそこそこ近い距離に住んでいるのはアクセルがそうしろと言ったからだろう。それが分かるのはクレイもそうしろと言われたからだ。
そうなると次の心当たりはこの街を出て行ったか、あるいは………。
彼女はそれを考えるのは最も嫌悪するべき事だと思っていた。アクセルがあそこへ行ったと語った時、彼女は強い言葉で非難した。引き止めもしたがアクセルはそんな態度のクレイに激昂して怒鳴るのだった。それはとても恐ろしかった。
クレイは否定しながらも自らがそちらの方へ向かうのを止められなかった。全てはアクセルに会いたいがためだった。引き離されるとそれだけ会いたくなる性格の娘だった。
そしていよいよ彼女はその建物の前に着いた。そこは闘技場だった。人と人、人と獣を闘わせて賭けをする。
クレイは入り口にいる男に話しかけた。
「中に知り合いがいるかもしれない。アクセルって男がいる?」
男はぶっきらぼうにクレイを見てから隣の男とひそひそと言葉を交わすとこくりと頷いてクレイの質問に答えた。
「少し前に来たがすぐに出て行った」
来たんだ、アクセルはここへ来たんだとクレイは思った。
「出て行ったってどこへ?」
「さあな」
振り出しに戻った気がする。結局はこの街の中なのだ。
クレイは立ち眩みのようなものを覚えると何も言わずにそこを立ち去ろうとした。
「待て、こっちもひとつ尋ねたい事がある」
男の影からまた別の男が出て来た。
「転生者って知ってるか?」
転生者の話ならクレイは知っていた。前世の記憶を持つ者、前世で培ったスキルや特別なスキルを有する者たちの話を。そういえば幼いころは神の話よりもそうした者たちの伝説やおとぎ話の方が良く読んでいたかもしれない。
「おとぎ話でしょう?」
「そうだ、おとぎ話だがそれについて何か知ってるか?」
「お話で読んだぐらいだけならね」
奥から顔を出していた男が建物の中へと引っ込んでいった。男は何かに納得したように繰り返し頷いている。
「お嬢さん、ちょっとお話を聞かせてもらえませんかね?」
そのにこやかな表情はとても恐ろしい物に見えた。
クレイは首を振って拒否する。
「友達を探さなくちゃいけないの。またにするわ」
この建物の良くない噂はたびたび聞いて来た。どこかへ売り飛ばされる、闘いを強いられるなどなど。考えられる最悪な状況の想像が次々とクレイの頭に浮かんできた。
さっと振り返って走り出そうとするとクレイはすでに囲まれていた。