第23章 人生の始まり
レーアは走っている。
どこへ向かっているかは彼女と彼女の自宅に残してきた男だけが知っている。それなのに街ゆく人々のすれ違う全ての人が彼女の行く先を知っているかのように訳知り顔で彼女に微笑んでいた。
かつてこれだけ想いが軽かった事はなかった。全てが明るかった。これから先の人生が光に包まれている確信を彼女は抱いていた。
治った。
治った。
治った。
治った。
幼少期から悩んでいた病が跡形もなく消え去った。頭重感や舌・頬・側頭部の引きつりなど言葉が上手く出ないだけではなかったそれらの症状が跡形もなく消え去っている。
あの時、ミケルがレーアへと近づいて来た。彼女はそれを受け入れた。漆黒の獣だと言った彼、眼を異様なほど燃えさせて近づいて来た彼を彼女は受け入れた。それはきっと自分よりも不幸に見えたからに違いない。微笑みを忘れていたレーアは自分の微笑みが嫌いだった。笑って口角が上がる時に右の口の端と耳の横の筋肉と皮膚が繋がっている感覚を覚えていた。それらは固まっていていつも突っ張った気持ちの悪い痛みを感じさせる。鏡で微笑みを見るといつも悲しくなった。こんな微笑みを人に見せていたのかと思ってしまう。
自分の何もかもが、いや、自分をかたどる多くの箇所を占有するそれらが嫌いだった。
神などいないかもしれない。居るのならこれだけ祈りを捧げている自分を救ってくださるはず。救わぬ神など神ではないと不遜に思った夜もある。
彼女は教会へと走っていた。今、彼女が教会へ向けて走っている事は誰が知っているだろう。
大きく口を開けて息を出したり吐いたりしている。その口は喜びに笑っていた。こんな風に大口を開けて走っていても全く苦にならない。口をこんなに大きく開ける事がこれほど気持ちの良い事だなんて思ってもみなかった。
それら全てがある人物によってもたらされた。
レーアは救われていた。この時に間違いなく救われていた。
人生が開けていた。レーアはミケルを自宅へと招いて彼の言う通りにベッドに腰かけて目を閉じた。その目を閉じた彼女の頭に手をかざしていつか狐を癒した同じやり方でレーアを癒したのだった。
たったそれだけでこれまでの全てが一挙に報われた感覚になっていた。レーアは今すぐにでも母親と父親を抱きしめたくなった。
「産んでくれてありがとう」
そう叫びながら母親と父親を抱きしめたい。そんな欲求に駆られて走っている。彼女の母親と父親はその街にはいない。レーアの知る限りでは別の街で平穏に暮らしているはずだった。
彼女は友を求めて走っていた。かつての自分を知る共にまずこの姿を見せたい。そして自分の事のように喜んでくれる友人たちを見る事が出来るはずだと確信している彼女は全力で走っていた。
未来が開けている。これまで右の眼の瞼は3分の1が動かなかったのでとても煩わしかった。それがない。全てが治っている。抱きしめて喜びを分かち合い、そして今困っている者を真に救ってくれる人のところへと案内するのだ。
ミケルは言った。
「ウィノラを連れて来てくれれば治す事が出来る。ただし、連れて来るのはウィノラだけだ。俺は神父を知らない。俺の知っている者だけでやらせてくれ」
レーアは引きつりを感じない顔を指先でひと撫でして軽やかに動く口で答えた。
「分かった」
人生が開けている。
開けられた扉からはこれまで抑え込まれていた喜びの全てが解き放たれて青空の上を飛ぶ鳩の群れのように軽やかだった。唄も聞こえる。楽器の音色も。そうしたものに乗って飛んでいく。
この彼女の喜びの輝きをミケルが見ていたら魂と肉体の完全な合致の眩しさに目が眩んでいただろう。それほど彼女は全身で喜びと言う光を放っている。レーアはこれまで良いと思った事がなかったかもしれない。そういう娘だったかもしれない。いずれはどこかで果てる身だと覚悟していた。誰とも結ばれる事なく枯れていく。砂漠の上で大事の字で横になって太陽光線の無慈悲な熱線に身を晒し続けて来たかのような人生。
扉を出た先で彼女は恐らく何かを見たに違いない。ふと、ある確信が彼女の心に浮かんできた。
「わたしはこれからどこへでも行く事が出来る、わたしは何者になる事が出来る、何かのために生きていく事が出来る!!!」
かつて病人だった。だが、ほんの5分ほど前に病人ではなくなった。完治したのだ。それまで病が押し寄せていた場所、占有していた場所にぽっかりと空いた空間がある。それは確かにある。そこに何かを敷き詰めていくのだ。どんな物だって構わない。
そしてレーアはまた扉を開けた。それは教会の扉でいつもよりも軽々しく開いた。ステンドグラスから漏れる光や所々にある燭台の小さな火の光は彼女を歓迎している。
魂と肉体が今こそ正しく嚙み合って正しく働き始めると動き出した歯車が大きな力を生もうとしていた。
「ウィノラを連れていきます、絶対に邪魔はさせません!」
断固たる決意をもってレーアは言った。
レーアが入った時と出て行った時の教会内の様子は全く異なっていた。事態はとてつもなく変化していた。それは良い方だろうかそれとも悪い方にだろうかレーアには全く分からなかった。だが、間違いなく好転はしていくはずだと思った。人知には不可能だった、そうこれまでどれだけ祈りを捧げても、どれだけの治癒系スキルを持った人々に治療をしてもらっても改善すらしなかった病が消えてしまったのだから好転しないはずがないという確信を持った上で彼女は教会内へと足を踏み入れた。
教会内は数人の負傷した教徒たちでいっぱいだった。整然と並んでいた長椅子は端の方へと移動させられていて診療所のベッドや診察台が持ち込まれている。ベッドの上では血に濡れた包帯を巻いている男が寝ていた。ベッドの数は足りていなかったので長椅子を合わせてベッド代わりにしている。背もたれが両端にあり、中央に傷ついた大男が寝ているのを覗き込む治療者の様子は傍から見ると棺桶を覗き込む参列者さながらだった。
何かが起きたらしいとレーアは思った。こんな事もミケルなら治してくれるだろうとレーアは思う。まずは彼に事情を説明する事からだ。
すると、ぼそぼそと声が聞こえて来た。彼女は辺りを見回した。インガル神父やセシルは傷ついた他の患者の包帯を巻いているところだった。レーアはセシルと特に話がしたかった。彼女なら自分の喜びを分かってくれるだろう。
声がひと際大きくなった。でも、その声の主を探している暇なんて自分にはあるのだろうか。すぐにもウィノラを連れて行かなければならない。そしてミケルの力になってあげなくてはならなかった。
呼ぶ声がまた一段と大きくなる。どうしてもレーアと話がしたいらしい。
レーアは声のする方を振り向くとそこには包帯で顔中を覆った人が長椅子で作られた簡易ベッドに横たわっていた。
なんとか身を起こそうとするその人物にレーアが近づいて行く。不安などの負の感情は喜びに満たされている彼女の心の中に入り込む余地はなく、まだ何か新しい気持ちでいっぱいでその人物と接しようとしていた。
「レーアか?」
振り向いたレーアを見てその人は戸惑いながら尋ねた。呼んでいたのに振り向いてから尋ねるなど可笑しな話だった。実際にレーアは少しだけ笑いそうだった。だが、この場にはふさわしくない振る舞いだと気が付くとその笑いを押し殺す。
その簡易ベッドに横たわっていたのはカーティスだとレーアは思った。声が少しだけ変わっているようにも聞こえるがカーティスに違いなかった。
「カーティス?」
レーアが名を呼ぶと包帯をぐるぐる巻きにされているカーティスがこくりと頷いた。
「すまん、見間違えたかと思った。とても機嫌が好さそうじゃないか」
「そうなの、とっても気分が良いのよ。こんな気分でいられるのは生まれて初めてなの」
流暢に話をするレーアにカーティスは戸惑いながら話を続けた。レーアはここで傷付いている人々を見てもなぜそうなったのか尋ねようとしなかった。それをカーティスは少しだけ悲しく思いながら問うべき事を彼女に問うた。
「ミケルはどこだ?」