第15章 祈りはどこにも届かない
レーアはルイーゼ派の教会へ戻って祈りを再び捧げていた。
彼女のスキル【祈りの道】は教会での祈りか像への祈りをしなければ発動できない。一度でも祈りを捧げておけば後は任意のタイミングで発動する事が出来る。
彼女は蛇のような生き物が地下道を這っていたあの場所へ戻ってスキルを発動した。
スキルの効果範囲は凡そ15メートルほど。彼女がその範囲内に認めたのは蛇の胴体だけで頭部がどちらで尻尾がどちらなのかも分かっていない。
ほとんど勘で彼女は街の中心部の方へと足を運んだ。とにかくそちらの方に見られない限りは人に害が及ぶ危険は少ない。
ゆっくりと歩いていく。やはり小動物の気配はない。
だが、他の生き物の気配すらない。街の下に広がる暗い空間はレーアにとっては未知だった。
ぐるぐると街の中をいくらか歩いた時にレーアのスキルの効果範囲に人が入って来るのが分かった。その反応を彼女は知っている。
「レーア、何をしてるんだ?」
カーティスとアクセル、クレイだった。
アクセルとクレイは良い具合に酔っぱらっていてずいぶん調子の良さそうな声でレーアの隣に立った。
「今、私の、スキルの、範囲内に、とんでもない、大きさの、生物の、反応が、あったの。でも、消えてしまった、から、探している」
アクセルとクレイは大笑いしたがカーティスは違った。
「とんでもない大きさ?」
「うん。多分、地下道だと、思う。上を、歩いて、探しているんだけれど、見つからない」
レーアの言う事にカーティスは真剣に受け止めて考え込んでいる。
「見間違えだよ。鼠が集まってたのをそう感じたのさ」
アクセルが言う。クレイは頷いている。
「そんなんじゃ、なかった。それなら、集合としての、反応で、感じるから。でも、今回のは、違うの。反応は、一匹の、ものだし、それに、今、こうして、街の中を、歩いて、地下道の、生命体の、反応が、以前よりも、極端に、減っている。何かが、あったんだよ」
アクセルたちは笑っている。
酔っぱらっていても酔っぱらっていなくても反応は同じだったかもしれない。
それとは反対にカーティスはごく真面目にレーアの言葉に耳を傾けていた。
「もう遅い。調査は明日にしたらどうだろう?」
カーティスが提案した。
「明日なら俺も手伝える」
レーアはこくりと頷いた。
翌日、レーアはカーティスと待ち合わせていた場所へ向かった。
彼らはレーアが初めにその巨獣を感じた例の場所を待ち合わせ場所にしていた。
「ミケル」
レーアが待ち合わせ場所にやって来るとカーティスの隣にミケルが立っていた。
「偶然にそこで会ってね。俺が誘ったんだ。改めて礼を言うよ。ありがとう、ミケル。本当に助かるよ」
「いや、巨獣というには興味がある」
ミケルのこの街での目的を聞かされてからレーアは接する距離感が分からなくなっていた。
それでもレーアは自分なりに人に尋ねてみた答えを彼に教えるべきだと考えていた。
「アクセルとクレイも来るはずなんだ。もう少し待っていよう」
カーティスが言う事にレーアとミケルは頷いた。
レーアはミケルの前に立って彼を見ていた。彼女の瞳は実直で伝えるべき事があると眼だけでミケルに語り掛けている。それを察したミケルは壁際に言って建物の陰に入ると壁に背を持たせかけて聞く準備を整えた。
「私、神父に、尋ねたの。転生者に、ついて。神父も、知らないと、言っていた。聞いた事がないって。もしミケルが、望むのなら、インガル神父を、紹介して、あげられる。あなたが、転生者を、追う事よりも、素晴らしい、事を、見つけられる、手助けを、私たちは、してあげられる、かもしれないから」
レーアなりのミケルを気遣った真心の言葉だった。ミケルは壁に背を持たせかけた余裕のある姿勢でじっくりとレーアの言う事に耳を傾けていた。まるで彼女の言う事を全て肯定すると言わんばかりの鷹揚さで。
レーアの様子はまるで人が変わったかのように違って見えた。瞳に光が宿っていて迷いがない。明らかに精神的な向上が見られる。
甘い言葉で巧みに操られているという様子ではない。以前には何度か強く押せば信心を放棄しそうな迷いがあったのに今では欠片も見られないのだ。
ミケルはこの変化の原因を見定めようとつぶさに彼女を観察した。
「そうだな、いずれ話を聞いてみるのは良い事かもしれない」
レーアの精神的な変化の原因を見極められないままミケルは頷いた。
その時にようやくアクセルとクレイがやって来た。どうやら昨晩の酔いによる二日酔いがまだ覚めていないらしい。頭に手を当てながら曇った表情で歩いて来る。
「なんだよ、新人までいるじゃねーか」
「ああ、俺が誘ったんだ。協力してくれるそうだ」
「へっ、協力ね。ご苦労なこった」
「みんな、揃ったな。それじゃあ、これからの事を話そう。レーアによるとこの地下道の内部で巨大な生き物の反応を感じたそうだ。それを確かめよう。もし本当にそんな生き物がいるとしたら街にも危険だ」
「そんな危険な奴がいるところに行くのなら俺らだけじゃなくてもっと人手がいるだろ。この地下道がどれだけ広いか分かってるのか?」
「ああ、だからまずは下見程度に済ませるつもりだ。そんな生物がいるって事が分かればいい。古い物だが地図も用意した」
どうやらカーティスが持っている小さなリュックの中には必要な道具がいくつか入っているらしい。
以前にもこんな事があったかなとミケルは自嘲気味に笑った。
どうやらその笑みはカーティスに見られていたらしい。咳ばらいをして場を引き締めるとカーティスは声を大きくして言った。
「我々はこの街を自分たちで住み良くしていく義務がある。脅威があるのならそれは除くべきだろう。違うか?」
決まりが悪そうにアクセルはそっぽを向く。クレイは気怠そうにアクセルに身を寄せたままだ。レーアだけがこくりと頷いてカーティスに賛同していた。
「行こう。少し覗くだけでもいいんだ。レーア、スキルは必要な時まで発動しないでおいてくれ」
「分かった」
そして河岸へと降りて無数の鼠がわらわらと蠢くのを見た。それは一種のおぞましさがある光景だった。
「なんだこれは?」
カーティスが驚きの声をあげた。
「やだー。行きたくない」
クレイが進行を拒否する。
「鼠、たち」
これがもはや地下道内の異変だという証拠としても良いだろうが一行は地下道内へと続く管の中を覗き見る。そこには光のない暗がりが伸びていた。
ミケルはどんな警戒も抱いていない。なぜならそこにいるのは獣の姿に形を変えた自分たちの同胞であるからだ。
みんな、何かを探している。
地下道内へ踏み込むと辺りの静けさに一同は恐怖すら抱いた。
ランプに火を灯して前方へかざすとアクセルを先頭に奥へと進み始めた。
ミケルは管の中に入った時に小さな蛇を分離させて報告に行っている。
彼らがあの空間に入ったころに報告に放った蛇が帰って来た。
『我らは手を得た。地下は大きく広い。このまま奥へと行くそうだ。手との連絡手段は蛇の姿で行うようにとのこと』
『了解した』
そしてウィノラの情報を受け取るとミケルはレーアを見た。
ウィノラとレーアの関係は良かったはず。ウィノラが梟たちに追われている間、彼女はレーアに助けを求めなかったのだろうか。
そしてウィノラと梟たちの関係はどのようなものだろう。レーアによると獣に擬態する秘儀を持っているらしいが誰がどんな獣に姿を変えるのかは知られてはいけないと言っていた。
するとウィノラはその秘匿のためにレーアに助けを求めなかったに違いない。だが、今は梟たちもルイーゼ派の可能性は大いにある。ウィノラは裏切ったのだ。なんらかの理由で同じ派閥の信徒に追われる理由があった。それはなんだろう。
ミケルは灯りを追いながらそんな事を考えていた。
「カーティスは熱心だな」
ミケルは前を歩く3人を見ながら隣を歩いていたレーアに話しかけた。
「うん、特に、カーティスは、街を、宗教を、守ろうと、想う気持ちが、とても強い。3人が所属する、ヴィルヘルム派は、強い教義を、持たない派閥。同一の神への信仰さえ、あれば良いの。懐が深い派閥なんだ。だからこそ、これ以上に、派閥が、増える事に、危機感を覚えてるみたい。それで守ろう、伝えようという、想いがとても強くなるんだと、思う」
「ミケルも我が宗教に興味が湧いて来たのかな?」
話を聞いていたカーティスが割り込んでくる。ミケルは肩をすくめて答えた。
「少しだけな」
そう、本当に少しだけ興味が湧いている。
「ねえ、動物がいないんだけど?」
クレイが言った。彼女が言ったように地下道内には動物はいなかった。鼠は河岸に集まっていたのを見ている。他の小動物の痕跡が少しもないのだった。
「あり得ねえ、ここはいっつも鼠の溜まり場なのによ。これだけ地下道内で見ねえのは異常だぜ」
分岐まで来るとカーティスは地図を開いた。
アクセルがランプを持ち上げてそれを照らす。
「ここの地図はこれだけなのか?」
ミケルが尋ねた。
「ああ、そうだ。ずいぶん古い物だけどな」
「とすると、前から構造が変わっていないんだな」
「そうだな、ここの南の区画が新しく増設されたところだがそれも50年ぐらい前だったはずだ」
「この地図は誰でも手に入るのか?」
「ああ、申請する必要が誰でも手に入る」
ミケルの立て続けの質問はカーティスやレーアには好意的に映ったようだがアクセルとクレイには好意的に映らなかったらしい。面白くなさそうな表情をアクセルが浮かべるとひそひそとクレイと話を始めた。
幸いな事にここにいる生物はミケルを襲う事はないだろう。
「右へ行こう。左へ行くとここは貯水槽で広い空間に出る。ここに入るのは専用の準備なしでは難しい」
そこはミケルの同胞たちが潜んでいたあの空間だった。カーティスは勘が良いらしいとミケルは思うとアクセルが再び先頭を歩いて左にある管の中を進んでいった。
左へ進むがそこにはそれらしい痕跡はひとつとして残っていなかった。彼らはそこに潜んでいるのが大型の生物とレーアの話によって推測しているが蛇だとは知らない。蛇は獲物を丸呑みにして数日後に糞便として排出される。ミケルたちにはほとんど食欲がないので糞便が出る心配もないのだった。あるのは蛇がやって来る前まではこの地下道内を棲み処にしていた鼠たちの細かい糞だけだった。
「何もないな」
アクセルが言った。よくよく見れば蛇が通ったところだけ糞などを初めとする骨や干せた肉片などの細かな物が潰されているのだが人の眼では見わけはつかない。
「本当に見たの?」
クレイがレーアを疑い始めた。どうやらアクセルもそれに触発されて頷いている。
「見た、確かに、見たの」
レーアは強気に答えた。
カーティスはこの問答の間に入らなかった。彼は地図を眺めてその大型の生物が棲み処にすると考えられる場所に目処を付けているところだ。
ミケルも傍観するばかりで手助けをしない。
「けっ、やるだけ無駄だぜ。こんなのはよお。なあ、カーティス、引き返そうぜ」
「そうだな。だが、最後にここだけ調査しよう。ほら、この地図を見てくれ」
カーティスが再び広げた地図の自分たちがいるであろうところをまず指さした。
「ここが俺たちのいる場所だと思う。この先に貯水槽が5つある。ここだけでも見ておこう」
レーアとミケルは頷いたがアクセルとクレイはため息をついてからまたひそひそと話をしている。
「後日、ここの反対側も見よう」
地下道は大きな貯水槽の辺りにある分岐から右と左にそれぞれ中型の貯水槽をいくつか持っている。
「おい、反対側は水が溜まってるかもしれないんだぜ。俺は嫌だぞ」
この地下道の貯水槽は右と左とで使用する期間が変わる。大雨が降った時などにはこの貯水槽に水が蓄えられる仕組みになっているのだがどうやら今の期間は右側に水が溜まっているらしい。
「あそこって臭いんだよね。嫌だなー」
そう言うのはクレイだったが彼女とアクセルはまたひそひそと話を続けるのだった。
管の中には鼠の糞便や細かな骨が散らばっている。中には砕けてしまった鼠の頭蓋骨さえあった。骨にこびりついた肉の干せた具合や血の乾きから死後数か月といったところで蛇によるものではないと分かる。そして管の下部には僅かに水が流れていた。それはどこかへと向かっているらしい。
「この水はどこへ向かっているんだ?」
「この地下道のさらに下に最も大きな貯水槽があるんだ。そこに流れてるんだよ。驚くことにそこはここにある全ての貯水槽を繋げてもまだ足りないほどの広さだそうだ」
「そこへは行けないのか?」
「鼠ならあるいは行けるかもしれないね。水を通すための小さな穴がある程度だよ。いくつか開けてあるんだ。小さな子供でも入れない。入れるのは街を管理する行政部の者だけさ」
そして一行はまた分岐に辿り着いた。
「おい、分岐をそれぞれ行ってるんじゃ時間がかかるぜ。俺と新人が左へ行くからよ、お前たち3人は右へ行ってくれよ」
アクセルが提案した事にカーティスは「そうだな、そうしよう」と頷いた。
ミケルはアクセルと2人で左の管へ入った。
アクセルが先導していく。ミケルは彼の背中を見ていた。中型の剣を持っている。以前にこの街の前の森でこの剣を振るったアクセルを見たがそれはとても軽そうに見えた。改めて見るとこの中型の剣はそれほど軽そうには見えない。身体の様子から熱心に鍛えている様子には見えないのでミケルはスキルの恩恵だろうと結論を出した。
一つ目の貯水槽を彼らは見た。そこは中型の貯水槽で一番初めに見たあの貯水槽よりもいくらか狭い。
2つ目、3つ目と見た。なんら異常なところは見られなかった。
「変だな、鼠一匹いやしねえ」
アクセルはそれが心底から不思議であるらしく繰り返し呟いていた。
「おい、新人。向こうの管が見えるか?」
3つ目の貯水槽での事だった。アクセルが話しかけてきて指で示す管はミケルたちのいる対角線上にある管だった。
「あそこを少し行ったところに2つの貯水槽があるんだ。まあ、だいぶ行くんだがな。どうせならそこも見て来よう」
「分かった」
貯水槽の壁際にある僅かな通路を歩いてミケルたちはその管に入った。そこは明らかに様子が変わっていた。鼠の糞便や亡骸がない代わりに苔が張り付いていて汚れが酷くなっている。
そしていつの間にかミケルが先頭を行き、アクセルがミケルの後ろを歩いていた。
ずいぶん歩いた。アクセルは後ろから「もう少しだ」と言い続ける。ミケルは浅薄なこの男を内心で嘲笑しながら彼の言葉に従った。
新たに2つの貯水槽を調べたがそこには何もなかった。ただ蛇の痕跡はある。どうやら同胞たちもここへは来たらしい。張り付く苔がところどころ欠けている。その欠けたところを合わせるだけでそこをどんな生物が通ったか推測できそうだったがアクセルは気付いた素振りもない。
「何もないな」
ミケルが貯水槽の床を覗きながら言うとアクセルは「そうかもな」と言ってミケルを貯水槽へと突き落とした。
どんと押されてミケルは抵抗する事なく貯水槽のまだ濡れている床に降り立った。高さは5メートルほど。崩れた姿勢を直すには十分な広がりがあって着地は容易だった。
それを見ていたアクセルは面白くなさそうに舌打ちをした。どうやらミケルが背中や足を打って身悶えする様子を上から見下ろして居たかったらしい。
「へへ、まあ、いいさ。ここは5メートルほどの壁だ。梯子も何もない。あとでゆっくり見物に来てやるぜ」
ミケルは5メートル下からアクセルを平然と見上げている。
それがあまりに淡々としているのでアクセルは妙な苛立ちを覚えて「じゃあな!」と言って去って行った。




