第14章 狐の計画
地下道に何かがいると分かった狐は地上に出る事も出来ず、かといって地下に潜み続けるわけにもいかないで八方塞の状況を感じていた。
狐も辛抱強く地下道内の危険を上手く回避し続けて潜伏していたが地上の上空を飛ぶ梟たちもまた狐に負けないぐらいに辛抱強かった。
状況はとても悪かった。地下道内の蛇は見る見るうちに大きくなっていった。通常の生き物とは思えないほどの成長の早さだったので狐はなんらかのスキルの影響だろうと考えた。
そして蛇の観察を続けている間に狐には蛇の目的を少しだけ察する事が出来た。
「蛇は何かを探している。この地下道内で」
これが狐が出した結論だった。だが、いったい何を探しているのかまでは狐には分らなかった。
後を追って様子を探ってみると蛇は物音には過剰に反応するのが分かった。普通の鼠がわずかに物音を立てただけでも噛みついて殺してしまう。食べる時もあれば食べない時もある。大きさにしてはずいぶん少食だと狐は思った。
蛇の目的は良くなかった。いかなる探し物であるにせよ地下道に留まるのなら上空の梟たちに向かわせられない。狐はあくまでもこの蛇と梟たちを闘わせてその間に逃げる算段でいた。
それが唯一、この状況でとれる作戦だと疑っていなかった。
梟たちは狐が移動するのをどうにかして把握しているらしい。もしかしたら地下道に潜むこの巨大な蛇の事も分かっているかもしれない。
狐が上空を覗き見るたびに建物の縁に停まった梟や橋の欄干に停まっている梟を認める事が出来た。
必ず1匹はどこかにいて狐を見ている。
前門の虎、後門の狼といったところだろう。狐はいよいよ追い込まれていた。飢えと渇きはいくらか感じるようになっている。
夜に行動を起こそうと狐は決心した。梟たちを地下道内に仕向ける事は難しい。地下道内は飛行する梟にとっては不利であり、狐が優位に立てる。待っていればいずれ出て来ると思っている梟に出て来るのが強力で巨大な蛇だとしたら面食らってその場を離れるかもしれないし、あの機敏な動きは梟も牙を逃れる事が出来ないかもしれない。
狐は夜を待った。
蛇の拠点は最初に狐が見たあの広がった大きな空間だった。そこからなら狐も行動が取りやすい。蛇はその空間に繋がる管の全てを調べ上げている。狐は自分の潜む管を調査されている間は出入り口の辺りでじっとそれが終わるのを待っていた。
そうしてぐるぐると管の中を行ったり来たりするこの巨大な蛇の観察を続けて2日が経っている。蛇が何を探しているのか狐にはまだ分からない。
狐には作戦があった。梟たちに向かわせるには自身を蛇の標的にしなければならない。両者の板挟みの中で上手く立ち回って標的の奪い合いをさせるのだ。
この作戦のために狐は機会を見計らっている。どんな時に蛇の標的となって梟たちのところへと向かわせるかを考えているのだった。
それが今だと思った。
ずるずると這う蛇が梟たちの停まっている建物の傍の出入り口までやって来ていた。
狐はいよいよ挑発するために蛇の目の前を横切った。少し前から気配はちらつかせていたので蛇の関心を買うのは簡単だった。動きが速くなった音が聞こえる。
上手くおびき寄せていたのは少しの間だけだった。明らかに蛇の動きの方が狐よりも速かった。追いつかれるだろうと考えたが出入り口は見えている。あそこを出るまではどれだけ急いでも届きはしない。
そうした確信があったのだが狐を追う音が途絶えた。蛇はもう関心を失ったかのように沈黙している。
罠だろうかと狐は警戒しながら耳を澄ませると微かに遠ざかる音が聞こえる。蛇が狐に対する興味を失ったのだろう。かといって地下道内を自由に動き回れば攻撃は免れないに違いない。いや、むしろこれを機に別の出入り口へと向かうべきではないかと思ったがそれをするには蛇の棲み処となっているあの空間を通らねばならない。
狐は意を決してまた挑発する事にした。また1歩2歩と蛇へと近づいていく。
動きはとてもゆったりしている。まるで誘われているような………。
勘が働いた時にはもう遅かった。狐の身体は別の蛇に囚われていた。管の上部に張り付いてその下を狐が通るのを待ち受けていたのだ。
きつく締めあげる蛇は目の前をゆったりと這う蛇の半分もない。どうにか抵抗して逃れようと隙を窺うが蛇の力は想像以上に力強い。2匹いたとは全く気が付かなかった。
そして締め上げがますます強くなって狐はもう立っていられなくなった。ごろごろとのたうち回って抵抗する。
狐は爪を蛇の身体に突き立てて鋭い犬歯で噛みついた。それなのに蛇の外皮は驚くほど硬く突き刺さりもしない。
もう奥の手を使うしかなかった。
「アゥズグ!」
すると狐は人間の娘の姿に変わった。大きくなった身体に蛇の締め付けは緩んで逃れる事が出来た。
体勢を立て直して娘は蛇と対峙した。着ている服はぼろぼろで武器と言えば太ももに巻いていたベルトにある小さなナイフだけ。そのナイフを抜いて目の前に構えるが蛇の姿は跡形もなく消えていた。
場所はあの開けた空間の傍にある管だ。出入り口からはそれほど遠ざかっていない。
娘はクロイン派のウィノラだった。あの無賃宿でレーアと親しげに話をしていた娘が動物に姿を変えて宿にいた梟に追われている。
ウィノラの背後にはあの蛇がいる。ウィノラは気が付いていない。気配を殺して背後に迫っている。
そして蛇はウィノラに襲い掛かった。
突然に感じられた巨大な気配に振り返る間もなくウィノラは蛇に再び囚われた。今度はあの巨大な蛇だった。締め上げる力は強い。ウィノラの身体を締め上げて骨を軋ませる。持っていたナイフも手には握ったままだが動かす事すら出来そうにない。
ウィノラは目だけを動かしてそこにいったいどれだけの生物が潜んでいるのか見ようとした。だが、先ほどに狐の姿のウィノラを締め上げた小さな蛇は見つからなかった。
もう何が何だか分からないと諦めて死を覚悟した瞬間に手からはナイフがぽちゃんと地下道を流れる水の中へと落ちていく音が響いた。
すると目の前に蛇の顔が現れた。舌の動きがしゅるしゅるという音と共に見える。
そして蛇が口を開いた。喰われるとウィノラは思った。
「転生者を知っているか?」
蛇が喋った。その驚きにウィノラは何も言えなかった。締め上げられる力の強さと驚きで身が固まっている。
「喋ったという事はクロイン派の信徒なの?」
苦し紛れの声が漏れた。
「必要のない事を喋るな。もう一度だけ聞く。次にも必要のない事を喋ったら丸呑みにしてやる。転生者を知っているか?」
おとぎ話でなら知っている。だが、この質問はそんなお遊びの問答のレベルじゃない。
「知らない。聞いた事もない。転生者なんておとぎ話よ。そんなの信じてる奴なんてこの街にはいない」
動物に擬態するスキルを授けるのはクロイン派に伝わる秘儀のはず。それならもしかしたらこの蛇はクロイン派の信徒なのかもしれないと僅かな希望に縋ろうとウィノラは考えた。
「おとぎ話ではない。転生者は存在する。その存在の否定は我らの存在の否定だ。転生者が表であるのなら我らは裏の存在。答えろ、転生者の知っている事を話せ。さもなければもっと力を強めてやろう」
ウィノラを締め上げる力がさらに増す。これ以上に締め上げられてしまったら呼吸が出来なくなる。肺を広げる事が出来なくなってウィノラは苦しげな呻き声をあげた。すると、少しだけ力を緩めた蛇が再び口を開いた。
「話せ、転生者の事を」
ウィノラは転生者の情報など持っていない。
「本当に私は転生者の話なんて聞いた事がないんだ。本当にないんだ」
ウィノラは蛇の力が緩められたのを見て僅かに希望を持った。無慈悲に殺すような者ではないらしい。
「クロイン派の信徒か?」
「馬鹿を言うな。俺は神など信じない。お前の言う事は良く分かった。だが、これからする質問には良く考えて答えろ。もしお前が転生者であったならこの街に留まりたいと思うか?」
蛇が言った事に従ってウィノラは考え始めた。
と言っても考えるふりでしかない。ウィノラの答えは決まっている。だからこそ今、この隙に信徒ではないと言ったこの巨大な蛇と梟たちを如何に闘わせるかを本気で考え始めたのである。
驚く事にウィノラはまだ軌道修正が可能だと考えていた。まるで諦めていなかった。
蛇は蛇でそんな事はどうでも良かった。蛇もウィノラを締め付けていながら考えていた。この娘をどうやってこき使ってやろうかと考えている。ウィノラが考えている答えはどうでも良い。なにせ彼女は転生者ではない。魂と肉体を合致させた紛れもなく完全な人間だった。
それに加えて転生者は知らないと言う。それは恐らく真実だった。レーアも知らないと言っていた。おとぎ話だと繰り返していた。そしてウィノラもそれを繰り返す。この街に暮らす他の住人に尋ねても同じ事を繰り返すだろう。つまりはそのように教育されているのだ。宗教によって偶像崇拝を許さないという教義から。
転生者は間違いなくいる。この大きな街の宗教という富と権力の集合の中で転生者の臭いがこれっぽちも感じられないのは不自然だ。転生者は富と権力と名声を求める。
蛇はいくらか楽しくなって来ていた。完全に姿を隠したつもりでいる転生者を暴き、鼻を明かす事が出来るかもしれない。そうと思うと早くその時を見たいと思う。
ウィノラが口を開いた。
「私だったら、こんな街にはいない。すぐに出て行くよ。だって、この街は狭くて窮屈だから」
蛇が予想していたような答えをウィノラは言った。
ウィノラの答えを聞き終わった時に蛇はある方法を思いついた。
蛇の身体の側面にある一枚の鱗からまた別の頭を出した。双頭の蛇となるとその蛇がウィノラへ近づく。
ウィノラは新しく伸びて来る蛇の頭を驚きの眼で見つめている。小さな口から舌が出入りするのを見てウィノラは次に起こる事が分かった。巨大な蛇に締め付けられながら抵抗するが全く身動きが出来ない。
頭の中はほとんど真っ白でその空白にぽつりと何かが湧いて来た。その湧出は「どうして私はいつもこうなんだろう?」という心からの嘆きだった。
そして小さな蛇がウィノラの首に咬みついた。ぶすりと皮膚を貫いて牙が肉に突き刺さる。痛みよりも嫌悪の方が強かった。それからは絶対に逃れるべきだったという嫌悪が後悔と死の予感を濃く抱かせる。
「毒を注ぎ込んだ。この毒は3日後にお前の命を奪うだろう。だが、もしお前が転生者の何らかの信頼できる情報を持ってきたら血清を注ぎ込んでやろう。忘れるな、3日だ」
蛇はウィノラを解放した。
自由になった手で首元の咬まれた箇所に手をやる。濡れている。それは血だろうか、それともこの蛇が注ぎ込んだ毒だろうか。どろりと手に付いたそれを見ると赤く色が付いていた。
「毒………、3日?」
無謀だとウィノラは思った。この街でそんなおとぎ話の話を続ければ目を付けられてしまうかもしれない。
ウィノラは蛇を見上げた。それは紅く光る眼で無慈悲にウィノラを見下ろしていた。