第13章 祈りの道の先にあるもの
インガル神父の声は静かな教会の中によく響いた。
彼のゆったりした話し方はレーアの話す速度によく合っていたし、心配りにも思えて自然と彼の言葉はレーアの耳へと優しく入って来る。
「レーアさんだけではなく、我々の神に『救い』を求める全ての人々がそうした常軌を逸した存在を、定かではない存在を考える人が現れるのではないかと考えた事があります。あり得ない事ではないでしょう。我々の神は人間よりも全知全能に近い存在ですが祈る我々の全てを余さず救ってくださるとは限らない。苦悩が足りない、超越が足りないかもしれません。それでも我々はその神の姿を求めています。
レーア、神は確かにあなたの病をまだ癒していません。ですが、いずれあなたの祈りが届く日が来ると私は信じています。なぜならあなたは我々、ルイーゼ派の中でも特に長い間、病に苦しんで祈りを捧げているのですから。転生者などおとぎ話です。そのような偽りの希望に惑わされてはいけません。偽りには力はなく、真実にのみ本当の力が宿るのです」
インガル神父の言葉を聞いたレーアはすっかり転生者の事を頭から除いてしまった。絆されて信頼を裏切る一歩手前まで来ていたのだという事実に気が付くと目を涙に潤ませて情熱的にステンドグラスに描かれている神の姿を強い眼差しで見るのだった。
そうしたレーアを見てインガル神父はにっこりと笑うと握っていたレーアの手を放して長い間をとってから再び口を開いた。
「私は、これはあくまでも個人的な意見ですが転生者の話など聞いた事がありません。私が信じていないからこそ耳に入って記憶に留めていないのかもしれませんがおとぎ話だと思っています」
「はい」
そう言ったレーアの眼からは一筋の涙が零れ落ちていた。治らない病を前に不安だったに違いない。インガル神父はそんな彼女の背を優しく撫でた。
「ゆっくりここで過ごしなさい。外から帰って来てすぐに祭りでしたからね。疲れが溜まっていたのでしょう」
レーアは頷いた。
それからインガル神父はやる事があると断ってレーアの傍を離れていったがレーアは疲れていたのか、はたまた元気はいっぱいだったのか全く自分で判断できない感覚に戸惑ってその椅子に座ったままさらに長い時間を過ごすのだった。
去り際にステンドグラスの前に置かれた神の像の前で跪いて神に敬虔な祈りを捧げた。それはいつにないほど長い時間でレーア自身が満足するまで行われた。
それからレーアが教会を出たのは夜のとても遅い時刻だった。疲れのすっかりなくなって彼女は明らかに元気いっぱいだった。
夜でこれから寝るしか予定はないのにこんな元気が余っていては困るなと自嘲気味に笑った。
教会からレーアの自宅に帰るにはそれほど遠くない。有り余る元気を感じているレーアは散歩がてらに遠回りをする気になった。彼女はよくこうして目的もなくふらふらとどこかへ歩く事が好きだった。そうした時に街を見て来たこれまでとは異なる視点を得られる気がしているし、なによりそんな時は往々にしてひとりになれる。
その時も彼女はひとりだった。街の灯りはもうほとんど消えていて祭りが続く大聖堂の周りだけがずっと明るかった。
夜の街を歩く事はそれほど怖い事じゃない。治安の悪い区画があるにはあるがレーアには戦う術がある。
スキル【祈りの道】が周囲にある生体反応を教えてくれるので近くにどんなものが潜んでいるかが分かるのだ。
このスキルはそれほど強くない。というのも祈りを捧げて発動するスキルであり、その後には一定時間しか効果が発揮されない。今はまだ祈りを捧げ終わってからそれほど時間が経っていない。効果はレーアが自宅に着くまでは続くだろうと思われた。
彼女には感覚的にそのスキルの効果範囲が分かる。その理解はとても正確だった。その正確さに彼女はとても好感が持てるのだった。その範囲は円ではなく球であり、何物にも阻まれない。
街の中心部からずいぶん離れた端の方まで来てしまっていた。レーアは街を取り囲む城壁を認めると引き返していよいよ自宅へと歩き始めた。これで家に入って着替えをしてベッドに入って本でも読めばほどなくして眠気はやって来るだろう。
スキルの効果ももうすぐ切れるころだ。
明日、ミケルに会ったらすぐに転生者の話をしようと彼女は考えた。おとぎ話だと告げるのだ。そしてそれでもミケルが曲がらないなら悲しいけれどこの街での暮らしはミケルには不向きだと教えてあげるしかない。そうでもしなければ彼は苦しむ事になる。偶像崇拝はとても罪深い事だからだ。
レーアはこんな時にまたひょっこり彼が顔を出すのではないかと思った。だが、そんな期待は持たない。
彼は今、どうしているだろうか。この夜にも転生者を求めて歩いているのだろうか。たったひとりで、恐らく誰にも理解されないまま、つまりはおとぎ話だと笑われて少しも信じてもらえないままでこの夜の街をさ迷っているのかもしれない。
そう思うとレーアは自分の姿と重なって悲しくなった。自分も言葉が上手く出ない病のせいでとても不安になった時や話を聞いてもらえない寂しさを抱いた時に何時間もたった一人でこの街を歩いたものだった。
そんな同情を抱くと途端にレーアは彼に街を出る事を進めようという考えをすっかり捨てて神を信じるように説得しようという気になった。おとぎ話を信じる心があるのなら神を信じるのに躊躇いは少ないだろう。信じるものが変わるだけなのだ。
橋が見えた。大きな橋だった。レーアはこの橋があまり好きではない。川は汚れていて綺麗とはお世辞でも言えないし、橋は長い間、手入れがされておらずいくらか古びている。
その橋と街の中心街を繋ぐ大きな通路を中心街へ行く方向に曲がれば彼女の自宅へはあっという間に着くだろう。
その角を曲がった時にレーアはスキル【祈りの道】の直径15メートル球形の範囲にそれまで小さな動物の反応が全く得られなかった事に気が付いてこれまでの散歩とは全く異なっている事を知るのだった。
いつもならいくらかの反応が得られるはずだったのに。
そして今、角を曲がった瞬間に身の丈20メートルはあろうかという彼女のスキルを大幅に超える大きさの長い生物の反応を認めるのだった。
「蛇?」
角の辺りでしゃがんでレーアは地面に手を付けた。
生体反応は蛇のような細長い反応で彼女の範囲に入った瞬間にすぐに消えてしまった。
地下道に何かがいると彼女は思った。それと同時に【祈りの道】の効果が切れてしまって後には少しだけ肌寒い風が吹く夜だけが広がっている。