第3章 消えゆく魂、閃光に包まれて
獣は人型の姿に戻った。セシルの前に見せたあの美少年の姿だった。服もトリフォンの古着を着ている。
ミケル・バシューチェカの死体を彼らは土の中に埋めた。ルーク・ラシュッドを憐れんだためではない。彼らの内部にいるこの肉体を見て輝いて希望を持った今では絶望に打ちひしがれている魂のために行なったのである。
あの肉体と魂を読み取った時に彼らはスキル≪記憶の神殿≫、≪理を追究する者≫、≪大賢者≫を得ていた。ミケルに肉体はない。彼らは無数の魂で作られた肉体をしている。いわば魂で作られた魔力体であった。スキルは1つの魂に1つまで刻まれる。彼らは数多ある魂に得ていたスキルを刻んでいるに過ぎなかった。
獣は、ミケルと名乗るのを止めるつもりはない。誰かに名を問われたらミケルと名乗るように決めた。
彼らは用も無くなった村を出て行こうとしたが、ある想念がどこからともなく湧いて来た。
『父と母に会おう』『そうだ、会うべきだ』
どの魂も両親への期待を持っていた。
だが、彼らはミケル・バシューチェカの両親がどこにいるかを知らない。調べる必要がある。
ミケルは再びあのルーク・ラシュッドが暮らしていた屋敷の中に入った。彼は、ミケル・バシューチェカの姿へと変えていて屋敷の中でも違和感がない。
屋敷の中を歩いてルーク・ラシュッドの書斎を探した。彼が歩いているとメイドのひとりが寄って来た。それはルーク・ラシュッドの寝室から出て来たあの美人なメイドだった。
「ミケル様、どちらへ行かれてたんですか?」
「ちょっと外にね」
「まあ、シーツも無くなっていてお部屋が空っぽだったので驚いたんですのよ」
「悪かったね、ところで私の書斎まで案内してくれないかな?」
「あら、寝ぼけているんですか? 書斎の場所まで忘れるだなんて」
「そうかもね」
「昨晩はお楽しみでしたもの。ずいぶん張り切っていましたものね」
などと言いながらメイドはミケルを案内して行く。彼女は不思議そうにミケルを見ていた。彼女の目は屋敷の主人を主人の書斎へ案内するという状況が不思議でならないらしい。
ただやはりこのメイドはルーク・ラシュッドに目をかけられていたようでしきりに目を向けている。その目が明らかに惚れ込んだ眼をしていてミケルを戸惑わせた。
「きみがここに勤め出してからどれくらいになるかな?」
「嫌ですわ、いつものようにマリと呼んでくださいませ。私は勤めて5年になります。お忘れですの、ミケル様が拾ってくださったのに」
ミケルは頭を掻いて誤魔化すとマリが立ち止まって「ここですわ」と大きな部屋を指示した。
「ありがとう」
礼を言うとマリは「他にご用件はありますか?」と尋ねるので「ない」と答えると少しだけ寂しそうな目をすると身を翻して歩き出した。
『待て、彼女は使える』『そうだ、貴重な情報源だ』『この男に心酔している様子だ。使えるモノは傍に残しておくのがいいだろう』
総意が示されるとミケルは口を開いた。
「待て、マリ。私と書斎に入ろう」
呼び止められてミケルの傍へとすぐにやって来たマリはずいぶん嬉しそうだった。
書斎の中はよく整えられていた。本が数えきれないほどたくさんある。この中からミケル・バシューチェカの故郷を探し出すのは難しいかもしれない。
書斎の中央にある机はとても大きい。椅子のとても大きい物だった。
マリは扉のすぐ傍に控えていて立ったままで居る。ミケルの命令を待っているのだろう。中の様子をマリは丹念に観察している様子だった。
「マリ、きみはここに入るのが初めてだったかな?」
「はい、初めてです。イヤですわ、ミケル様ったら書斎に入るのを厳禁にしていらっしゃるのに、それもお忘れなんですか?」
「まだぼうっとしているようだ。ところできみは私の故郷を知っているか?」
「はい、ここから南へ行ったところにあるレフイという村の出身と窺っておりますが、私が知るのはその程度です」
「きみはそこに行った事はあるかな?」
「ありません。徒歩で行ける距離ではありませんし、馬も私は持っておりませんから」
知りたい事を知る事が出来た。もう用はない。
ミケルは大きな椅子に座った。机に設えられた大きな引き出しを開くとそこには1冊の日記帳が入っていた。
それを手に取って開くとそこにはルーク・ラシュッドが転生してミケル・バシューチェカとして生まれてからの事が淡々と記されていた。
彼はどうやらなぜ、転生したのか、どうやってそれに至ったのかを調べていたらしい。
『調査していたのか』『そのようだ。我々の存在に勘付いている様子ではない。その記述は見受けられない』『だからこそ警戒心がなかったのだろう。我々の勝因はそこにあった』『この本は手元に持って居るべきだ』『賛同する』『私もだ』『我々も地盤を持つべきではないだろうか?』
誰も答えなかった。
『地盤とは何か?』
『我々の目的を遂行するに転生者の情報収集は必要になる。そうした活動をするために人々を使い、更に効率的に進める必要があると考える』
『一理ある』
『賛同する。だが、それはここが適しているだろうか?』
これにも答えがなかった。
マリはミケルが引き出しから取り出した日記帳に夢中になっているとしか見えていない。それに故郷についての問いかけがあった。故郷を懐かしく思っているのだろうかと彼女は思った。
書斎の中は沈黙が支配している。
『ここで構えるべきではないだろう』
『もっと大きな街や都市で地盤を持つべきだ』
『賛同する』
そうしてミケルは日記帳を閉じると立ち上がった。
その突然の事に驚いたマリは何か言葉を発しようとしたのに詰まって言葉が出なくなってしまった。
「マリ、私はしばらくの間、屋敷を留守にする。後の事は任せたよ」
「は、はい。どちらへ?」
扉を開けて出て行こうとするミケルは彼女を見据えて言った。
「レフイへ、久しぶりに故郷を見て来る」
そうしてミケルは屋敷を出て行った。
更に南へと彼は向かった。
四足獣が森林を疾駆していく。途轍もない速さだった。
ミケル・バシューチェカの屋敷ではマリが屋敷の主人が故郷を目指して発った事を他のメイドたちに話している。懐郷心が出たのではないかと言っているが彼女らはしきりに不安を口にした。というのもミケルの馬が馬小屋に残っているのが庭師によって報告されて魔法で行ったに違いないと誰かが言うとマリが部屋を出る時に杖も剣も持っていなかったと確言したからである。
彼女たちがミケルの姿を追って外に出る頃には彼の姿はなかった。
四足獣は、走っていた。村があると聞いたが正確にどこにあるかは分からない。どれだけ走っても着く気がしなかったのでミケルはドラゴンへと姿を変えて上空からレフイの村を探した。
それはすぐに見つかった。丘と山を越えた先にある小さな村だった。
ドラゴンはそのままその山を越えたところで姿を再び四足獣へと戻した。狼のような毛並みをしているが狼の大きさではない。牙もそれよりもひと際大きく鋭かった。
続く森林の中の獣はこの四足獣を見て逃げて行く。襲い掛かる者はいない。
夜になる前に村へ着きたい。
獣は更に速度を上げて森林を駆け抜けていく。
そしてミケルはレフイの村へと辿り着いた。
レフイの村は閑散としていた。ずいぶん寂れた村だった。昼間だと言うのに外に出ているのが老人や中年の人しかいない。若者はほとんどいなかった。
ミケルは人型の姿になるとやはりトリフォンの古着を着て村の中へと入った。
ミケル・バシューチェカの生まれたバシューチェカの家はすぐに見つかった。ただどうやって入り込んだものか分からなかった。小一時間悩んで導き出したのはミケル・バシューチェカの姿で行くのは得策ではないという結論だけだった。
ただ彼はあの少年の姿で村の中を歩きながらバシューチェカ家の様子を窺っている。
ようやく動きがあった。その家から女性が出て来たのだ。なにかを小脇に抱えている。バスケットだろうか。重そうではない。ミケルはその女性の後を付けて行った。
村の外れの方まで歩いて行く。なにやら急いでいる様子だ。
そしてその女性は畑仕事をしている男性に手を振って呼びかけた。
すると男性は手を止めて振るっていた鍬を柵に立て掛けると傍にあったベンチに腰かけて女性を手招きする。
2人は並んでベンチに座った。その間には女性が作って来た昼食のサンドイッチがあった。手に取って美味そうに頬張りだしたのをミケルはじっと見ていた。彼がこれだけ目を惹かれたのには当然ながら理由がある。その2人がミケル・バシューチェカにそっくりだったのだ。間違いなくミケル・バシューチェカはこの2人から生まれただろう。そしてその少年を作るひとつの魂もまた父と母を眺めていた。
ミケルは少年らしい様子を崩さずに2人の座るベンチへと近づいて行った。
「ん、おや?」
ミケルに初めに気が付いたのは父親だった。
すると母親も彼の姿に気が付いてにこりと笑っている。ミケルもまた微笑み返した。そのあまりの可愛らしさに2人は思わず顔を見合わせると互いにまた大いに笑うのだった。
「なにしてるの?」
近付いたミケルが2人に尋ねた。
「今はな、畑仕事をしていてお昼の休憩中なんだよ」
「サンドイッチよ、とっても美味しいの」
「そうなんだ」
気の無い返事である。ただそれ以外に答える言葉を持ち合わせていなかった。
ミケルを構成する全ての魂がこの場において赤子のように無力だった。父と母という存在に対して彼らは羨望を抱いて眺めて、今にも泣き出してしまいそうなほど全てが新しかった。
魂が洗われていくようだった。この時ばかりは彼らは憎悪も憤怒もない。ただただ愛を求める希求だけがそこにあった。
「食べてみる?」
「よさないか、こんな物あげたって仕方がないだろう」
「だって………」
こっくりと頷くと母親が「あら」と言ってひとつのサンドイッチをミケルへと手渡した。味など感じなかったミケルだったのはセシルの家で食事をした時から知っている。食事というのは我らにとって無用の物というのが彼らの結論だった。
そしてこの手渡されたサンドイッチは農夫である父親の腹を満たすためだけのパンに野菜と卵を挟んだ簡単な物である。
それを食べるとミケルの魂たちは歓喜した。味があるのだ。それもとても美味しい。
「美味しい」
素直にそうと呟くと母親は嬉しがってまたひとつのサンドイッチを渡した。自分の分だったが構わずにミケルへ手渡すとそれもまた美味しそうにミケルが頬張るので母親は上機嫌になって父親を見た。
父親もにっこりと笑ってこの少年を見ている。
父親はなにか喋りたそうにしているが母親があれやこれやとミケルを相手に喋るのでそれを聞いていた。母親も父親もミケルに様々な事を尋ねた。そのどれもがミケルに話してほしいという、声が聞きたいという欲求が隠し切れないほど表れていた。
ミケルは全ての質問に丁寧に答えた。答えられる限りにおいて。
そして長い時間が経った。父親は立ち上がって鍬を手に取る。鍬を振り上げてそれを下ろしていく。ミケルは母親とその様子を眺めていた。母親の方はすでにミケルに心酔していてもっと彼に長い時間を傍で過ごして欲しいと願ってあれやこれやと気を引いている。
ただミケルもそこを離れるつもりがなかった。
立ち上がって父親の方へと歩いて行くと母親もそれに付いて来た。
「畑仕事に興味があるのか?」
「家じゃやらないのか?」と繋げて尋ねて来る。
「うん、やらない」
「そうか」
2人ともミケルが何処からやって来たのか尋ねなかった。
「それ、重いの?」
ミケルが尋ねると父親は鍬を置いてミケルを見ると「重くはないさ」と言った。
「男の子ならこれくらいは持てるようにならなきゃな。やってみるか?」
父親が提案すると母親が「お父さん、ダメよ」と口を挟んだがそれには答えないでミケルをじっと見ている。
「うん」
鍬を手に取って細い腕でそれを持った。もっと身体を大きくする事が出来たならそれは簡単に振り上げる事が出来るだろう。だが、そうする訳にもいかない。ミケルはよろめきながら鍬を振り上げて地面へと振り下ろした。
「まだまだだな。いいか、貸してみろ」
父親は鍬の振り方をミケルへと教え始めた。
再び鍬が手に戻るとミケルは習った通りに鍬を操った。
父親ほどではないがそれなりに扱えるとミケルはまた鍬を振り上げた。
「呑み込みが早いな。この子は賢いぞ」
父親が呟く母親は口に手を当ててなにかを堪えているようだった。
父親と母親に見守られてミケルは畑の一列を耕してしまった。ずいぶんな労働だった。
「お疲れさまだな。ありがとう」
父親が手を差し出すのでミケルは持っていた鍬を渡すと空いている手をミケルの頭に添えて撫でた。
「偉い子だ」
「うん、うん。家になにかあげられる物があれば良かったのに」
ただミケルにはもう何もいらなかった。受け取れる全てを受け取っていた。全ての魂が感動に震えている。
ある一方ではこの脱力感に懸念を覚えて危惧した。
『すぐにもここを離れよう』『そうだ』
反対意見もまた生まれた。
『いや、まだ居てもいいはずだ』『そうだ、時間ならいくらでもある』
この場に留まる魂が多かった。
強い望みが叶うならばそこに留まる甘い誘惑にそれらは勝てなかったし、去る事を提言する者たちもさして強く言えないでいた。全ての魂がこの温かな中を去る理由がないのだった。
そして父親が「ここまでにしよう。あとは明日やるよ」と言って鍬を肩に担ぐと家の方へと歩き出した。
畑から出てしまうと母親がミケルに対してぼそりと言った。
「私たちの子があなたのような子だったらよかったのに」
「よさないか。この子もまたどこかで親を持つ子だぞ」
その瞬間、彼らの全ての魂が声にならぬ咆哮をあげた。もう全てが分からなくなってミケルは走り出していた。
彼は泣いていた。頬に涙が伝うのを止められない。何処に向かっているのかも分からない。我々の目的を遂行しなければならない。使命を達成しなければならない。その全てが一瞬にして報われたような気がした。
そして彼はレフイの村を出て振り返った。再びバシューチェカ家を見た時に玄関先で母親が父親の胸に顔を埋めて泣いているのが見えた。
するとミケルの中で一瞬の閃光が起こった。ひとつの魂が完全に満たされて悔恨も憂いもなくただただ満たされて解放されたのだ。獣はひとつの魂が集合を離れて次の誕生を求めて昇華したのを感じていた。
スキルも同時に1つ消えていた。彼が魂と繋がりを強くさせて持ち去ったに違いない。スキル≪大賢者≫が消えている。餞別だ、とミケルは思った。次に生まれる時にその魂は保有しているスキルを刻まれて生まれる事だろう。