第11章 救いを信じる者たち
レーアはその日の治療を朝の早い時間に行った。治療と言っても彼女が受けるのはもう既に5年も受けている弱い治癒魔法だった。疲労が軽減する程度の効果しか得られないそれを受け続けるのには訳があった。
レーアが信奉するルイーゼ派は神に救いを求める宗派だった。そしてこの宗派の中にも派閥がある。概念的な救いを求める信徒たちと実際的な救いを求める信徒たちとで二分されていた。
当然ながらレーアは実際的な救いを必要としている。彼女には病を治すという実際的な救いが、あるいは進行を抑えるという慰めが必要だった。
どちらにも存在意義がある。互いに寄り添いあいながら“救い”を探し求めるという教義の元に活動している。
こうした活動のためにもレーアのような通常の魔法やスキルでは治癒できない存在は必須だった。レーアが受ける治療を長年にわたって観察している神父は繰り返し手記に書いていた。
「我々が続けるこの治療は果たして肉体的な治癒を目指したものなのだろうか、それとも精神的な治癒を目指したものなのだろうか。いずれにせよ治癒に進捗がほとんど見られないでも彼女は生きている」
救いは誰にでも必要な事だった。
「レーアさん、調子はどう?」
名を呼ばれてレーアは振り返った。
治療を終えて神父に挨拶をして今日の祈りを神へ捧げ終わったところだった。
レーアを呼んだのは少女だった。この街の生まれではない。美しい顔立ちには微かな幼さがあるがそれを補って余りある大人びた慈愛に満ちた瞳をしている。その瞳は淡い蒼で透き通るように流れる長い金髪をしている。そして驚くほど美しい指をしている。
その少女はこのルイーゼ派の信徒が布教のために各地を回っていた時に“神”に出会った少女だった。いずれ誰かに祈っていたに違いない。彼女の祈りを見かけたその信徒はその姿を見てルイーゼ派の教条を語るとその少女は旅の同行を願い出た。
当然ながら宗教色の薄かった少女の両親は反対したが少女は無理に押し切ってその村を飛び出したのである。
「セシル、レーアで、良いって、言ってるのに」
「だって、年上の人だもの。今日の予定はあるの?」
その少女は父母をトリフォンとエミリアに持つあのセシルだった。彼女はミケルと出会ってから南方への祈りを捧げ続けてこんなところまで来てしまったのである。
ミケルとの出会いからずいぶん月日が経っている。いくらか成長していて大人びていた。そしてそれ以上に母親に似て美しくなっている。
「何も、予定は、ないの。今ね、知り合いが、出来たの。とても、強い人。その人に、街を、案内して、いたんだけど、今日は、予定が、あるみたい。今度、セシルにも、紹介するね」
「うん、楽しみにしてるね。強い人なんだ?」
セシルがゆっくりと近づいて教会の長椅子の端に座るレーアの傍に立った。
「そう。とても、本当に、強い人。この街でも、あれだけ、強い人は、簡単には、見つからない。若い、男の人なのに、すごいんだから」
「レーアがそんなに言うなんてよっぽどなのね。でも、ちょっと安心だな。そんなに強い人ならレーアが街の外に行くのも安心だもの」
セシルは毎朝毎晩にこの街を出て外で活動する全ての宗派の信徒のために安全を祈る。彼女はそうした祈りをいつも捧げられる女性だった。
「ううん、その人は、人を、探しているんだって。だから、信徒って、訳じゃないの」
「人を?」
「うん。たぶん、とても、悲しい目に、あったんだと、思うな。とても、悲しい目を、している、人だから」
「何も、予定がないのなら一緒にお昼ご飯でもどうかな?」
セシルは照れ臭そうにレーアを誘った。修道女の服を翻して照れ隠しに顔を背ける。
「もちろん、行こうよ」
教会を出て少し行ったところにあるカフェテラスで軽い食事を始めた。
「また外に行く予定があるの?」
「今は、とうぶん、無いよ。大丈夫、だから。そんなに、心配?」
「だって………」
セシルはちょっと言い難い様子で目をそらすとあらぬ方を見て「友達、だし」と小さな声で呟いた。
「ありがとう」
レーアはにっこりと微笑んで応じた。
すると緩やかな坂道の下の方から男女が歩いて来るのが見えた。レーアはこの姿が目に入った時に嫌な気分になった。
カーティスとアクセル、クレイがこの坂道を上って来ていたのだ。
「よお、レーア、セシル」
アクセルが声をかけた。
「3人で、どうしたの?」
「へっ、集会さ。この道を通るならそれしかねえさ。セシル、元気か?」
「はい、私は元気ですよ。アクセルさんはどうですか?」
「俺も元気だよ。なあ、今度2人で夕食でも食べに行かないか、おごるよ?」
「夕食はいつも教会で頂いておりますし、アクセルさんの言う時間はお祈りの時間なんです」
「良いじゃないか、ちょっとぐらいさ。美味しいところを知ってるんだよ」
アクセルは気軽にセシルの傍に立って彼女の座る椅子の背もたれの角をまるでセシルの肩を抱き寄せるかのように掴むのだった。セシルは困ったような眉をしつつ相手の機嫌を損なわないように優しく微笑んでいる。
「アクセル、無理に、誘うのは、良くない」
レーアが間に入ってセシルへの圧を弱めるとアクセルは軽く舌打ちをして再び歩き始めた。クレイは何も言わずにその後に付いていく。
「カーティス、どうしたの?」
「これからヴィルヘルム派の集会があるんだ。それに顔を出すところだよ」
「そう、なんだ。お疲れ様だね」
「お互い様さ。ところで彼はどうしてる?」
「今日は、予定が、あるみたい、だったから、別行動を、とってるの。用が、あるのなら、無賃宿を、訪ねたらいい。502を、借りてるから」
「いや、用というほどの事じゃない。ただどうしているか気になってな。とても強い人だったからもしこの街を気に入って少しでも長く留まってくれたらと思っただけなんだよ」
「うん、そうなったら、良いよね」
「それじゃあ、また。セシル嬢も」
カーティスが去るのにぺこりと頭を下げてセシルは見送った。
食事を終えても少しの間、レーアとセシルは会話をして楽しい時間を過ごした。
去り際にセシルが言った。
「カーティスさんまで強いって言うなんてよっぽどすごい人なのね、そのレーアの新しいお友達は」
「うん、とっても、強い人よ。でも、私は、それほど、長居は、しない、と思ってるの」
そう、いずれ出ていくだろう。彼はきっと、そして私もとレーアは思った。
セシルが手を振って教会の方へと戻っていく。彼女のゆっくりとした歩みと空を仰いで眩しい陽の光を遮るために目の上で手庇を作った。その様子を見ていたレーアは絵画を見るような気になって見惚れるようにその場で立ったままセシルが見えなくなるまで見送るのだった。
自宅へ帰ろうと歩き始めるとある公園の中でしゃがみ込んで何かを調べている様子のミケルを見つけた。のんびりと街を歩いていた彼女は本来そうしたゆったりとした日常の流れが好きな性格だったし、散歩は日課にしているのでわざと遠回りをして歩き回っていた。
その末にミケルを見つけたのであるがほとんど探していたと言っても過言ではない。
セシルと別れてから彼女はミケルの事を考えていた。
彼は今、何をしているのだろうかと頭の片隅に生まれたこの疑問は湖面に生じた波紋のように彼女の心の隅々にまで波及して行動に移させた。
「何を、しているの?」
レーアは近づいてミケルに尋ねた。
「この前にレーアを送って行った帰りに無賃宿の梟たちがここで狐を襲っていたんだ。明るくなった時間に辺りを少し調べていた」
「梟たちが、狐を」
「そうだ。良くあるのか?」
「ううん。あまり、見ない。ここの宗派には、獣に、姿を、変える術を、持った宗派が、あるから、そこの信徒たち、かもしれない。でも、その信徒の、中で、誰が、どんな獣に、姿を、変えられるのかは、明かしては、いけない事に、なっている」
「なるほど、信徒たちの争いの可能性があるわけか」
ミケルは立ち上がってレーアを見た。彼女は身軽な格好をしていて服装もごく平凡な格好をしている。
「散歩か?」
「うん。今、友達と、ご飯を、食べた、帰りなの」
「そうか」
友達という言葉にミケルの反応は大きかった。初めて見えた動揺のように見えてレーアは改めてミケルの当初の目的を思いだすのだった。
「探し人は、見つかった?」
「いや、見つからない」
ミケルは淡々とそう答えた。どうやら少しの手がかりも見つかっていないらしいとレーアは察した。
「あそこへ座らないか?」
ミケルが指で示したのは木製のベンチだった。
それは遠いようで近くに見えた。
レーアはこの突然の提案にこっくりと頷いて応じた。ゆっくりとベンチへ歩いていくミケルの背をそれよりも遅い足取りで追っていく。
何かが始まろうとしているという予感がレーアにはあった。