第10章 闇に光る2つの眼
ミケルに癒された狐は闇を疾駆していた。この街の建物は隣接している建物が多い。いや、ほとんどが隣接していて路地などという暗い小道は存在しなかった。
2匹の梟の事はよく知っている。その場を離れたのはミケルから距離をとっただけの事で再び動き始めた狐を追って闇の空を羽ばたいているはずだった。
梟の羽ばたきはよく聞こえている。
梟からの追撃を避けるために狐は果物屋の軒下に入った。すでに店は閉まっているが僅かに突出する軒が梟の追撃の手を防いでくれる。
現に梟たちは軒下に隠れた狐を逃すまいと上空を旋回している。
軒下に隠れている狐は更に店の奥へと入って行った。幸か不幸か戸口は開いている。
「静かにしていろ、お前たちは何をしてそうなった?」
呻き声が聞こえる。狐は動物特有の勘と足さばきで音を殺して戸口の傍の闇の中に潜んでいる。声の主の顔を見ようとはしない。それは危険すぎた。
「言え」
「コトブスの谷に足を踏み入れたんだ。噴き上げる飛沫を浴びてしまったんだよ。それだけだ。たったそれだけさ」
「それだけ?」
どんと机を叩く音。どうやら男は酷く怒っているようだ。
「我々の教義はなんだ?」
「我々の教義は死を乗り越える事だ」
「そうだ、答えてくれて嬉しいよ。てっきり忘れているものかと思っていた。だが、きみは覚えているかな。死を逃れているに過ぎないという事を。我らの教義は逃れる教義ではない。乗り越える教義なのだ。それを、飛沫に体を晒しただけで再び祝福を得に行くなど言語道断だとは思わないか?」
「許してくれ、不注意だったんだ」
息を長く吐く音。男は命乞いをしている目の前の男に心底から失望しているようだ。
「祝福を得てどうする?」
「教義に従うさ。教えにね。私も死を超越する肉体を求めるよ」
「素晴らしい事だね。それはとても素晴らしい事だよ。そう、もうミスなんてしないようにね」
男が立ち上がる。椅子が床を滑る鈍い音が響いた。
怒っている男が動き始めると狐は警戒した。彼は怒りを収めてすらいない。いや、むしろ先ほどよりもさらに募らせている。
「そう、来世でね」
男の悲鳴が聞こえると同時に床に倒れる音ともがき苦しむ呻き声が聞こえる。
「ま、待て。大した失敗じゃないぞ。こんな事が許されるはずがない!」
残された男が椅子を蹴って立ち上がると怒っていた男に襲い掛かる。それを男は持っていた凶器で軽くあしらうと2つのもう決して蘇りはしない死体が出来上がった。
「許されるさ。許されないのはあなたたちのような教義を汚し、神の祝福を汚す存在だ。死してなお許されない罪だよ。来世などという慰めも分からないとはね」
男がゆったりとした足取りで戸口の方へと向かってくる。凶器に付着した血をふき取る音が聞こえる。そしてふき取られた布が落ちた。血まみれの布が床に落ちて来た。それは狐の目の前で怯える事も震える事も許されない。
外へ出た男は上空を旋回する梟たちに目をやった。羽ばたきは狐にすらも聞こえている。男の耳に届くのは当然だと言えるだろう。
「やれやれ、クロイン派の連中か。きみたちの教義は認めるが好きにはなれないよ」
男が闇の中へと消えていく。
狐は転がる死体と広がる血の沼の中へと足を踏み込まぬように気を付けながら裏口からそっと出て行った。
梟の羽ばたきはもう聞こえてこない。いくらか警戒しながら狐は進み続けた。
もう住処には戻れない。きっと梟の羽ばたきが聞こえるだろうから。
狐は見慣れている夜の街の中へと入り込んでいく。
どこかで落ち着きたいと思った狐は川にかかる橋の下を目指して走った。
逃げたと考えられている狐は捜索が続けられる事だろう。それほど悪い事をしたつもりはないがどうやら狐は付け狙われる事になったらしい。
隠れる場所となると路地のないこの街では限られる。いずれここは見つかるかもしれない。だが、そうした橋の下や川の側に開けられた下水道の地下道はこの街の下で広がっている。それはとても広くて狐にとっては庭も同然なのだった。
それに何かの下というのはそもそも梟の飛ぶ空を奪う。狐にとってはそれだけで有利だった。
橋の下のいくらか汚れた地面に降り立った時、その河岸に漂う雰囲気がいつもと違う事に気がついた。
下水道を棲家にしていた小動物が多い。下水道の中から出て来ているようだ。拳大の鼠が何十匹と狐の視界に入っている。
下水道の円い管の奥からやって来る少量の汚れた水が河へと流れ込んでいる。管の中は真っ暗で水の音とそれがどこかから滴る音だけが聞こえて来る。いつもなら何かが這いずる音や鼠が物を齧る微かな音が聞こえて来るのにこの日は違っていた。
そうした違和感に気付いていながらも狐は外にいるよりはこの管の中で過ごした方がいくらか過ごしやすいのは間違いない。
鼠の様子を繰り返し振り返って狐は決心して下水道の中へと入って行った。
徐々に小さくなっていく灯りを背に狐は下水道の奥へと入り込んでいく。
角を一つ曲がった。もう一つ、また一つ。
長い真っすぐな道のりに入る。そこは上にまた別の管が開いていて下水が流れ込んでくる。
滴る水の音は明らかに固形物を含んだ音を鳴らして落ちていく。
臭いは酷い。自分の朱色の体毛に汚れが付く。
直進を抜けるとそこには大きな空間が広がっていた。そこはいつもなら鼠の巨大な巣となっているはずの空間だったのに今はもうもぬけの殻だった。
狐の眼にはそこにはどんな生き物の姿も映らない。動いているのは水だけでその規則的な音だけが耳に届いている。
だが、狐の直感がそこに入らない方が良い事を告げている。
とにかく周囲の様子を調べる事から始めようと狐は長い時間をその大きな空間と下水道の出入り口を繋げる管の壁際で待つのだった。
腹が減るし、喉も乾く。
もう少し待とうと狐は命への執念でそこで時が過ぎるのを待ち続けた。空を旋回して狐を探しているであろう梟の事を考えた。そしてこの下水道に生じている違和感の事も。
そのどれかが、いやどちらもかもしれないが時間が解決してくれると狐は踏んでいる。
そして飢えか渇きかどちらかがより深刻になった時に狐の対角線にあった管の向こうから何かが這いずってやって来る音が聞こえた。
ずりずりずりずりと音がする。これを苦にしている様子がないのを見るとこの音の発生源はそうするしかないらしい。その這いずる音の合間に聞こえるしゅるしゅると息を吹くような音も聞こえる。
そしてその音はとても大きい体を思わせる。あるいは1匹や2匹じゃない。もっとたくさんの徘徊者。
狐はその音を出す者の正体を見ようと息をこらしてその場で待ち受けた。
管の暗闇の向こうにひっそりと浮かぶ2つの赤く細長い眼を見るのだった。次いでしゅるしゅるという音を出す口と鼻、舌を出しては入れる擦れた音が辺りに響く。
1匹の蛇がそこにいた。蛇は狐と同じように管の中からその大きな空間を見回している。そしてその広間の中に生命が何もいない事を認めると管の中から這い出て来るのだった。
姿を見られたら狐は死ぬと思った。
蛇の存在はとても良くなかった。この街の宗教は蛇を嫌う。悪徳の権化として蛇を退けている。一説では蛇を退けるための魔法がかけられているという噂までも流れるほどだった。
その噂を信じるならばこの蛇は蛇であって蛇ではない。異形の存在と思われるかもしれない。
加えて狐は戦いたくもない。蛇との戦闘は全く心得がないのだ。何をどうしたらよいのか、どこでどのように攻撃してくるのか。全く知らないのである。
すると狐の潜む管のある壁側の反対の端の管から音がした。小さな音だった。だが、確かな音がすると蛇は一瞬でそこまで跳躍して距離を詰めた。次の瞬間には鼠が短い悲鳴を上げるのが聞こえて来た。
それを見た狐は即断した。逃げる。ここに新しく潜み始めた蛇は強力だ。どこからやって来たのか、何のためにやって来たのか分からないが途轍もない力を持っている。
だが、それと同時に考えた。この蛇と梟たちを闘わせよう。そして堂々と外を歩くのだ。